水晶の空 [ 3−7 ]
水晶の空

第三章 少女 7
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 二年間も使われていなかったにもかかわらず、王妃の居間は手入れが行き届いていた。露台に向かって開かれた大きな窓から日差しが降り注ぎ、部屋の中は屋外と同じように明るかった。
 アイネリアはシルファに椅子を勧めると、自分もその向かいに腰を下ろした。シルファも礼を言ってそれに倣ったが、動きがぎこちなくなっているのが自分でもわかった。
 アイネリアはセレクの義母であり、シルファにとっても義母である。しかもシルファは、敵国から嫁いできて間もない妃だ。アイネリアの目からどのように見られているかはまったくわからない。ただ、注意深い目で観察されていることだけはよくわかる。
 シルファが座ったきり顔を上げられずにいると、アイネリアの雰囲気が急に変わった。目を上げて見てみると、王妃は笑っていた。
「そんなに緊張しないで。詰問するために呼び止めたのではないのだから」
 ここに来る前よりはずっとくだけた口調に、シルファは拍子抜けした。詰問とまでは行かなくとも、それに近い応対をされるのだと思っていたのだ。
「義理の母なんてなるものではないわね。息子には煙たがられる、嫁には怖がられる」
 言葉だけなら当てつけがましい愚痴に聞こえるが、アイネリアの口調はどこまでも明るく軽やかだった。シルファの緊張を解きほぐそうとしてくれているのが伝わってきた。
 シルファは思わず微笑んだ。
「セレク王子は、義母君のことを煙たがってなどいらっしゃらないと思います」
「私と二人で話すのは気が進まないようだったけれど」
「義母君にご心配をおかけしているのが忍びないだけでしょう。お倒れになったことも本当はお知らせしたくないようでしたから」
「そうでしょうね。まったく、無茶ばかりして」
 アイネリアはため息をつくと、シルファに椀を差し出した。席についてすぐに女官が茶を淹れてくれたものだ。シルファは礼を言って受け取り、口元に運んだ。
「王子が倒れた時のこと、聞いています」
 アイネリアが自分の椀を傾けながら続けた。
「あなたが王子を休ませて、水明宮に渡ってくれたのですってね。セフィードの王妃として、王子の義母として礼を言います。本当にありがとう」
「いいえ。私は自分にできることをしただけです」
「結界に異変が起こったことで疑われていたというのに、よくそんなことができたわね」
 シルファは椀を置こうとした手を止め、アイネリアの目を思わず見つめた。蔑むでも訝しむでもない、率直な瞳がシルファを見返してくる。
 詰問するために呼んだのではない、というのは嘘だ。シルファはそう確信した。
「私が結界を傷つけたのではないかと思われていたのは、知っていました」
 シルファは硬くなった声でゆっくりと続けた。アイネリアが率直に訊いている以上、シルファも率直に答えるしかない。
「ですが、あの時は私が魔力を使う以外のことは考えられませんでした。ですからギルロードどのにお願いして、水明宮に付いてきていただきました。私がセフィードの結界に害を成したりしないことを見ていただくために」
「疑いを晴らすためにしたということ?」
「いいえ」
 シルファは即答した。
 あの時のシルファが考えていたのは、セレクを安心させて休ませることだけだった。ギルロードに同行を頼んだのは、水明宮に渡ることを反対されたくなかったからだ。
「自分が疑われていることは何でもないと思っていました。それまでは気に病んでいたのですが……あの時は王子のことが心配だったので」
「安心させるために、無我夢中でやってくれたのね」
「はい」
 シルファはうなずきながら、頬が少し熱くなるのを感じた。
 改めて思い返してみると、自分がどんなに強い感情に動かされていたかよくわかる。それをこうして他人に聞かせるのは、どこか気恥ずかしいものだった。だが、事実なのだから仕方がない。
「セフィードの未来の王妃として、この国のためにやってくれたわけではなかったのね」
 刃物のような鋭い言葉に、シルファはさっと顔を上げさせられた。
 アイネリアはシルファと目が合うと、にこりと微笑んだ。
「ああ、いいのよ。今のあなたにそこまで求めようとは思わないわ。あなたの祖国はこの国とずっと敵対していたのだし、あなたはその敵国から嫁いできて間もないのだから」
「王妃、私は……」
 シルファは何か言おうとしたが、言うべきことが一つもないことに気がついた。
 アイネリアが言ったことは紛れもない事実だ。シルファはセレクのことしか考えていなかった。セフィードの王家の一員として魔力を使ったという自覚は少しもなかった。
「そんなに縮こまらないで。私は本当にいいと思っているのよ」
 口ごもるシルファを見て、アイネリアがあっさりと言った。
「王子のことをそんなに大切に思ってくれて、義理の母としては嬉しい限りだわ」
「いいえ……」
「王宮に王子を一人で残していくのは私も心配だったのよ。自分だけで何もかも背負い込もうとするところが子どもの頃からあったから。あなたのようなお妃に来てもらえて本当に良かったわ」
 ギルロードといいアイネリアといい、一番感謝しているのは結局そこのようだ。
「私でよろしければ、これからも王子のお力になれるようできる限り努めます」
 シルファは背筋を伸ばしてアイネリアに告げた。
 アイネリアは満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。それでは、さっそくお願いしたいことがあるのだけど、いいかしら」
「はい、王妃」
「実は、セレク王子に話さなければならないことがあるの。直接お話しするつもりだったけど、倒れたばかりだからやめておくわ」
 シルファから代わりに話せということだろう。休養中のセレクには言えないということは、決して明るい話ではなさそうだ。
「我が国の王のことは聞いている?」
「ご病気だと伺っております」
「二年ほど前からね。アクシスで養生していただいているけれど、ご容態が芳しくないの。今すぐお命がどうというわけではないのよ。ただ――ご政務に戻られるのはもう無理だと思うわ」
 シルファは目を見開き、言葉を失った。
 父王が回復したらリュークに戻ってくることができる、そうすれば兄の役に立てると言っていた、シェリーザの笑顔が頭に浮かんだ。
 アイネリアの手が伸びてきて、シルファの手を覆った。セフィードの王妃の顔からは笑みが消えていた。
「よろしく頼んだわ」
 アイネリアは力を込めてシルファの手を握った。
 リュークに戻ってきたのも、シルファを呼び止めたのも、すべてはこれを話すためだったのだろう。
 シルファは王妃の手を握り返し、ゆっくりとうなずいた。


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