王の鍵
第四章 王冠 3
ユーシアとライはアネイラとその家族に何度も礼を言い、イネッドの村を後にした。アネイラはそっけなく挨拶に応えつつ、ふたりに水筒と携帯食を持たせてくれた。アネイラの下のふたりの子どもはユーシアにしがみつき、上の娘はユーシアが教えた聖歌で送り出してくれた。
教わったとおりダクルートまでは近くなかったが、ライがディアレス西州の地理をほとんど頭に入れていたため、道に迷うことはなかった。路銀がなかったので、人里のある土地では聖堂に泊めてもらい、そうでないところでは野営をした。
ふたりだけでいる時も、ライは自分が打ち明けた気持ちについて決して触れなかった。旅の途上ではユーシアを気遣い、いたわってくれたが、必要もなく甘い言葉を口にすることは一度もなかった。軽口ばかりきいていた最初のころからは考えもつかないが、たぶんこちらが素の性格なのだろう。
イネッドを発って五日目の朝、歩きはじめてすぐに海が見えた。それからすぐに、州都ダクルートの巨大な城壁が見えてきた。
州都に入ってすぐ、ユーシアは前に来た時との違いに気がついた。大通りを行く人々がずっと少なく、活気がない。商店の半分以上が扉を閉めている。道端にいた幼い少女が退屈そうに俗歌を口ずさみ、家から飛び出してきた母親に叱られていた。街のすべてが喪に服してでもいるようだ。
「何かあったのですか?」
ユーシアは道を行く男に声をかけた。彼は物売りらしく果物がいっぱい入った籠を掲げていたが、いつもは繰り出しているであろう売り文句はいっさい口にしていなかった。
「知らんのか。西州公閣下が亡くなられたんだよ」
巨大な木の扉の前に来るまで、ライは一言も口をきかなかった。ユーシアも彼にどんな言葉をかければいいのかわからず、黙っていることしかできなかった。
甲冑を身につけて扉を守っている兵士たちを見て、ライはようやく口を開いた。
「エリアス公子に取り次いでくれ。兄が父に会いに来たと言えばわかると思う」
兵士たちはわざわざ確認に走ったりはしなかった。ライの顔を数秒見つめただけで、道を空けてふたりを中に通した。
城の広大な敷地の中で、ライは決して迷わず、確かな足どりで歩いていった。ユーシアはその隣を黙ってついていった。
やがて、城の一階部分にある大きな一間にたどり着いた。そこには暗い色の服を纏ったおおぜいの男女が集まっており、ふたりが通り抜けると何人もが振り向いた。
あれは。閣下のもうひとりのご子息だ。しばらく姿を見ないと思ったが。隣にいる娘は誰だ。カリーナ・ミュリエールに似ている。
寄り集まってくる無数の声を無視しながら、ユーシアはライと並んで進んだ。広間のいちばん奥までたどり着くと、そこにはそびえるほど高い背もたれの椅子があり、見覚えのある少年が腰を下ろしていた。彼はライを見て目の色を変えたが、隣にいるユーシアに気がつくと、立ち上がって高らかに告げた。
「ウォルカーン卿以外は引き上げろ」
ざわついていた群衆が急に静かになった。人々が首を傾げながら広間を後にすると、残ったのはユーシアとライ、再び椅子に腰かけたエリアス、その隣に影のように付き従っていたウォルカーンだけになった。
「生きてたのか。下賤の人間はしぶといな」
エリアスがどこか投げやりに言った。人が少なくなった広間には、その何気ない声でさえよく響いた。
「ライ、すでに聞いたと思うが、州公閣下が昨夜――」
「死んだよ。とうとう間に合わなかった。おまえが『王の鍵』を盗んだせいだ」
ためらいがちに切り出したウォルカーンの声を、エリアスが遮った。
ユーシアは思わず彼の手首を見た。『古いことば』が刻まれた腕輪は、どちらの手にも嵌められていなかった。
ひとまず安心して、今度は隣にいるライの顔を見上げた。ライは父親の死を知ってからずっと無表情だったが、今もそれは変わらなかった。沈んでいる顔ではなく、むしろ落ち着いて事実と向きあっているように見えた。
「エリアス」
「閣下と呼べ。ぼくはもうディアレス西州公だ」
異母弟に命じられ、ライはしばらく沈黙したと思うと、やがて動き出した。体を低く屈め、両方の膝を床についたのだ。ユーシアはもちろん、エリアスでさえ虚を突かれた顔をしていた。
「閣下」
ライはその姿勢のまま、エリアスに語りかけた。
「父君のご不幸に際し、お悔やみを申し上げます。無遠慮な申し出とは存じますが、父君のご遺骸と対面する機会を賜われないでしょうか。わたしのような賤しい者にも、兄弟として情けをかけていただけるなら」
不自然なほどに畏まった、聞く者によっては慇懃無礼ととらえたかもしれない口調だったが、エリアスは満足そうに笑みを浮かべた。それを見てユーシアもライの狙いを悟り、彼の隣に膝をついてエリアスに頭を垂れた。
「そういえば、おまえは父上の息子だったなあ。いいぞ、許してやろう。聖堂に行って、平民のように親子の別れとやらをすればいい」
「ありがとうございます、閣下」
ライが厳かに言って立ち上がり、ユーシアもそれに続いた。そのままふたりで広間の出入り口に向かったが、背後から冷たい声がかかった。
「待て。『王の鍵』は置いていけ」
声を発したのはエリアスだった。振り向くと、椅子に腰を下ろした少年は、疑い深そうな目をライに向けていた。
何と言ってこの場を切り抜けるべきか、ライが迷っているのがユーシアにはわかった。ここは自分が機転を働かせるべきかもしれない。そう思って口を開きかけたが、一瞬だけ早く別の声が響いた。
「いいえ、閣下。ミュリエールの娘も父君に対面させましょう」
言ったのはウォルカーンだった。この時ユーシアは気がついたが、彼は州公の喪に服している今も全身を白に包まれていた。
「だめだ。『王の鍵』を連れていかせたら、こいつは『王冠』を盗むかもしれない」
「この娘の二親は、州公の命に背いた罪人です。せめて父君の亡骸の御前に、償いの言葉を手向けさせましょう」
エリアスはその考えが気に入ったらしく、含み笑いをしながら立ち上がりかけた。
「そうか。ならぼくも行こう。この女の償いに立ち会ってやる」
「いいえ。閣下には、ここで臣民から弔意を受けるお務めがございます。わたしが行って償いを見守りましょう」
ユーシアとライは同時にウォルカーンを見た。老魔術師はすでにエリアスの座から離れ、広間の扉に向かって歩きはじめていた。半分ほど進んだところで立ち止まり、ふたりを振り返った。
「ついて来なさい」
ウォルカーンは自分たちの目的を見抜いていると、ユーシアは確信していた。
『王冠』の腕輪がまだ西州公の手首にあることは疑いないだろう。父親の手からそれを外したのなら、エリアスはすぐ自分の手に嵌めるか、少なくとも自分の目の届く場所に置くはずだ。だからライも父の遺骸との対面を願い出たのだ。
西州公の手から腕輪を外し、誰も嵌めていない状態でユーシアが歌えば、『王冠』はこの世から消える。
だが、ウォルカーンが側にいる状況では、それは難しい。ウォルカーンはそれに気づいているから同行を申し出たのだろう。
なんとか言い逃れをして、ウォルカーンを遠ざけることはできないだろうか。この老練な魔術師を相手にそれができるだろうか。
歩きながら、ユーシアは何度もライを見上げた。ライも同じことを考えているのがわかったが、当惑した視線を返してきたところを見ると、自分と同じくこれと言った策は浮かんでいないようだった。
ウォルカーンはふたりに橋廊を歩かせ、城の別の棟へと導いていった。
たどり着いたのは、エリアスがいた広間よりはいくぶん狭い、天井が高く奥に長い部屋だった。ユーシアは既視感を覚え、すぐにその理由に思いあたった。ターシュの聖堂にあった、巫女たちが聖歌を捧げる場所に似ているのだ。部屋の形や構造だけではなく、高い位置にある円窓から光が射し込んでいることや、静けさに守られた独特の澄んだ空気も共通していた。
部屋の中央には、金属でできた重厚な棺が安置され、その左右に十数人の巫人と巫女が立ち並び、聖歌を捧げていた。
「下がりなさい」
ウォルカーンが声をかけると彼らは歌をやめ、引き波のように静かに棺から離れていった。彼らが木戸から出ていくと、痛いほどの静寂がその空間を支配した。
ウォルカーンは棺のかたわらに立ち、ライに顔を向けた。
「来なさい、ライ」
隣にいたライの身がこわばるのが、ユーシアにはわかった。思わず彼の手を握りしめそうになったが、短く考えた末に押しとどまった。
「閣下は苦しまれなかった。一度も意識が戻らないまま、静かに息を引きとられた。顔を見ておきなさい」
ライはひとりで歩き進み、ウォルカーンの、そして棺の側へ近づいていった。
ライと父親の関係がどうだったのか、ユーシアは聞いたことがなかった。不自由はなく育てられたこと、しかし公の面ではエリアスとの差があったことは聞いたが、それだけでは親子の仲まで推し量ることはできなかった。
ライは棺の前に立ち、中を見下ろした。ユーシアには背を向けていたので、表情はまったくわからなかった。
「ミュリエールのお嬢さん」
ウォルカーンが顔を向け、ユーシアに言った。
「そなたも来なさい」
「あの――でも」
「警戒せずともよい。本当に償いをさせようなどとは思っていない」
ユーシアがためらったのは、償いをさせられるかもしれないからではなく、ライが父の死を悼むのを邪魔したくなかったからだが、どちらにしてもウォルカーンの声には有無を言わせないものがあった。ユーシアはゆっくりとした足どりで棺に歩み寄った。
西州公ノートン・ハルバートは、以前に会った時とほとんど変わっていないように見えた。痩せ衰えた体はそのままで、目を閉じているぶん、表情がいくらか穏やかに見えるくらいだった。
この老人が『王』になりたがったことが、そもそものはじまりだった。彼がユーシアの父に『王冠』をつくらせ、母とユーシアが『王の鍵』として身を追われることになった。バルテスの北州公も、エリアスも、そしてライも、『王の鍵』を求め続けなければならなくなった。
ユーシアは亡骸の手首を見た。『古いことば』が刻まれた銀色の腕輪は、今も変わらずそこに嵌まっていた。
それから、隣に立つライの顔を見上げた。父親の死に顔を見た衝撃は残っておらず、その目はユーシアと同じく西州公の手首に注がれていた。
「これを取りに来たのだろう」
ウォルカーンの声に、ユーシアとライは同時に顔を上げた。
老魔術師は驚くべきことをした。西州公の遺骸の手を持ち上げ、そこから銀の腕輪を抜き取ったのだ。
呆気にとられているふたりにウォルカーンは腕輪を見せ、それをライの前に差し出した。
「受け取りなさい。そなたのものだ」
「え?」
「そなたの『王冠』だ。ミュリエールのお嬢さんに封印を解いてもらい、ここで『王』になりなさい、ライ」
ユーシアはライを見上げた。ライの目はウォルカーンの手にある腕輪に釘づけになっていた。
「どういうことですか」
声が出なくなっている様子のライにかわり、ユーシアは尋ねた。ユーシアも声がかすれ、喉が押し潰されたような心地がした。
「言ったとおりだ。わたしはこのライに『王』になってもらいたい。そのためにはるばる東州までそなたを捜しに行ったのだよ、お嬢さん」
ウォルカーンはユーシアからライに目を移し、続けた。
「そなたの弟は、人間の姿をした怪物だ。次代の『王』になれるのだと、閣下に幼いころから聞かされてきたためか、この島にある人も物もすべて自分のものだと思っている。あんな子どもが『王』に、それどころか西州公になりさえすれば、この島は破滅に向かう」
ウォルカーンの手が動き、腕輪がライの目の前に突き出された。ライの視線がそれを追って動いた。
「閣下が生き永らえている間はまだ良かった。だが、もう終わった。あの子はもう西州公の座に上り、次は当然『王』になれると思っている。そうなる前に、ライ、そなたが『王冠』を手に入れなさい。このディアレス西州を救ってくれ」
「おれに西州公家を継げということですか。おれは――」
「精霊の祝福を受けずに生まれてきた子だ。そんなことは問題ではない。『王』になればすべての精霊がそなたに従う」
ウォルカーンは腕輪を突きつけた。
「こんなものは冠ではない。手枷に過ぎん。ノートン・ハルバートは、死ぬまでこの枷から逃れられなかった。だが、そなたに故郷を想う心が少しでもあるのなら、どうかこの枷を甘んじて受け入れてほしい」
ライの手がその腕輪を受け取るのを、ユーシアは愕然としながら見守った。声を出そうとしたが喉が動かなかった。
ライは両手で腕輪を持ち、目を大きく開けてそれに見入った。彼の考えていることがユーシアにはわかるような気がした。
西州公の息子として生まれながら、ライは何ひとつ親から与えられず、異母弟がすべてを手に入れるのを横から見ていた。そして彼は『古いことば』を学び、『王冠』を求めるようになり、『王の鍵』を捜しにやってきたのだ。
彼が望み、手に入らなかったものが、この瞬間すべて彼の手の中にある。歌詞が刻まれただけの銀色の細い腕輪の中に。
「それを嵌めなさい、ライ」
ウォルカーンが命じた。
「そして、ミュリエールのお嬢さんに歌うように頼むのだ」
だめ、とユーシアは心の中で叫んだ。声に出そうとしたが無駄だった。
『王冠』を手にしたライが、ユーシアの目を見た。
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