雪に秘めごと [ 1 ]
雪に秘めごと


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 呉服商峰岡(みねおか)屋の長女、(さち)には二つの秘密がある。

 幸は針を動かす手を止め、向かいにいる妹の手の中を覗きこんだ。
(しず)、それでいいわ。あとは、もう少し縫い目を細かくしてみて」
 上の妹、静はにこりと笑い、再び針を動かし始めた。
(きよ)も上手ね。指を刺さないように気をつけて」
 下の妹、清もうなずき、真剣な目で針を布から引き抜いた。
 朝餉の後、妹たちに針仕事を教えるのが、幸の習慣だ。幸は幼いころから手先が器用で、特に針は女中たちの誰よりも上手にできた。それなら妹たちに教えてやりなさいと父が言ったのだ。
 けんめいに縫っている妹たちを見守りながら、幸はふと、部屋の隅にいるもう一人の子どもに目を向けた。
 十になるかならぬかの童女だった。幸ら姉妹とはだいぶ距離を置き、床の間の柱の前に座り、黙って針を動かしている。時おり首を伸ばして幸を見るが、決して近づいてこようとはしない。幸らのように華やかな縮緬ではなく、色味の少ない古びた着物を着ている。
 その着物の型や髪の結い方から、維新よりだいぶ前、東京が江戸と呼ばれていた頃の者だとわかる。
 幸は自分の手を休め、離れたところにいるその童女をじっと見つめる。
 自分には、死者の姿が見える。幸がそう気づいたのは、今から十二年前。
 幸が数えで五つの時、まだ嫁入り前だった叔母が病を得て亡くなった。東京でも指折りの呉服商峰岡屋、その先代の末娘の不幸とあって、多くの人々が弔問に訪れた。
 幸は女中たちにも構ってもらえず、まだ赤子だった静の傍らで、一人お手玉が何かをして遊んでいた。そこへ、叔母が現れた。嫁入り前の若い命を散らし、今まさに多くの人から悼まれている叔母が。
 美しく優しいこの叔母を、幸は大好きだった。この時も、退屈している自分と遊びに来てくれたのだと思い、喜んで出迎えた。叔母は生前と変わらず美しく、優しく、幸の側にいてずっと相手をしてくれた。静がぐずると、叔母がその腕に抱き上げてあやしてくれた。
 静の泣き声を聞きつけたのか、女中の一人が駆けてきて障子を開いた。幼い幸はその女中を見上げ、にっこりと笑った。
――もう大丈夫。叔母様が静を泣きやませてくれたから。
 女中はぽかんと口を開け、あたりを見回してから幸に尋ねた。
――どの叔母様です、お幸様。
――叔母様は叔母様よ。ここにいらっしゃるでしょう。
 女中は叔母を見ず、幸だけを食い入るように見つめた。幸はきょとんとして女中と叔母を交互に見比べた。叔母は美しい顔に困ったような笑みを浮かべて、寝転がった静を見下ろしていた。
――もしかして、見えていないの。
 正確には、自分には見える(・・・)と気づいたのではない。自分の他の者には見えない(・・・・)と気がついたのだ。
 それよりも以前から、幸にはさまざまな人の姿が見えた。二本を差して歩く厳めしい顔の侍。頭巾を被った老齢の尼。絵や芝居でしか見たことのない白拍子にも会ったことがある。彼らにも幸のことがわかるらしく、話しかければ相手をしてくれることもあった。
 幸が見えぬはずの誰かと話していても、女中たちは大して気にとめなかった。幼子によくある一人遊びだと思っていたのだろう。
 しかし、見えているのが叔母となると話が違う。当惑する女中を見て、幸は幼心に思った。言ってはならなかったのだと。
 それから十二年。今も幸の目には、この世にいない人々の姿が見える。部屋の隅で針を動かしている童女もその一人だ。毎日、幸が妹たちに教え始めると、必ず現れる。
 童女は縫い物が好きなようで、幼いながらに表情は真剣そのものだ。手つきはあまり良くない。針の刺し方はぎこちないし、布には皺が寄っている。
 毎日こうして一緒にいると、まるで静と清の下にもう一人妹がいて、三人に教えているような気分になってくる。傍らに呼んで、針の持ち方から直してやりたい。自分の縫ったものも手本に見せてやりたい。
 本当は、こんなことを考えていてはいけないのだ。年が明ければ嫁に行く身なのだから。
 幸は縁組みに苦労はしないだろうと、年頃になる前から言われていた。事実、十六になった頃から降るように縁談が舞い込み、父がその中からいちばん良い話を選んでくれた。横浜にある同じ呉服商で、許嫁はその跡取りだ。
 死者の姿が見えることを隠していなければ、こうはいかなかっただろう。幽霊と話をする嫁など、気味悪がってどの家もほしがらない。
 幸は、熱心に縫い続ける童女を見つめ、小さくため息をついた。

 週に二度、幸は静と連れだって花の師匠のもとへ通っている。人の多い往来を妹と歩くのは、幸にとって貴重な外出の時間だ。
 東京は年を経るごとに人が増えていく。中でも髷を落とした洋装の男性の姿は、ここ数年で急激に目につくようになった。人力車を引く車夫や呼び売りの商人の声も行き交い、通りはかつてないほどの賑わいで満ちている。
 年の瀬が近いとあって空気はぴんと張りつめているが、今年の冬は温暖で、雪の影もまだ見えない。
「お姉様とこの道を歩くのも、あと少しね」
 静が楽しげに左右を見ながら言う。
「もう何年かしたら、清と一緒に通うのかしら」
「その頃には、静もお嫁入りが決まっているかもしれないわ」
「お姉様みたいにすんなりと決まるかしら。私はずっと娘でいられるほうが嬉しいけれど」
 妹と肩を並べて歩きながら、他愛のない話をする。静の言うとおり、この時間を過ごせるのもあとわずかだ。年が明けて春になれば幸は横浜に嫁ぐ。
 ふと、幸は左方に目をとめた。多くの老若男女が行き来する大通り。そのさなかで、年若い女が一人、左右を見回している。風呂敷包みを腕に抱えた女中風の娘だ。使いの途中で道に迷ってしまったのだろうか。
 幸は歩きながら逡巡した。声をかけるべきか、かけないべきか。
 果たして、あの娘は生き身なのか、そうではないのか。
 死者の姿が見えるために困るのはこんな時だ。幸には、生きている者もそうでない者もみな同じように見える。着ているものから明らかに死者とわかる場合もあるが、あの娘が身に着けているのはすべて当世風だ。これでは判別がつかない。声をかけてから死者だとわかれば、静や周囲の者におかしく思われてしまう。
 心の中で詫びながら、幸は娘から目をそらす。
「お姉様、あの方、道を探しているんじゃないかしら」
 静の声に再び顔を向ける。静は紛れもなくあの娘を指さしている。
 妹にも見えている。ということは、あの娘は死者ではないのだ。
「そのようね。声をかけてみましょうか」
 幸が言うと、静はうなずいて、さっそく娘のほうへ歩いていく。
 妹の背中を見ながら、幸は自分が情けなくてならなかった。

 花の稽古が終わると、幸は静とともに師匠の家を出た。やはり稽古に来ていた数人の娘も一緒だ。
「お姉様、今日もいいかしら」
 束ねた花を手にした静が、幸にそう訊いた。
「ええ、いいわよ」
「また、いつもの時刻にね」
 静は嬉しげに笑い、一緒に出てきた同じ年頃の娘と走り去っていく。
 幸はやはり花を抱え、妹とは逆の方向へ歩き出した。
 稽古の帰りは行動を別にするのが、幸と静との決まりごとだ。幸は一人で、静は稽古で仲良くなった余所の娘と共に歩く。戻る時にはまた一緒になれるよう、時刻を決めて家の近くで待ち合わせる。
 裕福な商家の娘は、家でも出先でも常に女中が側についている。幸が静と二人だけで稽古に通えるのは、姉妹がお互いから離れないという暗黙の了解があるからだ。その信頼を裏切って一人で歩くことに後ろめたさがないわけではない。だが、幸にとっては嫁入り前の貴重な時間だ。言い出したのは静だが、幸にとっても束の間の一人歩きは楽しい。
 切り花を腕に抱え、賑わう東京の街並みを眺める。静と帰宅を揃えるため、帰りは行きと違う、やや遠回りになる通りを選ぶ。この光景を見られるのもあとほんのわずかだ。
 水路にかかる橋の近くまで来て、幸は足を止めた。橋のこちらがわ、ガス灯と植木の間に、一人の青年が立っている。
 年の頃は二十歳ほど。山高帽に三つ揃いという洋装に身を包んでいる。連れはなく、立って何をするでもなく、誰かを待ちわびるように一人静かに佇んでいる。
 幸は足を止めた自分を叱り、なるべく青年を見ないようにして歩き続ける。
 呉服商峰岡屋の長女、幸には二つの秘密がある。
 一つは死者の姿が見えること。
 もう一つは、稽古の帰りに必ず見かけるあの青年のことが、いつ何時も頭から離れないことだ。
 はじめに青年を見かけたのは、静と分かれて帰るようになって間もない時だった。青年は今と同じように橋の脇に立っていた。洋装の男性はここ東京では珍しくないが、この青年はすらりとして姿が良く、仕立ての良さそうな三つ揃いが似合っていた。しかし、幸が目を惹かれたのはそこではなかった。
 それではどこに惹かれたのかと問われても、幸も自分の心がよくわからない。青年がいつも同じ場所にいつも一人でいること。誰かを待つような佇まいが少し寂しげに見えること。時折はっと目を上げて雑踏を見つめ、落胆したように肩を落とすのが印象的だったこと。そのすべてが理由であるような気もするし、すべてが違うような気もする。
 ただ、幸はここを通るたび、同じ橋の脇に目を止めてしまう。姿を目にするだけでは飽き足らなくなり、一度でいいから声を聞きたいと思ってしまう。
 嫁入り前の身でこんな不埒な思いを抱くなんて、いけないことだ。死者の姿が見えることと同じくらいに。
 幸は青年から目をそらし、橋のほうへ足を急がせる。
 渡ろうとしたところで思わず息を呑んだ。橋の欄干に、一人の幼い男児が寄りかかり、今にも落ちんばかりに身を乗り出していたのだ。
「危な――」
 幸が手を伸ばし、男児のほうへ駆け寄ろうとした時。
 丈高い人影が脇を通り抜け、幸よりも早く男児に手をかけた。
 幸は呆気にとられて立ち尽くした。男児を救ったのは、先ほど橋の脇に立っていた、あの洋装の青年だったのだ。
 青年は男児を地面に下ろすと、おもむろに振り返った。そして幸を見て、なぜか目を見開いた。
「見えるのですか」
「……え」
「あなたには、見えるのですか」
 幸は男児に目を移して、愕然とした。
 丈の短い着物を纏った、どこにでもいるような幼子だ。けれど橋を渡る多くの通行人は、この子が落ちかかっているのを気にもとめなかった。
 この男児は、この世の者ではないのだ。
 男児は無言で青年の手から逃れ、橋の向こうへ駆けていった。幸は橋の上で、洋装の青年と二人取り残された。
 何度も見かけ、思い起こしたこともある姿が、目の前にいて、他でもない幸を見つめている。この時が来るのを待っていたような気もするが、こんな形で訪れるとは思ってもみなかった。二つの秘密を同時に暴かれたようで、頭の中が真っ白になる。
「見えるのですね、あなたは」
 青年が重ねて問いかけた。
 その口ぶりと、自分を見つめる目に気づき、幸はようやく、何が起こったのかを正しく察した。
「――あなたも」
 生き身ではない男児に、この青年は近づき、手で触れて抱き上げた。この人にも、見えるのだ。
 青年は山高帽を手に取ると、幸に一歩近づいた。
「私は堂野律弥(どうのりつや)と申します」
 いきなり名乗られ、幸はたじろいだ。その名を知りたいと、何度思ったことだろう。言葉を交わすことができたら何を言おうと、どれほど想像したことだろう。
「峰岡、幸と申します」
 幸はやっとの思いで声を絞り出した。目をあわせているのが気恥ずかしく、律弥と名乗った青年の首のあたりを見ていた。
 直視していなくても、律弥が微笑むのがわかった。
「お幸さん。少しだけ、話し相手になっていただけませんか」

 橋の脇に立っている、ガス灯と植木の間で、幸は律弥と向き合っていた。
 幸にはいまだにこの状況が信じられなかった。ずっと密かに気にかけていた青年と、二人で話をしていることが。
「お呼びとめしてすみません」
「いいえ……」
「初めてだったものですから。あなたのように、見える人と出会うのは」
 一人で立っていた時の寂しげな雰囲気と違い、律弥は穏やかに微笑んでいた。
「私も、初めてでした」
 幸が答えると、律弥の笑みが深くなった。
 近くで向き合ってみると、律弥は思っていたより背が高かった。しかし決して威圧するような感じはなく、ほっそりして物腰が柔らかい。誂え物であろう洋服は体にぴたりと添っている。
 一度でいいから聞きたいと幸が願っていた声は、深みがあって穏やかだった。立ち姿から思い描いていたのとほぼ同じ、しかしそれよりも優しい声だ。
「ここで、どなたかを待っておいでですか」
 律弥の微笑で緊張が和らいだ幸は、自分から口を開いた。
「いつもお一人で、ここに立っていらっしゃるので――」
 勢いそこまで語り、幸は我に返った。
 これでは、ずいぶん前から律弥の姿を目にとめ、気にかけていたと白状するようなものだ。はしたない娘だと思われても仕方がない。
「気づいていてくださったのですね」
 律弥は明るい声でそう言った。幸の告白を気にした様子もなく、どこか嬉しそうだった。
「いつも、お花の稽古の帰りにここを通るので」
「ああ、それで花を」
 律弥は幸の腕の中に目を移した。
「椿ですね」
「はい――お正月の練習に」
 律弥は椿の花に顔を寄せ、香りを吸い込むように目を閉じた。目の前に、ずっと気にかけていた青年の顔があることに、幸は落ち着かない気持ちになる。
「あなたの言う通りです」
「え」
「私には捜し人がいます。ここに立って、その姿が見えるのを待っているんです」
 花に顔を近づけたまま、律弥が言った。
「どなたを捜しておいでですか」
 後ずさりしそうになるのをこらえながら、幸は尋ねた。花の香りをかぐ律弥は無邪気な子どものようで、その顔が自分の手もとに寄せられていることが信じられなかった。
 律弥は花から顔を上げ、幸を見下ろした。
「妹です」
「あ――妹さん、ですか」
 幸はなぜかほっとした。その理由に気づくと、体が熱くなるのを抑えきれなかった。律弥が捜しているのは、想いをかけているどこかの娘ではないかと、心の奥底で案じていたのだ。そしてそうではないとわかり、今の幸は安堵している。
 自分は、来春には嫁に行く身だというのに。
「妹さんとは、離れてお暮らしなのですか」
 心の熱をごまかすように、幸は問いを口にした。
 律弥が、どこか哀しそうに微笑んだ。
「ずっと同じ家にいたのですが、半年前に事故で別々になりました。この世とあの世に」
 幸ははっとした。そうだ、律弥は幸と同じく見える人だ。捜し人が生き身の人間とは限らない。
「妹と私は母が違うんです。私は、その――家の厄介者で。でも、妹だけは私のことを、いつも気にかけてくれました」
 そんな可愛い妹を、半年前に亡くしたばかりなのだ。橋の脇に立っていた律弥の寂しげな様子を思い出し、幸はようやくその理由を理解した。
「妹さんは、おいくつで」
「あなたと同じくらいです」
 幸は数えで十七だ。律弥の妹も、嫁入り前の娘盛りだったのだろう。
 自分と同じ年頃で、その若い命を散らした娘を、幸は痛ましく思う。
 その不幸を悲しみ、故人の姿を求めて、いつも同じ場所に立っている青年も。
「妹さんは、このあたりにおいでになるのですか」
 幸は問いを重ねた。
 おいでになる、という言葉が死者にふさわしいのかはわからないが、律弥にとって大切な人だ。できる限り敬いたい。
「確たることはわかりません。ただ、妹は、この通りにある店を覗くのが好きでしたので」
 律弥は通行人で賑わう街並みを眺め、苦笑した。
「この人波では、妹がいても気づかないかもしれませんが」
 確かに、通りは端から端まで人の影で埋め尽くされている。足を進める人、立ち止まって話をする人、店を覗く人。商売人や車夫の威勢の良い声も飛び交い、景色は一瞬たりとも同じ形を留めていない。
 幸はふと気がついた。今こうしている間にも、律弥の妹が姿を現す可能性はあるのではないか。自分と話をしていることで、律弥はその危惧通り、妹を見逃してしまっているのではないか。
「あの、それでしたら、お話するよりも妹さんを捜したほうが」
 雑踏のほうを見ていた律弥が、幸の言葉に振り返った。
「ああ、すみませんでした。足止めをさせてしまって」
「いえ、私のことはお構いなく。ただ……今のお話の間に、妹さんが通り過ぎていらしたらと思うと」
 律弥は幸を見て微笑んだ。最初に見せてくれたのと同じ、穏やかで優しい表情だった。
「いいんです。あなたと会えて、話を聞いてもらえて嬉しかった。あなたのようなお人がいたなんて」
 幸も嬉しかった。死者を見られる人間が自分の他にもいるとわかって。ずっと気になっていた洋装の青年が、妹想いの優しい人だと知ることができて。
 これからも、花の稽古から一人で帰るたび、この場所で律弥の姿を目にするだろう。この世を去った妹と律弥が再会できるまで。
 幸の胸が疼くように痛んだ。
 妹とひとたび会えれば、律弥はここに現れなくなってしまうのだろうか。
「――あの」
 気がつくと、幸は声を出していた。
「はい」
「お手伝いを、させていただけませんか」


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