秘密のお茶会 [ 12 ]
秘密のお茶会

12.白い花の記憶(2)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 いつから好きになっていたのか、もう思い出せない。気がつくと恋をしていた。恋をしていることに気がついた。
「アイネ・ハーヴィンと申します。今日からこちらでお世話になります」
 ウィルラートは、あいさつにやってきた新しい女中に目をやった。ウィルラートよりいくらか年下の小柄な少女で、真新しいお仕着せに身を包んで立っている。
「うん。よろしく」
 そう言っただけですぐに目をそらしたのは、別にその少女が気にくわなかったからではない。つい先ほど、屋敷の庭で汚してしまった上着をどうしようかと途方に暮れていたからだ。
 ウィルラートが上着についた土埃を払うと、一緒に来ていた年上の女中が慌てて止めた。
「ここで払わないでくださいな。絨毯も家具も埃だらけになります」
「ああ、ごめん」
「お預かりして洗濯室にまわしておきます。――また庭園にいらしてたんですか?」
「一日中うちにいたって退屈だから、ウィルたちの仕事でも手伝おうと思って」
 ウィルラートは去年、寄宿学校を卒業したばかりだ。卒業旅行を兼ねて友人の故郷を訪ねたり、王都にいる両親と一緒に過ごしたりした後、この屋敷に帰って兄とともに暮らし始めた。読書好きの兄イクセルと違って、ウィルラートは室内で時間をつぶすのが得意ではない。足は自然と、子どものころに好きだった庭園に向くようになり、庭師たちと仲良くなって仕事を手伝わせてもらうほどになった。
 ふいに、新入りの女中と目があった。なじみのほうの女中に汚れた上着を預けた時である。
「きみは、庭園にはもう行った?」
 何気ない問いを口にしたのは、ウィルラートなりに気をつかったつもりだった。兄のイクセルにいつも言われているのだ。伯爵家の一員だからこそ、使用人たちの一人ひとりにいつも気を配り、彼らが働きやすい屋敷を保たなければならないと。
 アイネと言ったか、新入りの女中は話しかけられるとは思っていなかったらしく、ウィルラートの言葉にのけぞるように身を引いた。
「い、いいえ――」
「後で行ってみるといいよ。うちの庭は本当によくできているから。特に奥の薔薇園はちょっとした自慢なんだ。俺のひいひいひいばあさま――だったかな――が作らせたんだけど」
「は、はい」
「あれ、緊張している?」
 気をほぐしてやろうとくだけた言葉で話しかけたのに、ウィルラートが話を続ければ続けるほど、アイネの表情は硬くなった。もともと内気な性格なのかもしれないが、必死で相槌を打っている姿は、何かに怯えているようにさえ見える。
「ウィルラートさまが気安く話しかけるからですよ」
 なじみの女中が、呆れた顔で言う。どうやら失敗してしまったらしい。
 ウィルラートはいわゆる社交家ではないが、初対面の人と打ち解けるのは得意なほうだ。寄宿学校でも、両親に連れ回された社交界でも、気まずい思いをすることはほぼなかった。浮かんだ言葉をそのまま口に出すだけで、相手は笑って会話に応じてくれた。
 けれど使用人が相手となると、また違った気配りが必要なのだ。特に、働き始めたばかりの屋敷で主人の息子を前にして、緊張と不安で胸をいっぱいにしている少女には。
 悪いことをしたと反省しつつ、ウィルラートは再びアイネを見た。一見して小柄だと思ったが、顔も肩も手足も小さくてかわいらしい。女中の仕事ははじめてなのか、サイズは合っているはずのお仕着せがどこか浮いている。こんな少女を怯えさせてしまったことを、ウィルラートは改めて悔やむ。
 謝罪の言葉を探しながら見つめているうちに、アイネの顔に変化が起こった。ウィルラートを見る怯えたような表情の中で、ゆっくりとほほえみが広がっていく。
 それを見た瞬間、ウィルラートはほっとした。怯えていたわけではなかったのだ。伯爵家の息子が子どものように服を汚し、そのことで女中から叱られていることに、びっくりしていただけなのだ。気安く声をかけられたことでさらに驚きはしたものの、決して嫌がっていたわけではない。むしろ、ウィルラートのそうした言動で気がほぐれて、笑顔になってくれたのだ。
 ウィルラートは安心すると同時に、やや居心地が悪くなった。
 はじめて顔をあわせたばかりの女中が笑ってくれた。たったそれだけでこんなに嬉しくなってしまう自分が、ひどく子どもっぽく思えてきたのだ。

 アイネが毎日ウィルラートの部屋にお茶を運ぶようになったのは、それから三ヶ月が過ぎてからのことだ。本当ならもっと経験のある女中がするべき仕事だが、アイネに任された理由はすぐにわかった。お茶そのものをおいしく入れられることはもちろん、茶器を扱う仕草がていねいで美しいのだ。
 慣れない様子なのは見かけだけで、実はどこか別の貴族の屋敷で、客間の担当でもしていたのではないか。そう思わせるほど、アイネの手つきは慣れていて、品のようなものさえあった。
 思わずそれを口にすると、アイネはびっくりして首を振った。
「まさか。貴族の方のお屋敷で働くのも、ご家族の前でお茶を入れるのも、これがはじめてです」
「じゃあ、今まではどこで働いていたの」
「働いた経験が、そんなにたくさんあるわけではないんです。村の牧師館で、お客さまの多い時だけ、厨房を手伝わせていただいたり……お茶は、一緒に働いていた人たちにしか、入れたことがありませんでした」
 アイネは短く言葉を区切りながら、たどたどしく話した。自分のことを話すのはあまり得意ではないようだ。人の話に相槌を打つのはとても上手なのに。
 言葉の拙さとは裏腹に、お茶を入れるアイネの手つきは流れるように美しい。
 そして、かわいらしい。お茶を注いだカップをウィルラートに差し出す時、緊張して目を伏せているところが特に。
 この瞬間ウィルラートは、お茶ではなくアイネの手を取りたくてたまらなくなる。手を握って、瞳を見つめて、大丈夫だよと言ってあげたい。きみの入れるお茶はとてもおいしいし、俺はそれが大好きだから、もっと堂々と俺の顔を見ていいんだよ。
「ありがとう」
 ウィルラートはあまたの言葉を呑み込み、お茶を受け取った。
 はじめて会った時、失敗したと思いかけたせいだろうか。ウィルラートはアイネに対してだけは、思ったことをそのまま口に出せない時がある。

「また、お庭にいらしたんですか?」
 アイネはウィルラートの汚れた服を見て、ほほえみながら言った。咎めるのでも呆れるのでもなく、どこか嬉しそうな口ぶりだ。
 もしかすると、アイネもこの屋敷の庭が好きなのだろうか。
「うん。きみも庭園に行った?」
「はい。とても素敵なところですね」
 あたりだ。ウィルラートは子どものように笑い出したくなるのをこらえ、服を投げ出して長椅子の上に座る。
 庭園がどんなに居心地のいい場所でも、庭師たちと話すのが楽しくても、ウィルラートは午後のお茶の時間には、必ずこの部屋にいることにしている。
「白い花が、とてもきれいでした」
 アイネはポットを持ち上げながら言った。最初のおどおどした様子が消え、このごろはアイネも自然に話しかけてくれるようになっている。
「白い花?」
「はい。薔薇園ではなくて、表の庭に咲いていたお花です。名前がわかるといいんですけど」
 ウィルラートは、思わず長椅子の上で前かがみになった。
 アイネが、これを知りたい、とウィルラートに言っている。しかもそれは、ウィルラートも見たことがあるはずの庭園の花の名前だ。
「どの花だろう。生け垣になっている花? あずまやの前に植えてある花?」
 ウィルラートは、見た覚えのある白い花を頭の中にいくつも浮かべた。どの花のことなのかさえわかれば、アイネにその名前を教えてやれる。ウィルラートは花の名前にはあまり詳しくないが、少なくともアイネよりは知っていると思う。教えてあげたらアイネは喜ぶだろうとも思う。
 ウィルラートの考えとは逆に、アイネは戸惑ったような顔になった。
「ええと――ごめんなさい、場所はよく覚えていないんです。これくらいの小さな花で、真っ白な色で。他のお花と一緒に少しだけ植えてありました」
「もどかしいな。どの花かわかれば、きみに名前を教えてあげられるのに」
 ウィルラートは思わず、感じたことをそのまま言ってしまった。
 ウィルラートも同じ花を庭園で見ているはずなのに。アイネがその花を指してきれいだと言えば、ウィルラートもそうだねと言うことができるのに。
 アイネと同じ時に、同じ場所に立って、同じ花を見ることができたら――
「アイネ、あとで一緒に庭園に行こう。どの花か教えてくれれば――」
 アイネのびっくりした顔を見て、ウィルラートは我に返った。
 そうだった。アイネの仕事はお茶を入れることだけではないのだ。ウィルラートのように時間のすべてを好きに使えるわけではない。
「あ――そうだった、ごめん」
「ウィルラートさま、ありがとうございます」
 アイネはほほえんでお茶の続きにかかり、カップをウィルラートに差し出した。
「お花の名前は、今度ウィルさんたちに聞いてみます。お気にかけてくださって嬉しかったです」
「うん……」
 ウィルラートはお茶を受け取りながら、ここにはいない庭師たちに嫉妬した。アイネに花の名前を教えるのは自分でありたかったのに。

 翌日の朝、ウィルラートは早めに起きて庭園に向かった。アイネが話していた白い花を探すために。
 庭師頭のウィルがウィルラートに気づき、帽子をとって近づいてくる。
「ウィルラートさま、おはようございます。お散歩ですかな」
「うん、まあ」
 ウィルラートは適当に答え、なんとなく左右を見まわしてみる。
 アイネの話から察するに、その白い花はあまり目立つものではないらしい。庭園の主役として姿を見せつけるのではなく、他の花と一緒に控えめに植えられているのだろう。アイネはその場所も覚えていないと言っていた。やみくもに庭園を歩きまわったところで、その小さな花が見つかるだろうか。
「何かお探しですか、ウィルラートさま」
「うん。あの――」
 ウィルラートは言いかけて口をつぐんだ。
 白い花のことをウィルに話せば、それが咲いている場所はすぐにわかるだろう。ウィルはその場所へウィルラートを連れていってくれて、わからなければ名前も教えてくれる。
 でも、本当にそれでいいのだろうか。
「――いや、なんでもないんだ」
 ウィルラートは庭師頭にそう言うと、また一人で庭園を歩き始めた。
 アイネがきれいだと言い、名前を知りたがった白い花。なぜだかわからないけど、それを一人で見つけなければならない気がした。
 とはいえ、伯爵家の庭園は広い。代々の自慢である薔薇園を除いても、一周するにはそれなりの時間がかかる。
 ウィルラートはあきらめるつもりはなかった。どのみち、時間だけはいくらでもあるのだ。
 歩き始めてほんの数分後のことだった。ウィルラートの視界のすみで、小さく白いものが光った。ウィルラートは吸い寄せられるようにそちらに近づいた。
 目にした瞬間に、その花だとわかった。
 思っていたよりもずっと小さな花だった。咲いている場所も決して目立つところではなく、色鮮やかな他の花を引き立てるようにたたずんでいる。アイネの話を聞いていなかったら、ここに咲いていることさえ気づかなかったに違いない。
 けれど、いったん気づいてしまった今は、光を放っているような白さから目がはなせない。
 ウィルラートはその花の前に屈みこんだ。アイネが、この花をきれいだと言ったのがよくわかる。この花はアイネに似合う。間違いなく。
 ウィルラートは立ち上がり、庭師頭のウィルを探しに行った。アイネのために。

「これだろう? きみが言っていた花は」
 花束を見せると、アイネは目を丸くしながらうなずいた。びっくりして言葉も出てこないらしい。
「今朝、花園に行ってウィルに少し切ってもらったんだ。きっとこれだろうと思って」
「どうしておわかりになったのですか?」
「どうしてかな。きみの話を思い出しながら庭を歩きまわって、最初に目についた白い花がこれだったんだ。見た瞬間にこれだってわかったよ」
「わざわざ探してくださったのですか?」
「すぐに見つかったから、探したってほどでもないよ。小さいから今まで気づかなかったけど、こうして見るとかわいいね」
 ウィルラートは白い花を見て、アイネを見た。
 そうだ。今まで気づかなかったけれど、とてもかわいいのだ。
 小さくておとなしくて、目をとめてみなければそこにいることにも気づかない。けれどもウィルラートは気づいてしまった。お茶を入れる時のきれいな仕草や、話しかけられてはにかむ表情、ゆっくりと言葉を選ぶ鈴のような声。
「はい、あげるよ」
 ウィルラートが花束を差し出すと、アイネは驚いて後ずさった。
「いけません、お屋敷のものをいただくなんて」
「きみにあげようと思って切らせたんだ。もらってくれないと無駄になってしまうよ」
 アイネはまだ戸惑っていたが、ウィルラートが手を引こうとしないのを見て、ためらいながら戻ってきた。それから、彼女に似た白い花を手にとった。
「ありがとうございます、ウィルラートさま」
 アイネは笑わなかったが、小さな顔がほんのり赤くなっていた。これを見るためにわざわざ庭園から花を持ってきたのだ。ウィルラートは今はじめてそのことに気がついた。
「どういたしまして」
 考えていることを紛らわせるように、もう片方の手に持ったお茶を口に運ぶ。あまり味のわからないそれを飲み込むと、肝心なことを思い出した。
「そうだ、忘れていた」
「何を、ですか?」
「名前だよ。この花の名前は――」

 ウィルラートは願いどおり、アイネに白い花の名前を教えてあげることができた。
 けれどもこの日、ウィルラートが知らなかったもう一つのものの名前は、アイネがウィルラートに教えてくれた。
「きみが好きだ、アイネ」
 アイネが部屋から去った後、ウィルラートは一人で小さくつぶやいた。
 いつかきっとこの言葉を、アイネの耳のそばでささやくのだ。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.