雪に秘めごと [ 2 ]
雪に秘めごと


[ BACK / TOP / NEXT ]


 誰にも言ってはいけないよ、お幸。
 お前のその珈、死ぬまで胸に秘めておおき。

「妹さんのお名前は」
 橋の脇にあるガス灯と植木の間で、幸は律弥に尋ねた。
「ゆきと申します。ひらがなで、ゆき」
 今日も花の稽古の帰り、幸は静と分かれて一人で家路についた。橋の脇で律弥と落ち合い、通りを眺め渡せる場所に立った。
 初めてここで話した日から三日。今日からは稽古のたびに、律弥の妹を一緒に捜すのだ。
「本当にいいのですか、お幸さん」
 律弥が隣で身を屈め、覗き込んできた。
 幸はわずかに狼狽する。どうもこの青年は、話す相手と顔を近づける癖があるらしい。
「構いません。私が言い出したことです」
 手伝うと言っても、こうして律弥と並び立ち、通りの人波に目を凝らすだけだ。静との約束の時刻があるのでそう長くはいられない。それでも、律弥は嬉しそうに笑い、礼を言ってくれた。
 年の瀬の近い東京の街は、日ごとに寒さを増していく。たったの三日しか開けていないというのに、前に律弥と話した時よりも風が冷たい。初雪を見る日もそう遠くはなさそうだ。
「妹さんのお姿を聞かせてください。どんな着物がお好きでしたか」
 幸が問いかけると、律弥はすぐに答えず、目を丸くした。
「何か」
「いえ、先に着物のことを訊かれるとは思わなかったので」
 雑踏の中で遠目に人を見分けるなら、顔かたちよりも着物の特徴に目を向けたほうがいい。そう考えての問いかけだったが、律弥にその視点はなかったようだ。
「女の人ならではの見方ですね。あなたに手伝ってもらえて良かった」
 律弥は微笑んだ。事あるたびに感謝され、微笑みを向けられるのが、幸にはくすぐったくて仕方がない。
「そうですね、妹は、はっきりした色合いのものを好んで着ていたと思います。浅葱色よりは藍、薄紅よりも深緋」
「お好きな柄などは」
「――すみません、女性の着物には疎いもので。たぶん花を描いたものが多かったと思います。特に、椿や芍薬のような大ぶりのものを」
 ゆきという娘は、目鼻だちのはっきりした、華やかな容貌をしていたのだろうか。幸は頭の中で、会ったこともない律弥の妹の像を結ぶ。
「お背丈はどのくらいでしたか」
「そうですね――」
 律弥はおもむろに体の向きを変え、幸の正面に立った。続いて、大きな手が自分の目の先まで伸びてきたので、幸は思わず悲鳴を上げそうになった。
「お幸さんと同じくらいです。私の胸より少し高いほどでしたので」
 幸は高ぶる胸を抑えながらうなずいた。律弥といると心の臓がおかしくなってしまいそうだ。
 もっとも、幸が一人で意識しているだけで、律弥には何のつもりもないのだろうが。
 律弥が再び通りのほうを向いたので、幸も隣でそれに倣った。
 今日もこの往来はたいへんな人出である。幸はその中に、自分と同い年くらいの、華やかな着物の娘がいないか目を配る。
 ふと視線を感じて顔を上げた。隣を見上げると、律弥が幸を見下ろしていた。
「……あの」
「すみません、お幸さん」
 律弥は細い眉を困ったように下げて、幸に言った。
「こんなことの手伝いをさせて」
「いえ、自分で言い出したことですから」
 むしろ今頃になって律弥が謝る理由がわからない。幸の顔を覗き込むよりも、雑踏の中にいるかもしれない妹を捜したほうがいいと思うのだが。
「恐ろしくはないのですか」
「……え」
「その、この世ならざる者が見えることが」
 幸は目を瞬かせた。そんなことを訊かれるとは思ってもみなかった。
「恐ろしくはありません」
 死者を怖いと思ったことは一度もなかった。
 まず、姿形が生き身の人間とまるで変わらないのだ。絵に描かれた幽霊のように、足がなかったり、ひどく醜い容貌をしていたり、逆に物恐ろしいほど美しかったりしない。おそらくは生前の姿をそのまま留めているのだろうと思う。幸と遊びに来てくれた叔母などは、話も通じたし、声にも変わったところがなかった。
 何かの怨念を持って彷徨っているようにも見えない。すべての死者と話したわけではないが、生者に危害を加えようとしている死者は、これまでのところ見たことがない。それでは何のためにこの世に留まっているのか、何かきっかけがあれば姿を消してしまうのか、すべての故人が幸の目に見えているのか、などと疑問を挙げればきりがないが、少なくとも得体が知れなくて気味が悪いとは思わない。
 幸にとって死者たちは、生きている人間と同じ、ごくあたりまえにそこにいる存在だ。
「そうですか」
 律弥は言い、また多くの人が行き交う前を向いた。
 結局この日、律弥の妹の姿は見つからなかった。

 次の稽古の日は、この冬一番の寒さだった。空には鈍色の雲がかかり、いつ雪が舞い始めてもおかしくなさそうだ。
「寒くありませんか」
 律弥が幸の顔を覗き込んで訊ねた。
「ええ、大事ありません」
「こう風が冷たいと、花にも良くなさそうですね」
 律弥は言い、幸の腕の中に目をやる。今日の稽古から持ち帰ったのは、若松と赤い実をつけた千両だ。
「構いません。今のところ雪もありませんし」
「降り始める前にお帰りになったほうがいいですよ」
「いいえ、少しの間ですので」
 悴む手に息をかけながら、幸は答えた。律弥が気遣ってくれるのは嬉しかったが、ここにいられる間は帰りたくなかった。自分でも言ったとおりほんの短い時間なのだ。
「それよりも、妹さんが見つかるといいですね」
 年越しを眼前に、通りの人出はますます量を増している。幸は真剣に目を凝らしてその中に娘の姿を追い求める。
「ありがとうございます、お幸さん」
 律弥がいつもの優しい笑みを向けてくれる。
 幸は頬が熱くなるのを感じながら、律弥の目を見ずに答えた。
「……いいえ」
「こんなことを言っては何ですが、不思議なんです。どうしてあなたが私に手助けしてくれるのか」
 それは、律弥のことが前から気にかかっていて、一緒にいたいと思ったからだ。そんなことを口にするわけにはいかないので、幸はもう一つの理由だけを述べることにした。
「初めてだったんです、このことを役立ててもらえるのは」
「――このこと」
「亡くなった方の姿が見えることです。このことで人の役に立てるなんて、思ってもみませんでした」
 律弥はもう幸の顔を覗き込んでおらず、幸と同じく行き交う人波に目を凝らしている。それでも自分の話に耳を傾けてくれている気がして、幸は勢い余って続けた。
「ずっと、このことは秘めておかなければと思っていました」
「どうしてです」
「祖母にそう言われたからです。誰にも話してはいけないと」
 叔母の四十九日の法要が済むと、幸は母方の祖母に呼ばれ、二人で話をした。
 幸が亡き叔母と話をしていたというのは、女中の口から両親にも伝わり、一時の幸は腫れ物のような扱いを受けた。しかし結局は子どもの戯れと片付けられ、大事にはされなかった。本当に見えていたのかも知れないな、幸は妹と仲が良かったから、と、父が笑いながら家人たちに話しているのも聞いた。その頃には、当の叔母の姿も幸の側から消えていた。
 ただ一人、母方の祖母だけは、笑い話と思っていないようだった。法要の後で幸を呼ぶと、二人だけになってたくさんの質問をした。本当に叔母の姿が見えたのか、話もしたのか、他に世を去ったはずの人と会ったことはあるか。
 幸がすべての問いにうなずくと、祖母は幸をひしと抱きしめた。死門に向かう子を繋ぎとめんとするような、憐れみのこもった抱き方だった。
――これからは、お幸、死んだ人間と会っても、見えないふりをするんだよ。話をするのももちろんいけない。
――どうして。
――お幸がそんな娘だと知れたら、どこの家も嫁にもらってくれなくなる。誰にも言ってはいけないよ、お幸。お前のその珈、死ぬまで胸に秘めておおき。
 祖母もまた、見える人間だったのだろうか。
 幸がそう思ったのは、それから数年後、祖母が世を去った後のことだった。祖母自身は死者として幸の前に現れてはくれなかった。ただ、祖母の言葉だけが幸の中に遺った。
――お前のその珈、死ぬまで胸に秘めておおき。
 珈。死者の姿が見えることは、珈なのだ。
 年頃が近づき、縁組みの話が現実味を帯びてくると、幸は祖母の言葉を深く理解するようになった。体が丈夫で縫い物も巧い長女のことを、両親はいつも自慢にしていた。峰岡屋のお幸様は器量は良し、気だても良し、花も針も琴も上手と評判だと、機嫌の良い父が話してくれたことがある。お前には一番の嫁ぎ先を見つけてやると言われるたび、幸は嬉しく思うと同時に不安を感じていた。
 幸には死者の姿が見え、話をしたこともあると知れば、父は、母は、どう思うだろう。店の者たちは、幸を嫁に考えてくれている人たちは、どう感じるだろう。幸に不気味な噂がついてまわったら、静や清の縁談にも、いずれ店を継ぐ弟の将来にも障りが出るかも知れない。
「祖母はたぶん、私のためを思って言ってくれたのだと思います。私が苦労をしないように」
 おそらくは、自分が同じ苦労をしたがゆえに。
 それがわかるだけに、幸には祖母を恨むことなどできない。けれど一人で秘密を抱え込んでいるのは苦しい。針仕事を覚えたがっているあの童女のように、手を差しのべたくなる死者が現れた時はなおさらだ。死者と生者の見分けがつかないために、助けられたはずの生者を助けられない時もある。
「私は、己のことしか考えていなかったということですね。秘密にしなければと思うばかりで、これを誰かのために役立てようとは思わなかったのですから」
 だからこそ、律弥を手伝うことになった今は、なんとしても彼の妹を見つけたい。
 幸は話をしながらも、流れていく人並みから目を離さなかった。
「――そんなことは、ないですよ」
 律弥がそう言ったのは、幸が口を閉じてからしばらく経ってからだった。
 幸はすでに人捜しに没頭していたので、何のことを言われたのか一瞬わからなかった。
 思わず顔を上げると、律弥の目と視線がぶつかった。
「お幸さんは、己のことしか考えない人ではありません」
「……え」
「あの子を助けようとしていたでしょう。橋から落ちそうになっていた子です」
 律弥と初めて話した日に見かけた男児だ。結局は律弥が助けたが、幸も確かに走り寄ろうとしていた。
「あの時は、あの子が生き身ではないとは思わなかったのです。早く手を貸さなければと思って、考える暇もなくて」
「そのことを言っているんです。己のことしか考えていないなら、人を助けようと駆け寄る前に、まずそれが生者か死者か考えて、死者だったら助けるのを止そうと思いますよ」
 律弥は幸を見下ろしたまま、穏やかに微笑んだ。
「あなたは、本当に必要があれば、自分を二の次にして誰かを助ける人です」
 律弥は微笑んだ顔のまま、再び通りのほうを向いた。
 おかげで幸は見られずに済んだ。律弥に言われたことで頬が赤くなり、どうしようもなく腑抜けた顔をしているところを。
 なんとか気を引き締め、自分も通りに目を戻す。律弥の妹だけは必ず見つけたいと思うと同時に、このまま見つからなければいいとも思う。やっぱり自分は、己のことしか考えていないのかもしれない。
「律弥さんは――」
 前を向いたまま幸は口を開いた。そういえば、その名を口にするのは初めてだったと気づき、どういうわけか胸が高鳴った。
 律弥も幸と同じく死者が見える人だ。そのことを他人に話すことはあるのだろうか。
 聞いてみたいと思って口を開いたが、言葉を継ぐ前に小さなくしゃみが飛び出した。冷たい風が襟首を刺すように入り込んできたせいだ。
「大丈夫ですか」
「はい……」
「すみません、何か貸せたら良かったんですが」
 律弥の手が着衣に伸びたように見え、幸はあわてて止めた。律弥は初めて会った時と変わらない背広姿で、その上に外套も何も羽織っていないのだ。
「いいんです。律弥さんが風邪をひいてしまいます」
「ひきませんよ」
 律弥は冗談でも聞いたように明るく笑った。
 その笑顔を見て、幸の頬は再び熱くなった。

 峰岡屋の近くの角へ来ると、幸は妹の姿を見つけて駆け寄った。
「お姉様、遅いわ」
「ごめんね、静」
 静は言葉ほどには怒っていないようだったが、声を落として続けた。
「別々に帰っていることが知られたらどうするの。今まではいつも私のほうが遅かったのに、このところのお姉様はどうしたの」
「ごめんね、次からは時刻どおりに戻るから」
 妹と二人並んで、角から家屋敷へ向かう。
 幸と同じく花の束を抱えた静は、門を抜けながら姉の顔を見上げた。
「お姉様、なんだかいつもより綺麗」
「……えっ」
「お顔が赤いせいかしら。風邪でもひいたの」
「そんなことはないわ。風が冷たかったからよ」
 手の甲で頬を押さえながら草履を脱ぎ、部屋のほうへ向かう。
 すると、女中の一人が足早に近づいてきた。
「お幸様、横浜から贈り物が届いています」
「贈り物ですって」
 目を輝かせたのは、幸ではなく隣の静だった。気をはやらせる妹と女中に引っ張られるようにして、幸は部屋へ足を踏み入れた。
 部屋では幸の母が畳に座り、広げた包み紙や箱を前にしていた。末の妹の清も母の傍らにいて、畳の上に目を釘づけにしている。
「わあ、素敵」
 静が歓声を上げ、花を抱えたまま畳に膝をついた。
 広げられていたのは、上品な生成色の襟巻だった。毛足が長く、見るからに柔らかくて暖かそうだ。
「これ舶来のものかしら。さすがは横浜の呉服屋さんね」
「静、花を置いてきなさい。贈り物を汚したらどうするの」
 母が静をたしなめ、それから幸を見上げる。
「幸も近くでご覧なさい。あなたの許婚からですよ」
 幸は女中に花を預け、母や妹と並んで襟巻に見入った。
 許婚から物を贈られたのは初めてではない。これまでも季節のものや珍しい舶来品が送られてきて、そのたびに女中や妹たちと喜んでいた。
「寒くなってきましたからね。お嫁に来る前にお風邪などひかないようにとのお心遣いでしょうね」
「さすがはお幸様の許婚ですね」
 背後で女中たちが口々に言っている。
「静と清にも、同じものをいただいているのよ」
「ほんとうですか」
「嬉しい。お姉様、良い方と婚約してくださってありがとう」
 静が茶目っ気たっぷりに言い、部屋に明るい笑いが響く。
 幸は笑い声に包まれながら、黙って襟巻に手を伸ばした。見た目どおりに柔らかく、暖かく、これまでに触れたどんなものよりも心地が良かった。
 許婚とは二度ほど顔をあわせているが、落ち着きと思いやりのある立派な人だ。この襟巻もこれまでの贈り物も、幸への心からの気遣いが込められているのがわかる。
 幸は襟巻に触れながら、許婚ではない別の顔を思い浮かべた。風に身を竦ませる幸に、身に着けたわずかな服を貸そうとしてくれた。
 死者の姿が見えることと、許婚がありながら別の人を想うこと。どちらがより深い珈なのだろう。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.