王の鍵 [ 1−1 ]
王の鍵

第一章 祭り 1
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 聖堂の敷地から一歩外に出ると同時に、ユーシアは歌いはじめた。
 巫女たちとともに暮らす聖堂の中では、『古いことば』で書かれた聖歌しか歌うことは許されない。それも定められた時間に他の者と声をあわせて歌わなければならない。
 ユーシアは歩きながら、口語で書かれた俗歌を口ずさんだ。夏の終わりにふさわしい恋の歌だ。
 毎朝ひとりで聖堂を出て裏地の井戸に行き、水を汲んで戻ってくるのがユーシアの習慣だ。聖堂にいる巫女たちは今ごろ朝の聖歌を精霊たちに捧げている。巫女ではないユーシアだけはその間にさまざまな仕事をこなし、敷地の外に出る時は自分の好きな俗歌を歌う。
「おはよう、ユーシア」
 井戸の前で呼ばれ、ユーシアは振り向いた。同じ年ごろの若者が、空の桶を手にして背後に立っていた。
「おはよう、ティオ」
「今日もきれいな声だね」
 ユーシアはにっこり笑った。ひとりごとのように歌っているところを誰かに聴かれるのはよくあることだ。
「ありがとう」
「手伝うよ」
 ティオは歩み寄り、井戸の滑車から下がった縄を手に取った。このところ毎朝のように井戸の前で居合わせ、そのたびにユーシアのぶんの水も汲んでくれる。もしかしたら、そのために時間をあわせて来ているのかもしれない。
 それを裏づけるかのように、ユーシアの桶が満たされると、ティオはその言葉を口にした。
「お祭りのこと、考えてくれた?」
 ユーシアやティオが暮らしているのは、東の海に面した小さな漁村ターシュだ。夏が終わりに近づくと、村では豊漁を祝って盛大な祭りが行われる。恵みをくれた精霊たちに感謝を捧げる場だが、若者たちにとっては踊って騒ぐまたとない機会でもある。その時間をともにした相手を伴侶に選ぶ者も少なくない。
 ティオは十日近く前にユーシアに声をかけ、一緒に祭りに行こうと誘ってくれていた。
「ありがとう、ティオ。だけど……」
 ユーシアは背後にある聖堂の壁を見上げた。巫女たちが朝の務めを終える前に水瓶を満たし、火を起こしておかなければならない。
「わたしは聖堂に住んでいるから。お祭りの日も巫女さまたちと一緒にいないと」
「でも、きみはまだ本当の巫女じゃない。大巫女さまにもお祭りに行く許可はいただけるんだろう?」
 去年の祭りの前にユーシアが漏らしたことを、ティオはどこからか聞きつけていたらしい。
「あ、ごめん。ちょっとしつこいね」
「ううん。気持ちは嬉しいの、ティオ」
 やや身を引いたティオにユーシアはほほえんだ。
 嘘ではない。ティオは穏やかで優しく、偉ぶったところがない若者だ。一緒に出かけたらきっと楽しいだろう。
 だがユーシアは、彼の誘いにうなずくことができなかった。祭りにはあまりいい思い出がないのだ。それに、ティオの言うとおり本当の巫女ではないが、聖堂で彼女たちと暮らしている身だ。
「お祭りまであと五日あるから、それまでに気が変わったら教えてくれるかな。深い意味はないんだ。ただ、きみともっと話してみたいと思っているだけで」
「ありがとう、ティオ。でもわたしは無理だから。他の子を誘ってあげて」
 自分にこだわって、ティオが祭りの日にひとりになったら気の毒だ。ユーシアはきっぱりと断った。

 桶を抱えて聖堂に戻ると、響いていた聖歌は聞こえなくなっていた。巫女たちが朝の務めを終えたのだ。ユーシアは急いで厨房に向かった。
 汲んできた水を瓶に移し、桶を定位置に伏せて置く。かまどに薪をくべ、石を打って火をつける。
 朝食の支度は巫女たちと行うが、その前の下準備はユーシアの仕事だ。調理台の上に器具を出して並べていると、厨房の扉が開いて数人の巫女たちが入ってきた。
「おはよう、ユーシア」
「おはようございます。すみません、遅れてしまって」
「いいのよ。いつも任せきりでごめんなさいね」
 任せきりと言っても、ユーシアがひとりでこなすのは最初の準備だけだ。清貧と勤勉を重んじる巫女たちは、身のまわりのことはすべて自分たちで行う。
 ユーシアは入ってきた三人の巫女とともに朝食の準備にとりかかった。大鍋に水を張り、かまどの上に掛ける。根菜の皮を剥いて細かく刻む。聖堂では肉食は禁じられていないが、肉や魚を口にするのは決められた夜だけだ。
 再び扉が開き、新たにふたりの巫女が入ってきた。
「今日は使えるのはこれだけだわ。しおれてしまったものが多くて」
 そう言い、香草の茎を三、四本差し出す。
 聖堂の敷地内には小さな畑があり、巫女たちはそこで自ら香草や薬草を育てている。
「このところ暑かったからね」
「水をやる時間を変えましょうか」
「ユーシア、これも刻んでおいて」
「わかりました」
 ユーシアは香草の束を受け取り、軽く水にさらした。摘みたての茎からはかすかに清涼な香りがたっている。細かく刻んで穀物と一緒に煮込めば、すっきりした味わいになるし健康にもいい。
 六人が集いやや手狭になった厨房で、巫女たちは忙しく立ち働いている。残りの半数は裏地で洗濯にかかっているはずだ。
 五十代の大巫女を筆頭に、今の聖堂には十一人の巫女が暮らしている。いちばん若い巫女はまだ十代で、十六歳のユーシアよりふたつ年上だ。彼女たちは結婚もせず、他の職も持たず、聖堂に住んで生涯を精霊に捧げている。
 ユーシアは巫女ではない。十三年前にこの村で保護されて以来、聖堂に預けられて巫女たちに育ててもらった。家族を持たず信仰に生きている彼女たちが、ユーシアにとっては母や姉のような存在だ。
「精霊の恵みに感謝をして、いただきましょう」
 食堂の席に全員が座ると、大巫女がいつもの号令をかけ、巫女たちが唱和した。
 並んで座る巫女たちは、いずれも飾りのない長衣を身に着けている。腕は長袖で、足は裾で完全に隠しているが、髪は結い上げたりまとめたりするだけで被りものは使わない。ユーシアも灰茶色の髪をひとつに編んで肩に垂らしている。着ているものも巫女たちと同じものだ。
 ここにいると落ち着く、とユーシアは思う。本当の巫女ではないけれど、村の若者と祭りに出かけるよりも、聖堂で静かに過ごすほうが自分にはあっている。
 とはいえ、本当の巫女たちの中にはそうでもない者がいるようで、食事が始まるとすぐに何人かが話しはじめた。
「お祭りが近いのに、今年はお客さまがありませんね」
「まだ五日前よ。これから来るのではないかしら」
「でも、去年の今ごろはもう何人かお泊めしていましたよ」
 聖堂は宿泊施設、医療機関を兼ねている。旅人に宿を提供したり、病人や怪我人を預かって治療したりするのは日常のことだ。特に祭りの時は離れた土地から見物や商売に来る者が多い。他の聖堂から巫人や巫女が巡礼に訪れることもある。
 聖堂からほとんど外に出ず、お互いの顔だけを見て暮らす巫女たちにとって、こうした来客はちょっとした非日常を味わわせてくれる存在だ。
「あなたたち、お祭りが楽しみで仕方がない様子だけど」
 いちばん厳格な中年の巫女が、はしゃいでいる巫女たちに口を挟んだ。
「わたしたちはお祭りには行けませんよ」
「わかっています。わたしは、ただ、お客さまが来られたら食糧が足りるかどうか心配で」
「このところ畑の香草も元気がないですし」
「ほら、やっぱりお客さまが来るのが待ち遠しいのでしょう」
「待ちわびるくらい良いではないの。道端に立って大声でお客さまを呼び込むわけでもあるまいし」
 端の席に座る大巫女が口を開き、全員がいっせいに顔を向けた。巫女たちを束ねる大巫女イオナは、現在五十八歳。高齢と言ってもいい年だが心身ともに健康で、若い巫女たちとともに労働や修練に励んでいる。
 その大巫女のあけっぴろげな言葉に、食卓では控えめながら笑いが起こった。
「どんなお客さまが現れるのか、今のうちに想像を楽しんでおきなさい。頭の中でなら美男にうっとりしても精霊たちは怒りませんよ」
 巫女たちは今度こそこらえきれず、声を上げて笑った。ユーシアもそうした。
 信仰に生きて四十年以上になるというイオナは、しばしばこんな豪快なことを言う。
「ユーシア、去年も言ったけれど、あなたはお祭りに行ってもいいのよ」
 イオナに水を向けられ、ユーシアは笑いを止めた。他の巫女たちの視線がいっせいに集まってくる。
 祭りの夜、巫女たちは聖堂に残り、精霊たちに感謝の歌を捧げ続ける。外からその歌を聴きにやってくる者を迎え入れはするが、村に出て村人たちと交流することは許されない。
「ありがとうございます、大巫女さま。でもわたし、今年もみなさんと一緒にここにいたいと思います」
「誰かに誘われているのではないの? あなたはきれいな娘だもの」
「いいえ」
 ユーシアは短く答えた。
 ティオのことが頭に浮かんだが、すぐに打ち消した。自分が他の娘のように祭りを楽しんでいるところは想像できない。

 朝食の後片づけと掃除が終わると、ユーシアは聖堂を出て村へ向かった。
 聖堂の暮らしも完全に自給自足とはいかないが、外に出る必要のある買い物はたいていユーシアの仕事になる。
 食品店で卵を、粉屋でパンの原料を買った後、ユーシアは縫い糸が残り少なかったことを思い出した。頼まれたものには入っていないがお金は足りているし、いずれ必要になるものだから独断で買っても構わないだろう。
 重い粉袋をふたつ抱えて歩きながら、先に糸のことを思い出せば良かったと悔やむ。生糸屋は商店が並ぶ通りのいちばん端だ。小さな村の中でこの道はもっとも広くて長く、でこぼこした石畳が延々と続いている。
 祭りの日が近いせいか、人通りもいつもより多い。職人や商人が忙しく行き来をし、子どもたちは輪をつくって遊んでいる。道端で若い娘に話しかけている若者は、祭りに一緒に行こうと誘っているのだろうか。鍛冶屋からは鉄を打つ音が絶えず聞こえ、荷車には夏の最後に穫れる作物がふんだんに積まれている。
 天気がいいので、ほとんどの家は二階の窓を開け放っている。屋根の上から心地よい風がやってくると、潮の香りがふわりと漂った。この通りからは漁港が近いのだ。小型船を何艘か収めるだけの小さな港だが、そこからやってくる海の恵みが村に住む者の暮らしを支えている。
 やっとの思いでユーシアが生糸屋に着くと、店の扉が中から開いた。出てきた三人の娘は話に夢中になっているようで、立っているユーシアの姿に気がついていなかった。
 ひとりに肩をぶつけられ、重いものを抱えたユーシアは数歩よろける。なんとか踏みとどまり、転ぶことは回避できた。
「あら、ごめんなさい――巫女さま」
 ぶつかった娘は謝ったが、ユーシアの顔を見て目つきを変えた。巫女さま、と呼ぶ声の色には少なからず棘がある。
 わたしは巫女ではない、とユーシアが言う前に、娘はきびすを返して歩きはじめた。他のふたりはユーシアに気がかりな目を向けつつ、やはり背中を見せて去っていく。祭りに着ていく服でも仕立てるのか、三人とも鮮やかな色の生地を手に抱えている。いま身に着けているものも刺繍やひだ飾りが施され、ユーシアが着ているものよりずっと華やかなのだが。
 卵を割らずに済んだことにほっとしつつ、ユーシアは三人から目をそらした。
 同じ年ごろの娘たちから冷たくあしらわれるのは、はじめてではない。
 原因もわかっている。去年の祭りの時、ユーシアは村でいちばん人気のある若者に誘われ、それを断ったのだ。
 オースという名の彼はユーシアより三つ年上で、若い漁師の中でもっとも腕がいいと言われている。背が高く、たくましく、年ごろの娘たちが頬を染めて彼の噂をするのを、ユーシアも何度か耳にした。
 その彼がどういうわけか、聖堂で暮らしているユーシアを祭りに誘ってきたのだ。
 ユーシアはその場で断った。祭りに行くよりも巫女たちと聖堂にいるほうが良かったのだ。それに、オースは自分の漁の腕をことさら自慢したり、年少の者にいばり散らしたりすることがあり、彼と一緒にいて楽しめるとも思えなかった。
 オースは躍起になって何度もしつこく誘い、最後には怒りに顔を歪ませて言い捨てた。おまえみたいな地味な女、誰が相手にしてやるかと。誘っている間はユーシアを村の誰よりもきれいだと褒めそやしていたのに。
 祭りが終わると、ユーシアはオースと仲のいい若者や、オースに憧れている娘たちから、冷たい目を向けられるようになっていた。
 もちろん村中の全員ではない。ティオのように親切に接してくれる者もいる。だが、ユーシアが祭りへの誘いに応じる気になれないのは、第一にこの件があったからだ。
 生糸屋を出て来た道を戻りながら、ユーシアはあらためて村人たちを見る。力仕事に精を出す男たち。はしゃいで走りまわる子どもたちと、それをいさめる母親たち。祭りの話に花を咲かせる年ごろの娘たち。
 彼らの中に自分が入れないように感じるのは、聖堂で巫女たちとともに暮らしているからだろうか。
 だが、ユーシアは巫女の一員でもない。聖堂にいると落ち着くのは確かだが、巫女たちと自分を同一のように考えるのは、彼女たちに失礼だとも思う。自分は信仰に生涯を捧げる覚悟を決めたわけではないのだから。
 生糸屋の前でぶつかった娘たちがうらやましい。彼女たちには自分の行くべき道がはっきりと見えているのだろう。着飾って祭りに出かけ、将来の夫を見つけ、この村に根を張って生きていく。ユーシアに対して冷たいのも、それだけ自分の人生を真剣に考えているからだ。
 通りから離れ、人の気配がない小道に入ると、ユーシアは歌いはじめた。
『古いことば』で書かれた歌だが、聖堂で歌われている聖歌の中にはない。巫女たちの誰もこの歌を知らないらしい。
 歌うのは好きだ。聖歌にしろ俗歌にしろ、歌っている間は余計なことを考えずにいられる。聖堂にも村にも馴染めていないことなど忘れ、自分が自分のいるべき場所に立っているような気持ちになれる。
 同じ歌を繰り返しながら歩き続け、聖堂の前でユーシアは足を止めた。
 聖堂の入り口の前に、見覚えのない男が立ち尽くしていたのである。
「旅の方ですか? 宿をお探しでしたら、この聖堂はいつでも部屋をお貸ししていますが」
 ユーシアは歩み寄った。
 夏だというのに男は外套を身に着け、大きな背嚢を背負っていた。商売か巡礼かはわからないが、旅路をやって来た者だろう。
 近くで顔を見てみると、男はユーシアと同い年くらいの若者だった。頭巾の中から覗く髪は真っ黒だが、瞳は鮮やかに青い。その目は大きく見開かれてユーシアに釘づけになっていた。
「今の歌」
「はい?」
「きみは、今の歌をどこで」
 どういう意味かと訊き返すことはできなかった。
 若者はその短い問いを発するや否や、ユーシアの目の前で膝から崩れ落ちたのだ。


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