秘密のお茶会 [ 15 ]
秘密のお茶会

15.いつかふたりで
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 厨房に広がっているお茶の香りに、アイネは思わずほほえんだ。
「いい香りね、リデル」
「いちばんいいお茶にしなさいって、料理長に言われたのよ。ウィルラートさまのご出立の日だものね」
 台所女中のリデルが茶器の載ったトレイを持ち上げ、アイネに差し出した。屋敷の厨房で用意されるお茶はどれも上質のものだが、今日はその中でも特別だ。伯爵家の次男、ウィルラートがこの屋敷で飲む最後のお茶になるのだから。
 アイネは何かの儀式で使うもののように、神妙にトレイを持ち上げた。イクセルの部屋でお茶を入れた後、ウィルラートの部屋に行く。一年以上も毎日のように繰り返してきた仕事だが、今日で最後だ。
「最後の仕事、がんばってね。アイネ」
 リデルはいつもと同じ笑顔でアイネを送り出した。まるで、アイネの胸の内を知っていて、アイネを励まそうとしてくれているかのように。
 アイネはこくりとうなずき、厨房を後にした。

 伯爵家の若君イクセルは、弟が生まれ育った家を出ていく日だというのに、いつもの穏やかな様子を崩していなかった。
「いいお茶だね、アイネ」
 いつものように本を読む手を止め、アイネが入れたお茶を飲むと、イクセルは何気なくそう言った。いいお茶が選ばれた理由はわかっているはずなのに、まるで気がついていないかのようだ。
「ウィルラートさまに最後に飲んでいただくお茶ですから」
「そうだったね」
「イクセルさまは、ウィルラートさまにお別れはおっしゃらないのですか?」
 差し出がましいかもしれないと思いつつ、アイネは聞いてしまった。イクセルの様子にあまりにも変化がなかったからだ。
 リデルたちに聞いた話によると、昨日の晩餐も特にいつもと変わらないものだったらしい。小規模なパーティーを催したり、弟の門出を祝って杯を重ねたり、といった考えはイクセルの頭にはなかったようだ。かわりに今日のお茶の時間は兄弟で過ごすのではないか――アイネはそう思ったりもしたのだが、イクセルはこうして一人でお茶を飲んでいる。
「ウィルラートが言ったんだ。特別なことは何もしないでほしいって」
 イクセルは、アイネの立ち入った質問に不愉快な様子も見せず、笑顔のまま言った。心なしか、嬉しそうな表情に見える。
「自分はこれから働きに出るだけで、祝ってもらえるようなことは何もしていないからって。あの子にしては立派なことを言うものだね」
「そうだったのですか」
「アイネ・ハーヴィン」
 イクセルはお茶を置き、アイネの顔をまっすぐ見上げた。
 以前にもこうやって、イクセルに名前を呼ばれたことがあった。あの時よりも緊張するのは、イクセルが何もかも見透かしていることを知っているからだ。
「はい、イクセルさま」
「きみには苦労をかけるかもしれないから、先に言っておくよ。これから、よろしく」
 アイネはびっくりして身構えてしまった。
「いいえ、そんな」
 こちらこそ――などと答えるのは、いくらなんでも図々しすぎるのだろうか。でも、こういう場面での返事と言えばそれしか見つからない。イクセルに苦労をかけるかもしれないのはアイネのほうだし、アイネはこの先、イクセルが継ぐ伯爵家に受け入れてもらう立場なのだ。つまり、イクセルはアイネの義理の兄になるわけで――考えていたら頭がくらくらしてきた。
「困ったことがあったら、いつでも僕に言ってほしい。どんなことでもいいよ」
 アイネが返す言葉を見つける前に、イクセルがさらに続けた。以前ここで言ってくれたのと同じ言葉だ。
 イクセルは、アイネとウィルラートのことに自分から気づき、前に出ることなく見守ってくれていた。どうなっているのか問いつめるかわりに、何かあったら言いにおいでと言ってくれた。
 ウィルラートが南部に行き、屋敷に残るのがアイネだけになっても、イクセルは変わらない。進んで手を貸すことはしなくても、二人が誤った方向に行かないように見ていてくれる。
「ありがとうございます、イクセルさま」
 背筋を伸ばしながら、アイネは思った。
 ウィルラートを待つ間、アイネが何をがんばったらいいのか、イクセルなら教えてくれるだろうか。

 アイネはゆっくりと、ウィルラートの部屋の扉を叩いた。
「失礼いたします、ウィルラートさま。お茶をお持ちしました」
「どうぞ、アイネ」
 ウィルラートの声に促されて、アイネは扉を開けた。
 部屋の奥の長椅子には、伯爵家の次男が、アイネの恋人が、ゆったりとくつろいだ様子で座っていた。立ち上がらず、声もかけず、明るい笑顔だけをアイネに向けていた。
 アイネは会釈してトレイを置き、仕事にとりかかった。
 この部屋ではじめてウィルラートにお茶を入れた時のことを思い出す。アイネは緊張してかたくなっていて、ウィルラートのほうを見ることもできなかった。
 一年以上も同じ仕事を繰り返し、すっかり慣れたと思っていたのに、今日はあの時と同じくらい緊張していた。
 カップの中にお茶が満ちると、アイネは深く息を吸い込んだ。ウィルラートに向きなおり、ゆっくりと告げる。
「できました、ウィルラートさま」
「ありがとう」
 部屋の中には上質のお茶の香りが漂っている。アイネはその中をゆっくりと歩き、ウィルラートに入れたてのお茶を運んだ。
 ウィルラートはそれを受け取って、すぐには飲もうとしなかった。名残惜しむように水色を見つめ、蒸気を吸い、手の中で小さく茶器を揺らした。それから口元へ持っていった。
 アイネは片時もウィルラートから目をそらさなかった。
 どうか、どうか、美味しいと言ってほしい。
 アイネのいない場所で思い返す最後のお茶が、ウィルラートを安らがせてくれるように。
 ウィルラートはふっと息をつくと、カップをテーブルに置いた。それきり、何も言葉が出てこなかった。
「美味しくなかったですか?」
 黙っているのが耐えられなくて、アイネは思わず口を開いた。甘えるような声になってしまったことに気づいて、頬が熱くなる。
 ウィルラートはアイネを見上げてちょっと笑った。部屋に入った時の明るい笑みではなく、困ったような笑い方だった。
「美味しい、と思うんだけど――あまりよくわからなかった」
「え?」
「ごめん、緊張してるんだ」
 ウィルラートはそう言ったきり、長椅子から少しも動かなかった。
 アイネは押し黙り、ゆっくりと歩み寄り、ウィルラートの隣に座った。手を伸ばし、ウィルラートの腕に触れる。いつもならこんなことをするなんて考えられなかったけれど、今日はなぜかこうしなければならない気がした。
「――アイネ」
 ウィルラートが、急に思い立ったように、体ごと向き直った。
「はい」
「――ごめん、なんて言ったらいいかわからない」
 肩を落とすウィルラートを目にして、アイネは思わずほほえんだ。
 ウィルラートも同じだったのだ。アイネが、ウィルラートに最後のお茶を入れるのだと構えていたように、ウィルラートもアイネに最後の言葉をかけようと気負っていた。けれど、いい言葉は思いつかなかったようだ。
「いいんです。何も言ってくださらなくて」
 ウィルラートの腕に触れたまま、アイネはささやいた。
 本当に何もほしくなかったと言えば嘘になる。この先しばらく会えなくなるウィルラートから、思い出になるような言葉がほしかった。でも、ウィルラートは感情を素直に表すのは上手だが、まとまった言葉を編み出すのは得意ではない。
 そのウィルラートが、アイネに残す言葉を考えに考え、緊張までしてくれた。それだけでじゅうぶん、嬉しい。
「手紙を書くよ」
 ウィルラートがようやく、言った。
「はい。ウィルラートさま」
「できるだけたくさん書く。きみも返事をくれる?」
「もちろんです。きっと書きます」
「今度はちゃんと出してもらえるよう、何か方法を考えるよ。思いついたら知らせるから」
「ほんとですか?」
 前の時は書くだけ書いて、ウィルラートが帰るまでとっておくことしかできなかった。ウィルラートがいる場所へちゃんと届けられるなら、こんなに嬉しいことはない。
「うん。できると思う」
「ありがとうございます。お待ちしてます」
「うん」
 アイネがほほえむと、ウィルラートもにこりとした。それきり、言葉が途絶えてしまった。
 ウィルラートの笑顔を見て、アイネはふと思った。もしかしたら、何か言葉を贈らなければならないのは、アイネのほうではなかったか。アイネはウィルラートと別れるだけだが、ウィルラートは生まれ育った屋敷と、慣れ親しんだ生活と、そして実の兄と別れることになるのだ。しかもその後は、親友がいるとはいえ馴染みのない土地で、生まれてはじめての仕事を始めることになる。心細い思いをしているのはどう考えてもウィルラートのほうだ。
「ウィルラートさま、わたし」
 アイネは意気込んで言い、ウィルラートの目を見上げた。
 ウィルラートの目がアイネをまっすぐ見つめている。
 怯んでうつむきそうになったけれど、なんとかこらえた。がんばると決めたのだから、ここで逃げてはいけない。
「わたし、あの、寂しいけど、ここでがんばります」
 手で触れたままだったウィルラートの腕を、強く握りしめる。
「だからウィルラートさまも――お体に気をつけて」
 心の底から、いちばん伝えたいことを言葉にしたつもりなのに、口に出してみるとひどくありふれていて、なぜかアイネががっかりした。こんなことしか言えなかったと悔やみながら目を伏せると、急に視界が狭くなった。
 アイネはウィルラートの腕の中にいた。
 何度も、何度も、この部屋でこうして抱きしめてもらった。ウィルラートは嬉しそうだったり、辛そうだったり、そのときどきで違う顔をしていたけれど、アイネはいつも同じ気持ちだった。いつだって、緊張して恥ずかしくて逃げ出したくて、でも、とても幸せだった。
「ありがとう、アイネ」
 ウィルラートの声が、アイネの耳元でささやいた。
 アイネは抱きしめられたまま、大きく息を吸い込んだ。この声を、この腕を、このあたたかさを覚えておきたい。そう思っているとそれは離れていき、ウィルラートの目がアイネの顔を覗き込んだ。再び目があった瞬間、アイネは何も考えずに目を閉じていた。はじめから定められていたように、唇がふれあった。
 再び離れて目を開けたが、ウィルラートに笑顔はなかった。アイネの背に手をまわしたまま、泣きそうな目でアイネを見ていた。
「できるだけ早く迎えにくるから、待っていて、アイネ」
「はい」
 アイネはつられて泣きそうになりながら、なんとか笑った。ウィルラートにアイネの笑顔を覚えていてほしい。そして、アイネもウィルラートの笑顔を覚えておきたい。
 願いが通じたのか、ウィルラートがぎこちなく笑ってくれた。もう一度、抱き寄せあって頬でふれ、それからまた離れて、二人で笑った。
「約束するよ、アイネ」
「はい」
「次に一緒にいられる時は、俺がきみにお茶を入れる」
 アイネはきょとんと目を丸くした。
 それからもう一度、心をこめて笑う。ウィルラートの心に焼きつけておくように。
「はい。ウィルラートさま」

 ウィルラートの旅立ちはイクセルのとりはからいで、屋敷の使用人がほぼ総出で見送ることになった。
 上級使用人たちがウィルラートに別れを告げるのを、アイネは女中仲間たちと並んで見つめた。
「兄さんと屋敷を頼んだよ」
「お任せくださいませ」
 執事が慇懃に頭を下げる横から、家政婦のヴォリス夫人が感極まって飛び出していく。
「ウィル坊っちゃま、どうか、お体をお大事に」
「わかってるよ。また帰ってくるから、心配しないで」
 ウィルラートは家政婦の肩をさすってなぐさめた後、庭師頭のウィルを見た。ウィルはいつもより小綺麗な服を着て、使い古した帽子を胸に抱いていた。
「いろいろありがとう、ウィル。行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
「帰ってきた時にはまた庭に行くから」
「庭も、ウィルラートさまをお待ちしとります」
 ウィルラートはそれからも数人と言葉を交わし、最後に兄のイクセルに歩み寄った。
 黒い髪のほかに似ているところのない兄弟は、屋敷と馬車の間で向かいあった。近くにいた使用人たちは無言で二人から離れていく。アイネも自分の立ち位置から、黙って二人を見守った。
「行ってきます。兄さん」
「行っておいで」
 兄と弟が一言ずつ交わすと、沈黙が漂った。アイネも他の使用人たちも、次はどちらが何を言うのか待ちかまえていた。
 だが期待に反して、兄弟のどちらも何も言わなかった。かわりにお互いの手を握ると、ウィルラートが兄から離れ、一人で馬車のほうへ向かった。
「じゃあ、みんな元気で!」
 馬車の前で振り返りながら、ウィルラートが手をあげた。
 並んだ使用人たちが口々に見送りの言葉をかける。嬉しそうに声を弾ませる者もいれば、涙ぐんで何も言えない者もいる。
 みんなの声援に応えるウィルラートを、アイネは遠くから見つめていた。
 あそこに立っているのが自分の恋人だなんて、少し前なら信じられなかったに違いない。品のいい旅装に身を包み、たくさんの使用人に見送られて馬車に乗る令息と、数時間前に二人きりで言葉を交わしたなんて。
 でも、今なら揺らぐことなく信じられる。
 ウィルラートさまはわたしの、未来の夫。
 時間はかかっても、いつか必ずわたしのところに帰ってきてくれる。
 アイネはウィルラートを見つめたまま、胸の上のほうに手をあてた。ウィルラートにもらった指輪がそこにある。糸を編んで作った紐に通して、首から服の下にさげて、いつも肌身はなさず持っている。
 ウィルラートは居並んだ使用人たちにゆっくりと視線をまわし、やがてアイネのいる女中たちの列を見た。一瞬だけ視線をとめて、それまでとは違った顔で笑う。アイネも思いきり笑顔を浮かべた。
 それから、ウィルラートは馬車に乗った。屋敷に、アイネに背を向けて。

「……行っちゃったわね」
 馬車がすっかり見えなくなったころ、女中仲間の一人がぽつりとつぶやいた。アイネも、横に並んでいる他の仲間たちも、同じ気持ちで馬車が消えた方向を見つめている。屋敷の前に集まった他の使用人たちも、すぐには動けないでいるようだった。
 そんな中でまっさきに動き出したのは、先頭で見送っていたイクセルだった。彼はゆったりとした動作で振り返ると、何事もなかったかのように一人で屋敷へ歩き始めた。
 それが合図だったかのように、上級使用人たちがいっせいに目を覚ます。
「さあ、仕事に戻りなさい」
「おしゃべりはあと! 寂しがってる暇はないよ」
 女中頭に追い立てられて、アイネたちもやっと歩き始めた。庭園に、厩舎に、厨房に、洗濯室に、それぞれの持ち場に向かって動き出す使用人たちの間には、もう日常の空気が流れ始めている。
「なんだか、まだ実感がわかないわね」
 屋敷の中に入ったあたりで、イルダが急に言った。
 誰かがそう言うのを待っていたかのように、他の女中たちがすぐに続いた。
「そうなの、不思議よね」
「ウィル坊っちゃまがこのお屋敷にいないなんて」
「この間のお出かけみたいに、またすぐにお帰りになりそうだわ」
「それどころか、明日の朝にでもお部屋に行けば、坊っちゃまがいそうな気がしない?」
「するわ! わたし、うっかりお水を持っていっちゃいそう」
「アイネも間違えてお茶を運ばないようにね」
 急に話をふられたアイネは、思わず足を止めた。仲間たちがにぎやかに言葉を交わす中で、一人だけぼんやりと黙りこんでいたのだ。ウィルラートを見送って呆然としていたのを見透かされたような気がして、大慌てで首を横に振った。
「そんなことしないわ。厨房でもらうのはイクセルさまのお茶だけのはずだもの」
「アイネは大丈夫よね。ウィルラートさまから手紙をもらえるんだから」
 女中の一人にそんなことを言われ、アイネは今度こそ平静を装えなくなった。
 おそるおそる見てみると、仲間たちのほとんどが微妙な笑みを浮かべて見つめている。アイネの反応を見て明らかに面白がっている者もいる。
「やっぱり、みんな気づいていたのね」
 イルダがつぶやくように言うと、女中たちは得意になって口々に答えた。
「あたりまえじゃない」
「気づかないほうがおかしいわ」
「ウィルラートさまもだけど、あんたもたいがいわかりやすかったわよ、アイネ」
 アイネはぽかんとしていたが、だんだんと落ち着きを取り戻した。言われてみれば確かにあたりまえだ。ウィルラートのささいな変化に目を光らせていた彼女たちが、一緒に働いているアイネの気持ちに気づかないはずがないのだ。
 いったん納得してしまうと、くすくすと笑みがこぼれた。
「ちょっと、何を笑ってるのよ?」
「ウィルラートさまに言われたことでも思い出したんでしょ」
「ずるいわ、一人だけ楽しい思いをして」
「次のお茶の時間に、洗いざらい聞かせてもらいますからね」
 アイネは仲間たちに取り囲まれて、伯爵家の屋敷を再び歩き始めた。
 あちらこちらで使用人たちが動き始める気配がする。声が飛び交い、幾人もの影が階段を上下し、足音が階下へ響きわたる。屋敷中が生まれ変わるようにきれいになり、新しい一日のために必要なものがすべて生み出される。
 アイネはこの場所で、仲間たちとともに働きながら、ウィルラートの迎えを待つ。
 いつか、二人で一緒にお茶を飲む、その時まで。



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