秘密のお茶会 [ 13 ]
秘密のお茶会

13.伯爵家の兄弟
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 白い花をもらった日からこの時まで、好きではなかったことなんて一度もない。恋人になるまでも、なってからも、ウィルラートのことが大好きだった。
 大好きなのに、どうして、ウィルラートがくれる言葉にうまく答えられないのだろう。
 アイネは女中部屋の自分のベッドに座り、ぼんやりと床板を眺めていた。いつもならとっくに起き出して働いている時刻だが、今日は半日の休みをもらっているのでのんびりしていられる。ウィルラートにあの言葉を告げられた――正確には告げられそうになった――その翌日が休みだったのは幸運だった。いつもどおり仕事に出ていたとしたら、何もかもが手につかなくて失敗ばかりしていただろう。
 それでも、もう一時間もすれば出ていかなければならない。厨房で仲間たちと昼食を済ませ、受け持ちの場所を掃除をしたら、令息たちにお茶を運ぶ時間だ。イクセルに、そしてウィルラートに。
 アイネはその瞬間を想像して、こみ上げてきた恐怖に身をすくませた。
 ウィルラートが今度こそあの言葉を言い、アイネに返事を求めてきたらどうしたらいいのだろうか。そんな不安ももちろんあったけれど、それ以上に心配なのは、ウィルラートを傷つけたかもしれないということだった。いや、間違いなく傷つけてしまっただろう。アイネはウィルラートの言葉に答えるどころか、それを聞くことさえしなかったのだから。
 ちゃんと聞いて、ちゃんと答えていれば、今はどんな気持ちだったのだろう。ウィルラートの部屋に行くのがこれまでと同じくらい、あるいはこれまで以上に楽しみだったのだろうか。恋人ではなく、別の約束をした二人として――ううん、やっぱり考えられない。
「アイネ」
 突然かけられた声に、アイネは思わず立ち上がった。考えごとに夢中でまったく気がつかなかったが、イルダが女中部屋の入り口に立ってアイネを見ていた。
「どうしたの、大丈夫?」
 急に立ち上がったアイネにびっくりしたのだろう。イルダは目を丸くして、扉に手をかけたまま立ち尽くしている。
 アイネはこくこくとうなずいた。仲間に心配をかけてはいけない。
「だ、大丈夫」
「ごめんね。まだ休みの時間だけど、ちょっと早めに出てきてくれない? 客間の掃除が終わらなくて」
「うん、わかったわ」
 アイネはさっそうと足の向きを変えて、お仕着せに着替えるために棚に向かった。
「せっかくのお休みなのにずっと部屋にいたのね。疲れてるの?」
 イルダがアイネの着替えを見ながら、不思議そうに聞いた。アイネは、半日休みの時はたいてい庭に行くか、屋敷の外を歩くかしているのだ。
「そんなことないわ。ちょっと考えごとをしてたの」
「ふうん、考えごと?」
 イルダは何気なくつぶやいたが、アイネは着替えの手をふと止めた。
 アイネとウィルラートのことを知っているのは、イクセルと庭師のウィル、そしてこのイルダだ。恋人になる前からずっとアイネの話を聞いてくれているイルダに、昨日のことを相談してみてはどうだろうか。
 そう思ったものの、やっぱりアイネは思いとどまる。今度のことだけは、アイネがひとりで考えなければならない気がする。
 と言っても、考える時間はもうほとんど残っていない。慌ただしく仕事を済ませたら、すぐにお茶の時間だ。
「そうそう。午後のお茶のことなんだけど」
 イルダがまさにその時のことを言い、アイネはどきりとした。
「うん」
「今日は、イクセルさまの部屋にふたりぶん運べばいいそうよ。ご兄弟で一緒にお茶を飲むんですって」
 ということは、今日はウィルラートとふたりきりにはならないで済む。ほっとする一方で、別の不安がわきあがってきた。
 イクセルが弟を自分の部屋に呼び、一緒にお茶を飲みたがることは前にもあった。あれは確か、アイネとウィルラートのことがイクセルに知られたばかりで、それがきっかけでアイネがウィルラートを怒らせてしまった時だった。イクセルは察しがいいし、物静かなようでよく気がまわるのだ。
 つまり、今度のことにもイクセルは気がついていて、弟とその恋人に何かを言おうとしているのだろうか。

「失礼いたします、イクセルさま。お茶をお持ちしました」
 アイネはいつものとおり、伯爵家の若君の部屋に入った。手には、ふたりぶんの茶器を載せたトレイを持っている。
 イクセルの部屋は紙とインクと上質な革のにおいがして、いつも空気が落ち着いている。
「ありがとう、アイネ。こちらへ来てくれる?」
 イクセルは今日は手もとに本も置かず、アイネを待っていたかのようにゆったりと椅子に座っていた。向かいにはもうひとつ椅子が置かれているが、アイネから見えるのはイクセルと同じ黒髪の後ろ姿だけだ。ウィルラートは、アイネに声をかけるどころか、振り向こうともしない。
「急に指示を変えて悪かったね」
「いいえ、イクセルさま」
 アイネがテーブルにトレイを置き、お茶を入れはじめたところで、イクセルが再び口を開いた。
「それで? ウィル。話というのは何かな?」
 アイネは思わず顔を上げ、兄弟の頭を順に見つめてしまった。我に返って、あわてて手もとに目を戻す。
 イクセルが弟を呼んだのではなく、ウィルラートが兄に話を持ちかけたのだろうか。
「急にすみませんでした、兄さん。どうしても今日、聞いてもらいたいことがあって」
「前おきはいいよ。おまえが僕に話したいことなんて、よっぽどのことなんだろう」
 似ていない兄弟は、それぞれ違う声色で言葉を交わしあっている。
 アイネは耳をそばだてたくなるのをこらえていた。気を抜くとお茶を入れる手が止まってしまいそうで、集中するように自分に言い聞かせる。
「もう気づいていると思いますが、俺は南部に行って、ローアルドの仕事を手伝いたいと思っています」
 ウィルラートは一息にそう言った。アイネが昨日聞いたのと同じ話だ。
「ニルソン家は貿易商だったね。仕事というのはそのことかな」
「はい。このあいだ彼の家に滞在した時、仕事ぶりを見せてもらいました。ほんの一部でしかありませんが、自分にも向いているのではないかと思いました」
「ほんの一部しか見ていないのに、向いているかどうかわかるものかな」
「もちろん、実際にやり始めたら、いいことばかりではないと思います。でも、やってみたい。学校を卒業してこの屋敷に帰ってから、俺は自分のことしかやってきませんでした。でも、ローアルドの話を聞いてはじめて、人の役に立ちたいと思ったんです」
 ウィルラートは気軽なおしゃべりは好きだが、改まった場面で自分の考えを述べるのは苦手なのだろう。緊張して声をこわばらせながら、それでも詰まることなく懸命に話していた。
 こんなウィルラートを目にするのは、アイネにとってはじめて――ううん、違う。白い花の名前を教えようとした時も、別れを嫌がるアイネを慰めてくれた時も、一緒に南部に来てほしいと言った時も、ウィルラートはいつだって、今と同じくらい真剣だった。
「役に立ちたいというのは、具体的に誰のかな」
 イクセルは弟の話を遮らず、と言ってうなずきもせず、ひとつひとつの言葉を吟味するように聞いていた。賛成なのか反対なのか、アイネにはわからないし、ウィルラートもわかっていないだろう。
「ローアルドと彼の部下たち、ニルソン社で働く人たち、取引先、そして、彼らがもたらすものを必要としているすべての人間です」
「自分がその人たちの役に立てると、本当に思う? おまえは人のために働いたことはないはずだよ」
「そのとおりです。だからこそ、これからはそういうことに自分を使いたいと思っています。ローアルドもぜひ来てほしいと言ってくれました」
「彼がほしいと思っているのは、おまえの能力なのか、それとも――」
「わかっています。ローアルドが見込んだのは俺が伯爵の息子だということと、俺が、というより俺の両親が持っている人脈です。ローアルドにもはっきりそう言われました」
「彼が? いい友人だね」
「俺には他に売り物なんてありません。利用できるものはなんでも利用するしかないと思っています。きっかけがなんであれ、仕事を始めてからは能力と人格を磨いて、俺自身を必要としてもらえるように努力します」
 ウィルラートが言い終えると、部屋には沈黙が広がった。
 アイネは入れ終えたお茶を手に迷っていたが、話が途切れたのを見て二人の前に進み出た。
「ありがとう、アイネ」
 イクセルが先に気づいて、アイネから茶器を受け取る。弟には見せていなかった笑顔をアイネには向けてくれた。
 ウィルラートは手を差し出そうとしないので、アイネは彼のお茶をテーブルに置いた。
 引き上げようとする時に、一瞬だけウィルラートの顔が見えた。ウィルラートはアイネを見ず、お茶を手に取ろうともせず、宙の一点を睨むように見つめていた。緊張と、それを上まわる覚悟が、アイネにも伝わってきた。
 ウィルラートは本気なのだ。本気でこの屋敷を出て、南部で働きたいと思っているのだ。
「美味しいよ、アイネ」
 イクセルが急に、場違いなほど穏やかな声で言った。
 アイネはあわてて彼のほうに向きなおった。
「ありがとうございます」
「まだ下がらないでくれるかな。後で頼みたい用があるんだ」
「は、はい。イクセルさま」
 アイネは兄弟から離れ、トレイを置いたテーブルの隣に立った。
 ウィルラートはもう、自分から話そうとしなかった。あいかわらず同じ一点を見つめたまま、何かの裁きを受けるように兄の言葉を待っていた。
 アイネは離れたところに立っていたが、たぶん同じくらい緊張していた。イクセルは、ウィルラートに何というのだろうか。
 どうか賛成してあげてほしい。ウィルラートが南部に行くことを許してあげてほしい。
 アイネが一緒に行くかどうか、そんなことはどうでもいい。ウィルラートには、心から決心したことをやり遂げてほしい。
「僕は、自分が投げ捨てた重圧をおまえに背負わせるつもりはないよ」
 イクセルがいいよと言うか、だめだと言うか、そのことばかり考えていたアイネは、予想もしなかった言葉に拍子抜けした。いったい何の話が始まったのだろう。
 ウィルラートはアイネとは違い、兄の言葉に当然のようにうなずいた。
「兄さんがそんなことをしないのは知っています」
「でも、父上はおまえを王都に呼びたがっている。僕が期待に背いてしまったからね」
 またもや聞き慣れない言葉が出てきて、アイネはびっくりしてしまう。
 伯爵夫妻が長く屋敷を空けて王都にいるのに、長男のイクセルはずっとここにいる。そのことを疑問に思ったことはあった。今のイクセルの言葉からすると、夫妻は息子を王都に呼ぼうとしたが、イクセル自身がそれを断ったということだろうか。
「おまえに他にやりたいことが見つからないなら、父上の言うとおりにさせるのも悪くないと思っていた。でも、南部に行って働くことがおまえの望みなら、そのとおりにすればいい。父上と母上は僕が説得しよう」
 アイネは思わず、伯爵家の若君の顔を見つめてしまった。イクセルが賛成してくれたのだと理解するまで、しばらく時間がかかった。
 ウィルラートも同じだったようで、兄の顔を呆然と見つめていた。けれど、意を決したように背筋を伸ばして言った。
「説得は自分でします。理解してもらえるまで、何度でも手紙を書いて」
「書けるの?」
「書けますよ」
 むきになったようなウィルラートの声に、イクセルが笑み崩れる。アイネも思わずほほえんでしまった。
「お茶を飲もう、ウィル。せっかくアイネが入れてくれたのに、冷めてしまうよ」
 イクセルは再びカップを手に取り、アイネに視線を投げかけた。弟をからかった時のいたずらっぽい笑みを浮かべたままだ。
 張りつめていた部屋の空気が、ゆるやかに流れはじめたようだった。
「結婚はどうするんだい、ウィル?」
 イクセルが穏やかな声のまま言い、アイネは小さく叫びそうになる。ウィルラートも危うく、手に取った茶器を落としかけていた。
 イクセルはにこにこしながら、動揺した弟を眺めている。やっぱり、彼は昨日のことも知っているのではないのだろうか。
「け、結婚って――」
「南部に住むことになるんだろう? 結婚したら、妻にもそこに来てもらわなければならない。まだまだ先の話だなんてのんびり考えていてはいけないよ」
「結婚は、します」
 ウィルラートはすぐに声を整え、きっぱりと言った。アイネのほうを振り返ったりはしなかった。
「もちろん、承諾してもらえれば、ですが」
「あれ? 意外と弱気だね」
「俺には、夫にしたいと思ってもらえるようなものは何もありません。仕事で信頼を得るために学ぶのと同じように、求婚を受け入れてもらうためにも努力するつもりです」
 アイネはウィルラートの後ろ姿を見つめた。アイネの立っている場所を背にして座っているので、ウィルラートの表情はここからは見えない。けれど、アイネには見えるような気がした。昨日のお茶の時間と同じ、もしかしたらそれ以上にまっすぐな、ウィルラートのまなざしが。
「ありがとう、アイネ。もういいよ」
 イクセルは弟には答えずに、離れて立っていたアイネにそう言った。
「はい。あの、ご用というのは――」
「ああ、そうだったね。なんだったかな」
 イクセルはのんびりと左右を見回し、いま思いついたかのように言った。
「次の書斎の掃除はいつになるか、ヴォリス夫人に聞いておいてくれる? 移動しておきたい本もあるから」
「は、はい。イクセルさま」
 女中を部屋に引きとめてまで言わなければならないことだろうか。アイネは不思議に思ったけれど、もちろん態度には出さない。
 イクセルは急に機嫌が良くなったようで、お茶をもう一口飲んで、美味しいとつぶやいている。
「失礼いたします」
 アイネは二人にそれぞれ礼をして、その場を離れた。ウィルラートはやはり振り返らなかった。
 若君の部屋の扉が閉まると、アイネは廊下に立ち尽くした。ウィルラートが話したことを思い出してみる。南部に言って働きたいという決意。そのために両親を説得する覚悟。
 そして、結婚のこと。
 アイネは、その言葉を頭に浮かべることさえ怖くてできなかったのに。イクセルがいともたやすく口に出してくれたおかげで、ウィルラートの考えを最後まで聞くことができた。
『承諾してもらえれば、ですが』
『求婚を受け入れてもらうためにも努力するつもりです』
 アイネはウィルラートの言葉を、心の中で繰り返した。
 昨日ウィルラートが言おうとしたこと、アイネに差し出した箱。そして、今日は見ることのできなかった真摯なまなざし。
 大好きなのに、どうして、ウィルラートがくれる言葉にうまく答えられないのだろう。
『俺には、夫にしたいと思ってもらえるようなものは何もありません』
 違う。ウィルラートに足りないところなんてない。答えられないのはウィルラートが悪いのではなく、みんなアイネのせいだ。
 アイネはトレイを持ち直し、仕事に戻るために廊下を歩き始めた。
 ウィルラートは今日も、今までもがんばってくれた。そして、これからもがんばると言ってくれている。
 次はアイネがそうする番だ。


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