雪に秘めごと [ 3 ]
雪に秘めごと


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 呉服商峰岡屋の長女、幸には二つの秘密がある。

 朝餉の後、幸はいつものように妹たちと縫い物を広げた。静の手つきを見守り、清の刺し方を直した後で、部屋の隅に視線を向けた。
 古い着物に身を包んだ童女が、今日も熱心に針を動かしている。
 いつもの幸ならば見えないふりをする。何かの拍子に視界に入っても、妹たちに気取られないうちに目をそらす。話しかけることなどありえない。
 今日の幸も声をかけることこそしなかったが、いつもより長く童女に視線を留めていたらしい。静が姉の様子に気づいて首を傾げた。
「お姉様、どうなさったの」
「いえ、なんでもないわ」
 幸は妹に微笑みかけたが、再び童女のほうを見た。今度は相手も顔を上げた。
 童女は幸が見ていることに気がついたらしい。針を動かす手を休め、幸の目をじっと見つめた。雪の夜のように深い、あどけない瞳だった。

「その子は、いつも同じ時刻にしか現れないのですか」
 幸と並んで立ちながら、律弥が訊いた。
 一緒に妹を捜すのも今日で五度目だ。東京は今日も曇天だが、まだ雪の姿は見せずに持ちこたえている。人出が多いのはあいかわらずで、誰もが寒さに身を丸めながら足早に歩いている。
「ええ。いつも、妹たちに針を教えている間だけです」
「一緒に教わりたいんでしょうね」
「一人でいる時だったら、もっと親身になってあげられるのに」
 妹たちの前で童女に話しかけ、手とり足とり指南するわけにはいかない。本当はそうしてやれたらどんなにいいか。あれほど縫い物が好きな様子だから、きっと熱心に教わってくれるだろうに。
 律弥も死者の姿が見える人だ。そして、橋から落ちかかっていた男児のように、困っている死者には進んで手を差しのべる。幸と同じような悩みを抱えたことはないかと思い、童女の話を聞いてもらったところだ。二人とも目線は往来に向け、律弥の妹を捜すことは忘れていない。
「今のままでも充分なのではないですか。妹さんたちに教えているのを聞くだけで満足しているのだと思いますよ」
「でも、正直言ってその子はあまり筋が良くないのです。危なっかしい針さばきをしているのを見ると、直してやりたくて」
「お師匠さんとして腕が鳴るんですね」
 律弥は明るい声で笑った。幸もつられて笑う。
「なんだか、すみません」
「何がですか」
「律弥さんの妹さんを捜すためにここにいるのに、私の話ばかり聞いていただいて」
「気にしないでください。私は楽しいですよ」
 その言葉に幸の胸は暖まる。今にも雪が見えそうな冬空の下だというのに、春の陽気に包まれているようだ。
「縫い物好きの子のことですが、しばらく様子を見てはいかがですか。お幸さんの指南を幾月か聞いているうちに、少しずつ上達していくかもしれませんよ」
「はい。あ、でも――」
 幸は言いかけて、とっさに口を閉ざした。
 自分は、来年の春には嫁いでいく身だ。だからあの童女に教えてやれる時間はもう長くない。
 そう言おうとしたのに、なぜか言葉が詰まってしまった。嫁入りが決まっていることを、律弥にまだ話していないと気がついたのだ。
 それなら今言えばいいだけの話だが、言葉が出てこない。許婚のある身で別の男性と親しげに話すなんて、はしたない娘だと思われても仕方がないから。それだけではない。言ってしまったら、律弥とのこの時間から、何かが奪い去られてしまうような気がする。
「お幸さん」
 呼びかけに振り向き、幸は仰天した。律弥の顔がすぐ目の前にあったからである。
「どうかしましたか」
「あ、なんでもありません」
 いちいち顔を近づけるのは律弥の癖だ。何度も度肝を抜かされているのに、また鼓動が速まるのを抑えきれない。
 律弥は幸に微笑みを残し、姿勢を戻して通りを向いた。幸も人捜しを続けるふりをしながら、横目で律弥の顔を密かに見上げた。
 嫁入りが決まっていると告げることで、奪い去られてしまう何かとは何か。幸にはもうとっくにわかっている。
 しかし、奪われると感じるのは幸のほうだけだろう。律弥にしてみれば、知り合ったばかりの幸に許婚がいようが、いまいが、どうでもいいことなのに違いない。
 いずれにしても今、言わなければ。幸は律弥の横顔に向かって口を開きかける。
「あの」
 そこで声を消した。横顔にまだ残っていた律弥の微笑が、引き潮のように消えたからだ。
「――ゆき」
 凍りついた律弥の口から、短い音が飛び出した。
 幸は律弥の視線を追った。左右に行き交うおびただしい人影の中、一人の娘の姿が目に留まる。遠目に見ても美しい、華やいだ容貌の持ち主だが、それに似つかわしくない鈍色の地味な着物を着ている。
「妹さんですか」
 幸は見上げて訊いたが、律弥は何も言わなかった。食い入るように娘を見つめるその目の色が答えだった。
 鈍色の着物の娘は、通りの流れに逆らわずに歩き、幸と律弥の前を通り過ぎていく。
「声をかけてみましょう」
 幼い頃の幸の経験からすると、死者には生者の声が聞こえるし、姿も見える。だからこそ律弥はこの世を去った妹を捜していたはずだ。
「律弥さん」
 幸は呼びかけてみたが、律弥は応えなかった。放心したように妹の姿を眺めながら、ぴくりとも動かなかった。
 通りの人波は流れの激しい河のようで、鈍色の娘を瞬く間に運び去ってしまう。
 気がつくと、幸は律弥を置いて、その場から駆け出していた。
 人の流れに対して垂直に割り込み、突き進んでいく。何人かと肩がぶつかり、小さな悪態も耳にする。腕に抱えた花が着物の胸に揺れかかる。なんとか人波に乗ると、鈍色の娘めがけてひたすら駆けた。
「おゆきさん」
 手首を掴むと、娘は足を止めて振り向いた。
 長い睫毛が印象的な、美しい女性だった。はっきりとした色合いで描かれた大輪の花がさぞ似合うだろう。けれども今は鈍色の着物に身を包み、不審に顔を曇らせていた。手には一輪の白い花が握られている。
「何なの、あなた」
 赤の他人にいきなり手首を掴まれれば、死者と言えども怯えるだろう。幸は娘から手を離した。
「ごめんなさい。私は、あなたをお兄さんに会わせたくて」
「――兄って」
「律弥さん。ずっとあなたの姿を捜していたのよ。ほら、あそこに」
 幸は橋の脇を指さした。ガス灯と植木の間に洋装姿の律弥が立っている。妹を見つけた時から一歩も動かず、表情を凍らせてこちらを見ている。
「何を言っているの」
 娘は幸が示したほうを見たが、すぐ幸の顔に視線を戻した。心なしか顔が青ざめている。
「どこに兄がいると言うの」
「よく見て、ガス灯の足下のところに」
「誰もいないわよ」
 娘は大きな目をさらに見開き、幸を凝視している。
 そんなはずはないと幸が言おうとした時、他方から別の声が割り込んだ。
「おゆき様、誰か呼んで参りましょうか」
 風呂敷包みを抱えた、女中風の若い女だった。娘と同じく青い顔をして、この事態を呑み込めていない様子だった。
 死者である娘に女中がついている。この女中も死者ということだろうか。
「冗談を言っているわけではないのよね」
 娘は再びガス灯に目をやり、幸に詰め寄った。
「兄の律弥は、半年前に亡くなったのよ。あなた、兄に会ったことがあるの」

 ガス灯と植木の間で、幸は再び律弥と並んで立っている。
 幸の手には、稽古から持ち帰ったものの他、一輪の白い花が握られている。律弥の妹から預かったものだ。
 堂野ゆき、と名乗った娘は、幸を道の端へ連れていき、話してくれた。
 半年前、ゆきはこの橋から身を投げようとしていた。父親に結婚を強要され、思いつめた末のことだったという。
 一人で家を飛び出してきたゆきは、兄の律弥が追ってきているのに気づかなかった。きっと自分を案じてくれていたのだと、ゆきは声を詰まらせて話した。兄弟は他にもいたが、母親の違う律弥が最もゆきを気にかけていたという。
 欄干から身を乗り出したゆきは、追いついた律弥に止められた。振り切ろうとしたために二人で揉み合いになりなり、そして。
「すみませんでした」
 幸の隣で、律弥が口を開いた。
「お幸さんは、気づいているものとばかり思っていたんです」
 幸は大きくかぶりを振った。こんな時でさえ優しげに微笑んでいる律弥を見て、初めて話した時のことが甦った。
――半年前に事故で別々になりました。この世とあの世に。
 どうして気づかなかったのだろう。兄妹のうち、この世を去ったのが兄のほうだということに。
 ゆきは、兄を亡くしてから一度もこの場所に来ていなかったという。今日こそは花を手向けようとやって来たものの、いざ橋を目にすると体がすくみ、そのまま通り過ぎようとしていたそうだ。
 律弥が立っていると、幸が指し示した場所に向かって、ゆきは何度も謝っていた。ごめんなさい、ごめんなさいと。
 律弥の死を受けてゆきの縁談は立ち消えになった。身投げするまで思いつめていた娘を見て、父が考え直してくれた。当面は望まぬ結婚は強いられないと思うし、もしそうなっても次はきちんと自分の口で嫌だと言う。
 涙ながらに語る妹から、律弥は片時も目を離さなかった。話を聞き終えると、ガス灯の側から動かずに微笑んだ。
 そのことを幸が伝えると、ゆきはむせび泣いた。それから幸の手を強く握った。
――ありがとう。本当にありがとう。
 何度も幸にそう言い、律弥が立っている場所を見つめながら、ゆきは去っていった。幸の手に、兄に手向けるための白い花を残して。
「お幸さん。ありがとうございました」
 律弥は幸に向き直り、頭を下げた。
「ずっと妹のことが気がかりだったんです。でも私はこの場所から動けないようで、妹が通りかかるのを待つことしかできませんでした」
 律弥はいつもこの橋の近くに立っていた。季節が移って肌寒くなっても、同じ装いのままだった。死者である男児の姿が見えたのは、律弥自身が死者だったからなのだ。
「ごめんなさい、気がつかなくて」
 幸が言うと、律弥は首を振った。
「お幸さんのおかげで、妹がもう大丈夫だとわかりました。心残りなくここを去ることができそうです」
「ここを、去る――」
「よくわかりませんが、そんな気がするんです。幽霊としての勘でしょうか」
 心残りが消えたらあの世へ去っていく。それは確かに、話に聞く幽霊のあり方だ。
 幸には信じられなかった。目の前にいる律弥がもうすぐ消えてしまうなんて。姿も、声も、優しい心も、生きている人間と何ら変わりないのに。
「あの、それなら、妹さんを呼び戻して」
 じきに去ってしまうのなら、妹に見送ってもらったほうがいい。そう思った幸は動きかけたが、律弥は苦笑して首を振った。
「ゆきの話はもうじゅうぶん聞けました。それよりも、お幸さん、もうしばらくここにいてもらえませんか」
「え……」
「私の姿が見える人に、一緒にいてもらいたいんです」
 自分がどれほど(むご)いことをしてきたか、幸は初めて気がついた。
 何度も一緒に過ごしたのに、律弥の話をほとんど聞こうとしなかった。命を落とした時の恐怖、この世を去らねばならない無念、まわりの誰とも話すことのできない孤独、そういったものをまったく思いやれなかった。律弥が生き身ではないと気づいていれば、幸が何かの支えになれたかもしれないのに。
「私と話していたら、人にはお幸さんがおかしく思われるかもしれませんが」
 幸は強く首を振った。そんなことはどうでも良かった。
「私で良ければ、一緒にいさせてください」
 幸が言うと、律弥はまた微笑んだ。
 視界の端に白いものが舞い始めたのに気づき、幸は顔を上げた。律弥も同じほうを向く。
 ここ数日の曇り空がとうとう雪を降らせていた。通りを歩く人たちに何かを告げるように。
「降ってきてしまいましたね。お幸さん、寒くないですか」
「はい。律弥さんは――」
 幸は言いかけ、すぐ迂闊だったと気づいて口を閉じた。
 律弥は笑いながら答えた。
「寒さは感じません。目は見えますし音も聞こえるんですが、温度や香りはわからないようです」
 初めて話した時、律弥は幸が抱えている花の香りをかごうとしていた。あれは自分の知覚を確かめるためだったのだ。
「味はわかるんでしょうか。どうせなら、この体でいるうちにいろいろ試してみれば良かったです」
「……律弥さん」
 笑顔を見ているのが辛くなって、幸は思わず言った。
「笑わなくていいんですよ」
「――え」
「お辛かったら、無理に笑わないでください」
 律弥は目を丸くして、一瞬だけ真顔になった。それから、改めて微笑を浮かべた。
「ありがとうございます、お幸さん」
 けっきょく笑っている律弥を見て、幸は首を振った。礼を言われることは何もしていない。幸には、律弥の不安も苦痛も、何も取り除いてやれない。できるのはただ一緒にいることだけだ。
 あたりを舞う雪は少しずつ量を増し、幸の着物の肩や袖にも落ちた。律弥を見たが、彼の帽子や衣服には一片も付いていなかった。
「あの、これを」
 幸は手にしていた花を差し出した。ゆきが兄に手向けようとしていたのは、白い竜胆の花だった。この時季に竜胆とは珍しいが、白いものとなると更に稀だ。
 律弥はその花を見つめたが、手を伸ばそうとはしなかった。
「良ければ、お幸さんが持っていてください」
「え……」
「お礼になるかわかりませんが、せめてもの気持ちです。他には何も差し上げられるものがありませんし」
 律弥はまた笑い、肩をすくめて付け加えた。
「私が持っていたら、その花がどうなるかわかりませんしね」
 幸は何と答えればいいかわからず、手の中の竜胆に目を落とした。雪のように白い花に本物の雪がかかり、溶けることなく姿を留めている。
 ふと目を上げると、律弥も同じように幸の手の中を見つめていた。
「お幸さんで良かったです」
「何が、ですか」
「私の姿に気づいて、一緒にいてくれたのが。同じように見える人がどのくらいいるのか知りませんが、その中で出会えたのがお幸さんで本当に良かった」
 幸はたまらず竜胆の花を握りしめた。
 それを言わなければならないのは幸のほうだ。まわりを気にして死者が見えることを隠し、自分のことしか考えていなかった幸に、律弥はそうではないと言ってくれた。律弥が世を去っていることに気づかず、何の助けにもなれなかったのに、何度も感謝してくれた。
「私のほうこそ、ありがとうございます。律弥さん」
 幸はやっとの思いでそう言った。伝えたいことは本当はもっとたくさんあったが、長く話していることができなかった。秘めておかなければならない想いまで口にしてしまいそうで。
 自分に許婚がいるかどうか、そんなことはもうどうでもいい。妹のことを見届け、安心して世を去ろうとしている律弥に、余計なものを背負わせたくなかった。
 律弥が笑っているのを見て、幸も懸命に微笑んだ。見つめあうことに耐えきれず、再び花に目を落とした。
 顔を上げた時、幸の前には誰もいなかった。
 まるで最初からそうだったかのように、幸は一人で橋の脇に立っていた。雪が空いた場所を埋めるように勢いを上げて舞い続けていた。
 幸は白い花を握りしめ、律弥のいた場所を見つめ続けた。両の頬を涙が伝い落ちた。通りを行く何人かが幸を振り返ったが、そんなことは気にもならなかった。
 声もなく泣き続ける幸のまわりに、雪は刻一刻と降り積もっていく。秘密を覆い隠そうとでもするように。

「お姉様、今日もよしなにお願いします」
 二人の妹、静と清が幸の前に手をつき、小さな頭を下げた。
 幸はうなずきながら自分の針箱を開けた。針に糸を通し、縫いかけのものを広げる。静と清も同じようにしている。
 幸は部屋の隅に視線を移した。床の間の柱の前に、維新前の身なりをした童女が、今日も座っている。妹たちと同じように針を構え、幸の指南を待ちわびるようにじっと見つめている。
「こちらへおいで」
 幸はゆっくりと口を開き、童女に言った。
 童女はびくりと肩を揺らし、左右を見た。話しかけられたのが自分だと気づくと、大きな目を更に開いて幸を見上げた。
「近くへ来て、私の縫い方をよく見ているといいわ。わからないところがあったら、教えてあげるから」
「お姉様、誰と話していらっしゃるの」
 静が縫い物を手にしたまま不思議そうに訊いた。隣に座る清も首を傾げている。
 幸は妹たちを見つめ、微笑んだ。お姉様には幽霊が見えるのよと言ったら、妹たちはどんな顔をするだろう。許婚は、婚家の人たちはどう応えてくれるだろう。
 すぐには受け入れてもらえないかもしれない。幸自身でさえずっと見えないふりをしていたのだから。
 童女が立ち上がり、小さな歩幅で幸のほうへ近づいてきた。静や清と並んで、幸と向かいあう形で座り込む。手にはもちろん針と布を持ったままだ。
 目を輝かせる童女に向かって、幸はにっこり笑った。
「一緒に覚えましょうね」
 呉服商峰岡屋の長女、幸には二つの秘密がある。
 一つはあの日、雪の中に永久に埋められてしまった。明かすことは二度とないだろう。
 でも、もう一つの秘密は、今までのようには隠さない。すぐさま誰にでも打ち明けることはできないけれど、必要に応じて少しずつ明かすつもりだ。
 祖母はこれを珈と呼んだが、その珈は誰かの力になれるかもしれない。死に別れた兄妹を引き会わせたように。
 幸は妹たちと、生き身ではない童女を見やり、縫い方について話し始めた。



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