秘密のお茶会 [ 14 ]
秘密のお茶会

14.秘密の約束
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 アイネは深く息を吸い、ウィルラートの部屋の扉を叩いた。
「どうぞ」
 聞き慣れた声が返ってきてから、ドアノブに手をかける。片手でトレイを支えたまま、それが傾かないよう注意しながら扉を開ける。ひとつひとつが毎日繰り返してきた動作だが、いまだに緊張が完全になくなることはない。
「失礼いたします、ウィルラートさま」
「アイネ」
 ウィルラートはアイネの姿を見ると、立ち上がって足早に歩いてきた。二日前とは違い、その顔には明るい笑みがあった。
「待ってたよ、ありがとう」
 そう言うと、ウィルラートはアイネからトレイを受け取った。アイネがびっくりしているうちにそれをテーブルに置き、再びアイネのほうを向く。立ち尽くしていたアイネは、気がつくとウィルラートの腕に閉じこめられていた。
「ウィルラートさま――」
「何? アイネ」
 頭の上から、ウィルラートの落ち着いた声が聞こえてくる。まるで、こうしているのがあたりまえだという雰囲気だ。確かにこういうことは珍しくなかった――ただ久しぶりだというだけで。
 アイネはウィルラートの腕の中で、かたくなになっていた体をやわらげた。ウィルラートに抱きしめられると緊張するのに、同時にほっとするようでもある。以前から、それがとても不思議だった。
「ウィルラートさま、わたし」
「何?」
 アイネが声を出すと、ウィルラートは意外にもあっさり腕をといた。二日前のこわばったような顔とも、昨日の改まったような様子とも違う、晴れやかな表情をしていた。アイネに気持ちを伝え、イクセルにも言いたいことを言ってしまい、何かから解放されたような気分になっているのだろうか。
 アイネはぼんやりとその顔を見つめ、すぐに気恥ずかしくなって離れた。
「あの、お茶を入れます」
「うん」
 どんな日でも仕事はいつも通りこなさなければならない。アイネはテーブルに向かい、これまで繰り返してきたことを今日も行いはじめた。
 ウィルラートはいつの間にか長椅子に行き、くつろいだ様子でアイネの仕事を見守っている。
 ます、何から始めたらいいのだろう……。
 手を動かしながら、アイネは途方に暮れた。お茶を入れる仕事のことではなく、ウィルラートと話すことのほうである。
 ウィルラートは兄の前で、アイネへの気持ちをきちんと語ってくれた。それも、アイネの名前は出さず、アイネの名誉に傷をつけないかたちで。
 今度はアイネががんばらなければ。そう思ってこの部屋にやってきたものの、いざウィルラートを前にしてみると、何から話せばいいのかわからない。以前の明るい様子に戻っているウィルラートを見て、拍子抜けしてしまったところもある。
 お茶を入れている間に切り出す言葉を考えようと思っていたのに、気がつくとアイネの手もとには、たっぷりとお茶の注がれたカップが居座っていた。毎日していることは上の空のままでもできてしまうものなのだ。
 アイネは入れ終わったお茶を見て、ウィルラートの顔を見た。それから、仕方なくこう告げた。
「できました」
「うん、ありがとう」
 茶器を渡すと、ウィルラートはすぐに口もとに運んだ。ゆったりとしたその動作は、どこか兄のイクセルに似ていた。
「昨日はごめん、アイネ」
 ウィルラートは茶器を置くと、アイネの目をまっすぐ見つめて言った。
 アイネはどきりとして身をすくめた。なぜウィルラートが謝らなければならないのだろう。
「きみの気持ちも聞かないで、兄さんに勝手に話したりして。怒っている?」
「お、怒ってなんて」
 アイネは慌てて首を振った。
 ウィルラートはイクセルに、南部に行って仕事をしたいとは言った。結婚はする、とも言った。でも、女中のアイネ・ハーヴィンと結婚する、とは言わなかった。イクセルはもちろん承知の上だっただろうけれど、ウィルラートは、アイネの退路を断つようなことは一言も言わなかった。
「昨日、兄さんに話したのは、みんな俺の本心だよ」
 ウィルラートはアイネの目を見つめたまま言った。笑顔はなかったが、さっきまでと同じく晴れやかな表情だった。
「俺は、きみが受け入れてくれるまで――いや、まずは答えを求めることを許してくれるまで、いくらでも待てる」
 昨日、イクセルの部屋で聞いたのと同じ言葉だ。アイネが返事をしなかったことはもちろん、ウィルラートの言葉を聞かなかったことさえ、ウィルラートは許してくれている。その上で、待つと言ってくれている。
 アイネの胸にふと不安がよぎった。
 いくらでも待つ、というのは、いったい、いつまでの話だろう。
「ごめん、アイネ。ここに座って」
 ウィルラートは急に調子を崩して、長椅子の隣を示した。アイネを立たせたままでいたことに気がついたらしい。
 言われたとおり座りながら、アイネは思った。自分ががんばらなければと思っているのに、結局はウィルラートに導かれるままになっている。
 長椅子に並んで腰かけると、しばらく沈黙が続いた。アイネは自分の言葉を見失ってしまい、ウィルラートのほうを向くこともできない。ウィルラートも話を中断して気まずくなったのか、続く言葉を見つけられないでいる。
「その、つまり」
 ウィルラートはたどたどしく言葉をつないだ。
「返事は出発までにもらえなくてもいいんだ。俺は先に行って、新しい環境に慣れながらきみの返事を待つことにする。俺は、この屋敷と学校の寄宿舎でしか暮らしたことがないし、働くのももちろんはじめてだ。でも努力するよ。いつか、胸を張ってきみを迎えにこられるように」
 アイネの不安は的中していた。ウィルラートは、アイネの返事を待たずに行ってしまうつもりなのだ。アイネをあきらめるためではなく、その逆のために。
 今日こそはアイネがきちんと伝えなければ、と思ってきたのに。ウィルラートのほうがずっと早く、ずっと強く、覚悟を決めていた。
 目の前が涙で濡れて、ウィルラートの顔が見えなくなった。嬉しいのか、悲しいのか、自分でもよくわからない。
「え? アイネ?」
 アイネの涙を見て慌てたのか、ウィルラートが急に早口になった。
「ごめん、俺――またきみを怖がらせるようなことを言った? 俺なりに考えたつもりだったんだけど――」
「違います、ウィルラートさま。違うんです」
 アイネは指で涙を払い、必死になって言った。泣いたせいで声がかすれていたが、そんなことは気にしていられなかった。
「ごめんなさい、わたし」
「うん?」
「わたし、ちゃんと言わなければならないと思って」
「何を?」
「いろいろなことを。自分の気持ちを」
 ウィルラートの表情がぴたりと固まった。何かを言いかけて、慌てて押しとどまり、一呼吸おいてから口を開く。
「ええと、どうぞ」
 アイネは小さくうなずいた。ウィルラートが何か誤解している――何かを期待しているような気もしたが、あえて気づかないふりをした。どうせ、最後まで話せばわかることだ。
「嬉しかったんです、わたし」
 息が整うと、アイネの口からはいきなり自分の気持ちが飛び出した。
 ウィルラートと話す時はいつもこうだ。何からどう話そうか、昨日からずっと考えていたのに。いざその時になってみると、用意していた言葉は何の役にも立ってくれない。
 ウィルラートは相槌を打つのもためらう様子で、アイネの顔を黙って見つめている。何が、と聞き返したいのをこらえているようにも見える。
「ウィルラートさまが、わたしのことを好きだと言ってくださった時、すぐに答えられなかったけれど、本当はすごく嬉しかったんです」
 声に出してみると、わかっていたはずの自分の気持ちがいっそう強くなった。
 そうだ。アイネは嬉しかったのだ。
「風邪をひいたわたしの様子を見に来てくださった時も、街に連れていっていただいた時も。お留守の時にいただいたお手紙も。帰っていらしてすぐ、お友達を置いてわたしのところに来てくださったことも。わたし、すごく嬉しかったんです」
「うん。知ってる――」
 ウィルラートは冷静に返そうとして、こらえきれずに微笑んだ。
「知ってるけど、あらためて言われると俺も嬉しいな」
「わたし、嬉しかったのに、うまく答えられなくて。いつもいつも、ウィルラートさまに何かをしていただくばかりで、わたしからは何もしてあげられなくて。ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
 ウィルラートは笑ったまま目を丸くしていた。
「俺はきみに、そばにいること以外に何かをしてもらおうなんて思ったことはないよ」
 ウィルラートはいまさらのように、あたりまえのように、はっきりとアイネに告げた。まっすぐなまなざしを受けて、アイネはまた泣きそうになる。
「アイネ?」
「昨日、イクセルさまの前で言ってくださったことも――その前にわたしに言おうとしてくださったことも。すごく、すごく、嬉しかったです」
 黙っていると涙がこぼれてくるので、アイネは急いで続きを言った。
 ウィルラートの顔に緊張が走った。きっと、この時をずっと待っていたのだろう。
「嬉しかったの?」
「はい」
「本当に、嬉しかった?」
「はい。ウィルラートさま」
 アイネがすぐに答えると、ウィルラートは熱に浮かされたような目を向けた。先を促したいのをこらえているのがわかる。
 あたりまえだ。嬉しかったのなら、なぜあの時すぐに言わなかったのか――ウィルラートの言葉を聞かなかったのか――問いつめたくなるに決まっている。
 ウィルラートはそれ以上は一言も口にせず、アイネが続けるのを待ってくれた。
 いつもそうだった。アイネが恥ずかしくて口を開けない時も、うまく言葉をつなげられない時も、ウィルラートはいつだって、笑ったりいらいらしたりせず、アイネが言うのを待っていてくれた。
 アイネはいつもそれに甘えていた。ウィルラートが先を促さないのをいいことに、いつも大切な言葉を自分の中にしまったまま、ウィルラートに伝えようとしなかった。
 今日は違う。今日は逃げずに、目をそらさずに、今この場所で、ウィルラートに気持ちを伝えなければ。
「ウィルラートさま、ありがとう。すごく嬉しいです」
 アイネはウィルラートの目を見つめて、あらためてはっきりと言った。
「あの時ちゃんとお答えできなかったのは、嬉しくなかったからではなくて、怖かったからです」
「怖かった?」
 ウィルラートの表情が少し動いた。ウィルラートは、アイネを怖がらせることを神経質なほど気にしている。
「違うんです。怖かったのは、ウィルラートさまの言葉ではなくて、それに答えることでもなくて……その先のことです」
「先?」
「わたしが今のまま、ウィルラートさまと一緒に南部に行っても、きっとお役には立てないと思うからです」
「役に、なんて。俺は」
「わかってます。でも、わたし、足手まといにはなりたくないんです。わたしと一緒にいることで、あなたが不幸せになるのは嫌なんです」
「俺は、きみが一緒にいてくれる限り、不幸せにはならないよ。絶対に」
「ありがとうございます、ウィルラートさま」
 ウィルラートの言葉と視線を受けとめて、アイネはあらためて思った。
 この人を不幸せにはしない――いや、幸せにしてみせる。
「ウィルラートさまが南部でがんばる間、わたしも努力します。何から始めたらいいのかもわからないけど――ウィルラートさまに少しでもふさわしくなれるよう、できるだけのことをやってみるつもりです。迎えに来てくださるまでただ待っているのではなくて、わたしから会いに行けるようになるくらい」
 ウィルラートは目をみはっていた。アイネからこんな言葉を聞くとは思っていなかったに違いない。
 アイネだって、自分にこんなことが言えるようになるなんて、思ってもみなかった。
「だから、ウィルラートさま」
 小さな自信を支えに、アイネはまた唇を開く。
「南部でのお仕事に慣れられた時、わたしがウィルラートさまにふさわしくなっていたら――わたしと結婚してください」
「――えっ」
「えっ?」
 ウィルラートの間の抜けた声を聞いて、アイネも思わず同じ声を返してしまった。
 一瞬の沈黙の後、全身からさっと血の気が引いていく。
「ご、ごめんなさい! わたし!」
 先ほどまでの落ち着きはどこかへ行ってしまい、大慌てで叫ぶしかなかった。
 ここまでするつもりはなかったのに。ウィルラートが言わずにこらえてくれた言葉を、アイネのほうから言ってしまうなんて。
 ウィルラートはアイネの言葉に驚いた顔のまま、放心したように黙って凍りついている。まさか、アイネに先を越されるとは思ってもみなかったのだろう。驚きがゆっくりと落胆になり、その次は引きつった笑みが浮かんでくる。
「ウィルラートさま、ごめんなさい。わたし、そんなつもりは」
「いや――いいんだ」
 ウィルラートは自分を励ますように、乾いた笑い声を上げている。それから深く息を吸い、また吐き出す。
「うん、別にいい――良くないけど――」
「ほ、本当にごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも、そのかわりに」
 ウィルラートは急に表情を変えると、長椅子から立ち上がった。部屋の奥にある書き物机のところまで行き、引き出しを開けて閉めて、またアイネのところに戻ってきた。
「やりなおしをさせてくれるかな」
 ウィルラートは長椅子には座らず、アイネの前で立ち止まった。その手には、アイネも見たことのある布ばりの小箱が収まっていた。
 目にした瞬間、アイネは忘れていた緊張を思い出した。
 二日前にアイネを怖がらせたのは、ウィルラートの言葉や視線だけではなく、何よりもこの箱だったのだ。
 アイネがこわばったことに気がついたのか、ウィルラートが苦笑した。
「そんなに気構えないで。とにかく見てくれる?」
「いけません、ウィルラートさま」
「高価なものではないんだ。ローアルドが買い付けた品物の中にあって――きみに似合いそうだと思って、安く譲ってもらったんんだ」
 ウィルラートはアイネの前に手を差し出し、その中の小箱を開いて見せた。やわらかそうな白い布の中心に埋められていたものを見て、アイネは思わず目を離せなくなった。
 その指輪は貴金属ではなく、優しげな乳白色の――ガラスなのか宝石なのか、アイネにはわからない――何かでできていた。磨きあげられてできた光沢の他には何の飾りもなく、三日月のような正確な曲線を描いている。目を凝らしてよく見ると、白だと思っていた色の中にうっすらとピンクが混ざっていた。
「これを持っていてくれないかな、アイネ。指にはめなくていい――身につけなくてもいいから」
「持っているだけ?」
「うん。いつか本物の指輪を持って迎えにくるから。それまでの間、俺がいないかわりに、これをきみに持っていてほしいんだ」
 アイネは指輪を見て、ウィルラートの目を見た。
 本当に行ってしまうのだ。ウィルラートがいない間もがんばると決めたけれど、離れていてもこの気持ちを持ち続けていられるだろうか。ウィルラートに会えない寂しさから、気持ちがくじけてしまったりしないだろうか。
 もう一度、ウィルラートの手の中にある愛らしい輪を見つめる。一人でいる間、これがウィルラートのかわりにアイネを支えてくれるだろうか。
「受け取ってくれるかな」
 ウィルラートが待ちかねたように聞く。いつの間にか、箱を捧げ持ったままアイネの前で膝をついている。
 アイネはうなずいて立ち上がると、ウィルラートの前に手を差し出した。左手を。
 ウィルラートが小箱をテーブルに置き、そこから指輪だけを抜き取った。向き直ってアイネの手を取り、薬指に指輪を近づける。アイネの指に優しいピンクの輪がとまる。
「俺と結婚してください、アイネ」
 ウィルラートがアイネを見上げて、幻の言葉を声に出した。
 アイネはゆっくりとうなずいた。
「はい。ウィルラートさま」


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