水晶の空 [ 3−8 ]
水晶の空

第三章 少女 8
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 セレクに伝えなければならないことができた。
 シルファは東の宮を歩きながら、そのことばかりを考えていた
 アイネリアはシルファに伝言を託したが、いつ伝えるようにとまでは言わなかった。七日間の休養が終わってからのほうがいいと思うが、そうするとアイネリアたちがリュークを去った後になってしまう。
 迷っているうちに三日が過ぎ、休養期間が終わる日が来てしまった。明後日には王妃と王女たちはアクシスへの帰途につき、セレクは政務に戻っていく。
 今日言うべきか、明日言うべきか。
 決められないままシルファは足を進め、気がつくとセレクの寝室の前に立っていた。そこに先客の姿を見つけ、身を屈めて声をかける。
「レアリス王女、どうなさったのですか?」
 シェリーザも一緒にいるのかと思ったが、近くにその姿は見あたらなかった。レアリスはシルファのほうを振り返ると、身をこわばらせてその場に立ち尽くした。手には小さな白い花が握られている。
「王子のお見舞いにいらしたのですね?」
 シルファは思わず微笑んだが、レアリスはうなずきもせず黙ってうつむいた。
「私もそうです。一緒にお入りになりましょう。王子はきっと喜ばれますよ」
 レアリスは首を横に振り、シルファに手を突き出した。その手が握る白い花をシルファが思わず受け取ると、レアリスはシルファに背を向けて駆け出して行ってしまった。
 やはり、シルファはレアリスに怖がられているらしい。無理もない。物怖じしない大人でさえ敵国の王女にはなかなか気を許さないのだから。あれほど幼い、しかも内気な少女が簡単に心を開いてくれるはずがない。
 シルファはそう言い聞かせて自分を納得させたが、セレクが妹の顔を見る機会を奪ってしまったことは申し訳なかった。レアリスが残していった白い花を見つめる。せめてこれだけはセレクに届けなければと、シルファは寝室の扉を叩いた。返事はない。眠っているのだろうかと思い、できるだけ音を立てずに扉を開いた。
 背後で扉を閉め、静かな足どりで寝台に歩み寄る。
 思ったとおり、セレクはそこで眠っていた。毛布が胸のあたりまではだけているが、そんなことは意に介さず安らかな寝息を立てていた。
 腕の下にはさほど厚みのない書物が隠れている。読みながら眠ってしまったのだろうか。
 シルファは思わず微笑み、その本を取ろうと手を伸ばした。腕と寝台の間から本を抜き取った瞬間、セレクが目を開けてシルファの顔を見上げた。
「申し訳ありません、お起こししてしまいました」
「――いや」
 セレクは横たわったまましばらくシルファを見上げていたが、やがて緩やかな動きで体を起こした。シルファは手を貸そうとしたが、花と本で両手が塞がっていると気付く。シルファがどうしようか迷っているうちに、セレクは寝台の上で背を伸ばしていた。
「ご気分はいかがですか?」
「もうすっかりいい。よく眠っていたようだ」
「今日でご休養も終わりですね」
 シルファは右手に持っていた本をセレクに返し、左手が握っている花のことを思い出した。
「妹君がこれを」
 シルファが花を差し出すと、セレクはそれを見て微笑んだ。
「レアリスか。一緒にここには来なかったのか?」
「入ろうとなさっていたところに私が来たので、これを渡して行ってしまわれました。――お可哀想なことをしてしまいました」
「いや。シルファにこそすまないことをした」
 セレクは手にした花を見て、シルファの顔を見た。
「レアリスは人見知りをするんだ。親きょうだい以外にはなかなか打ち解けないが、気を長くして待ってやってほしい」
「そんな。レアリス王女が私を避けるのは、当然のことだと思います」
 セレクの表情が曇るのを見て、シルファは自分の言葉を悔やんだ。けれど、口に出してしまったことは取り戻せない。
 セレクが倒れた日の前の晩、シルファが彼に言ったことも。
 あれから十日ほどの時間が流れ、改めて振り返ることも難しくなってしまった。今さら謝ったところで、済んだことを蒸し返すようでかえって不快にさせてしまうかもしれない。
「……シルファ?」
 黙り込んでいるシルファを見て、セレクが気遣わしげに声をかける。レアリスに避けられていることをシルファが気にしていると思ったのだろう。
 シルファは慌てて首を振り、セレクの目を見て、また黙った。
 時間が経てば経つほど、謝ることは難しくなる。
 そして、謝りたいという気持ちは、どんどん大きくなる。
 この先セレクと打ち解けることができても、ここで謝らなかったことは永遠に溝として残るだろう。セレクにはその溝は見えていないかもしれないが、シルファにははっきりと見えている。
「王子、私は」
 シルファは思い切って口を開いた。
 アイネリアの言葉を伝える前に、シルファには言わなければならないことがある。
「私は――あなたに謝らなければなりません」
「謝る?」
 セレクはきょとんとして問い返した。心当たりはないようだった。
 だからと言って、シルファが謝らなくてもいい理由にはならない。
「あの夜――あなたが遅くに東の宮にお帰りになった夜、私はあなたにひどいことを申し上げました」
 自分の側では安心して眠れないだろうと、だから帰ってこなくてもいいと。
 心身ともに疲れきっていたセレクに、シルファはそう言った。そしてセレクはきびすを返し、次の日に倒れた。
「ずっと後悔していました。あなたが倒れてしまわれたのも私のせいです。本当に申し訳ありませんでした」
「いや、違う」
 セレクが即座に答え、シルファに向かって手を伸ばした。すぐに自分の手を見つめ、我に返ったようにそれを下ろす。しかし言葉を続けることはやめなかった。
「シルファに謝ってもらうことなど何もない」
「ですが、私は」
「私も言わなければならないことがある」
 シルファの言葉を遮るように、セレクは言った。
 口を挟ませまいとするような勢いと、シルファを見つめるまっすぐな瞳。
 シルファはふと思った。もしかすると、セレクもずっと、言う機会を探していたのだろうか。
「あの時、私が倒れた時、そなたがしてくれたことにまだ礼を言っていなかった」
「結界のことでしたら、もう何度も仰っていただきました」
「そのことではない。いや、そのことでもあるが――私が言いたいのは、その後のことだ」
 今度はシルファがきょとんとする番だった。
 結界を創るために水明宮に渡った後、シルファがセレクに何かしただろうか。
「あの時、眠っている私の側にずっと付いていてくれたのだろう。目を開けた時に声をかけてくれたことも覚えている。おかげで心配ごとを忘れてよく眠ることができた。本当にありがとう」
 シルファは何も言うことができなかった。
 あの夜、セレクの寝室に付き添っていたのは、シルファが勝手にしたことだ。セレクが倒れたことで責任を感じ、容態を心配していたから。そして、セレクが目を覚ました時、無理をしないよう言い聞かせたかったからだ。
 シルファが側にいたせいで、セレクはよく休めなかったかもしれないと思っていた。まさか感謝されているとは思ってもみなかった。
「私こそ、お礼を言っていただくようなことは何もしておりません。私のせいであなたが倒れてしまったので、せめて落ち着かれるまではお側にいようと思ったのです」
 セレクはゆっくりと首を振った。
「シルファのせいではない。私が、自分のことを過信していたせいだ」
「え……」
 シルファは否定しようとする勢いを失い、黙ってセレクのことを見つめた。
 セレクは苦笑して続けた。
「義母上に言われたのだ。守るべきものがすでにたくさんあるのに、また増やしては何一つ守れなくなってしまうと。私はこの国も、そなたのことも自分が守れると思っていた。結局それができなかったせいで、そなたに辛い思いをさせた。許してほしい」
「そんな」
 シルファは首を振り、さらに続けようとしたが、ふとやめた。このままではお互い、謝っては否定し、また謝るの繰り返しになってしまう。
 セレクの顔を見ると、やはり苦笑を浮かべたままだった。アイネリアに言われたことをこの数日ずっと考えていたのだろう。自分が守るべきものを守れなかったと思い知らされるのは、セレクにとって何より辛いことだったに違いない。
「私は、あなたに守られるために嫁いで参ったのではございません」
 シルファはそう言うと、セレクの顔をまっすぐに見つめた。
 以前にもこれと同じような言葉を口にしたが、あの時よりもはるかに落ち着いていた。
「そうだな」
「あなたに私を守れないと申し上げているのではありません。初めてお目にかかった時、私が言ったことを覚えておいでですか」
 初めて会ったのはセフィードに着いたその日、水明宮でのことだ。
 和平のためにシルファに犠牲を強いたと詫びるセレクに、シルファは言った。
「私たちは盟友です。そう申し上げました。王子も同じようにお考えなのだと思っておりました」
 この言葉を実現するために、シルファはセフィードに馴染もうと努力した。エレセータ語を話すのをやめ、セフィードの衣装を纏い、セフィードの風習を身につけようとした。
 セレクはそんなシルファを賞賛してくれたが、シルファに助けを求めることはしてくれなかった。シルファがそれをはっきりと言葉に出して望んでも。
「目的は同じだと、王子は仰いました。私は和平のためにあなたの元に嫁いできて、あなたは和平のために私を娶られた。ならば、私だけがあなたに守られているのは公平ではありません」
 セレクはしばらくシルファを見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「これからも、そなたに助けを求めてもいいと?」
「そうです。同じ目的のためなのですから」
 シルファは答えながら、実際は少し違うことに気づいていた。
 アイネリアに指摘された通り、シルファがしたことはすべてセレクのためだった。セフィードのためでも、二国の和平のためでもなかった。
 だが今は、そんなことは問題ではない。
 休養を終えたセレクがまた一人で重圧を背負い込むのではなく、その一部でもシルファに分け与えてくれたら。
 急に手首に何かが触れ、シルファは思わず叫びそうになった。見ると、セレクの手が寝台から伸ばされ、シルファの手をつかんでいた。
 鼓動が止まるかと思った。このまま引き寄せられるような気がしたからだ。
 しかし、セレクはそうせず、ただ小さく呟いた。
「ありがとう、シルファ」
 セレクの目はシルファの目をじっと見つめている。笑みは浮かんでいなかった。
 シルファはそれを補うように、心から微笑んだ。


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