秘密のお茶会 [ 11 ]
秘密のお茶会

11.白い花の記憶(1)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 いつから好きになっていたのか、もう思い出せない。気がつくと恋をしていた。自分が恋をしていることに気がついた。
 はじめてウィルラートに会ったのはもちろん、伯爵家の屋敷で働き始めた時だ。先輩の女中に連れられて、二人の令息にあいさつをしに行った。両親の留守を預かっているイクセルの方針で、新しく入った使用人はみんな彼らと会うことになっている。そうでもなければ、縁故もない新入りの女中なんて、本来なら主人一家の目に触れることさえないはずだ。
「若君さまは少し変わった方なのよ。ずっとお屋敷にこもって本を読んでいらして、お友達を招いたりもなさらないで。王都の社交界でもきっと、貴族らしくないなんて言われているんじゃないかしら」
 アイネを案内してくれた女中はおしゃべりで、イクセルの部屋を出て歩きながらずっとそんな話をしていた。貴族の屋敷で仕えるのがはじめてのアイネには、貴族らしさとはどういうものなのかよくわからない。確かに、使用人のひとりひとりと会い、顔と名前を覚えようとする伯爵家の若君はめずらしいのだろう。
 けれどもアイネは、会ったばかりのイクセル・デュオニスに好感を持った。口数が少なく、何を思っているのかわからないところはあるけれど、穏やかで優しそうな人だった。はじめて会ったアイネにも丁寧に言葉をかけてくれた。
「弟君のウィルラートさまも、貴族らしいとは言い難いんだけど。でも、こちらは話しやすくて明るい方よ。すぐ顔に出るから考えていることがわかりやすいし……あら、いけない」
 女中は口をつぐみ、人差し指を唇に当てて見せた。アイネはそれを見て、声を立てずに笑った。ここのお屋敷にはすぐになじむことができそうだ。
「さあ、ここがウィルラートさまのお部屋よ」
 女中は立ち止まり、前にある扉をノックした。
「失礼します、ウィルラートさま。新入りの女中のあいさつに参りました」
「入って」
 アイネは先輩の女中に続いて、はじめてウィルラートの部屋に入った。
 イクセルのとほぼ同じ間取りの部屋に、やはりイクセルと同じような服装をした青年が立っていた。兄とちがう点といえば、脱ぎかけていた上着が、屋敷の中でついたとは思えない土埃にまみれていることだ。
「こちらが今日から入ったアイネです。ごあいさつを」
 女中もすぐに異様さに気づいたらしく、目線があからさまに上着に注がれている。けれども声は平静を装っていた。アイネにもそうするようにと目で忠告する。
「アイネ・ハーヴィンと申します。今日からこちらでお世話になります」
「うん。よろしく」
 ウィルラートはちらりとアイネを見ただけで、すぐに上着に目を戻した。それから、大胆にも平手で埃を払い始める。血相を変えて止めにかかったのはアイネを連れてきた女中だ。
「ここで払わないでくださいな。絨毯も家具も埃だらけになります」
「ああ、ごめん」
 ウィルラートが素直に謝ったことに、アイネは驚いた。伯爵家の令息のすることに口をはさめる女中もいれば、その女中の言うことをあっさり聞き入れる令息もいるのだ。
「お預かりして洗濯室にまわしておきます。――また庭園にいらしてたんですか?」
「一日中うちにいたって退屈だから、ウィルたちの仕事でも手伝おうと思って」
 汚れた上着を女中に渡しながら、ウィルラートはふとアイネを見た。今度はすぐに目をそらしたりはしなかった。
「きみは、庭園にはもう行った?」
「い、いいえ――」
「後で行ってみるといいよ。うちの庭は本当によくできているから。特に奥の薔薇園はちょっとした自慢なんだ。俺のひいひいひいばあさま――だったかな――が作らせたんだけど」
「は、はい」
「あれ、緊張している?」
「ウィルラートさまが気安く話しかけるからですよ」
 女中が呆れてつぶやいた。
 確かに、アイネは緊張していて、驚きもしていた。伯爵家の令息がこんなにも気軽に、くだけた口調で、入ったばかりの女中に話しかけることがあるなんて。
 びっくりしたけれど、嬉しかった。はじめて貴族に仕えるという緊張と不安が、溶けてなくなってしまうような気がした。
 気がつくと、アイネは笑っていた。

「お二人にお茶を……毎日、ですか?」
「ええ。午後のお茶をね、あなたに頼みたいの」
 アイネにそう言ったのは、屋敷の女性使用人たちを監督している家政婦のヴォリス夫人だった。伯爵家で働きはじめて、二人の令息にあいさつをした日から三ヶ月が経っていた。
「茶器とお湯の準備は台所女中がします。あなたはそれを盆にのせて運んで、お二人の前でお茶を入れて差し上げるの。若君さまもウィルラートさまも、午後はたいていお屋敷にいらっしゃるから」
 女中は見習い期間を終えると、毎日の担当の仕事があてがわれる。部屋の掃除、リネンの交換、家具の手入れなどたくさんの仕事がある中で、アイネに与えられたのは、二人の令息にお茶を入れることだった。本来ならもっと上級の使用人がやるべき、重要な仕事である。
「このあいだ厨房でお茶の入れ方を教わったとき、わたしたちにも飲ませてくれたでしょう。はじめてであれほど上手にできる女中はなかなかいません。もちろん、もう少し練習はしてもらうけれど」
「はい――ありがとうございます」
「不安なのね」
 長年たくさんの女中たちを束ねてきた貫禄を見せて、ヴォリス夫人は見事に言い当てた。
「はい」
「心配しなくても大丈夫。ただ、お茶を入れるだけなのだから」
 アイネにとっては、ただお茶を入れるだけ、ではなかった。伯爵家の令息の部屋に一人で入り、目の前で仕事をこなして見せるのだ。心配するどころの話ではなかった。
 けれど実際に始めてみると、思ったよりもずっと気安く、そして楽しい仕事だった。令息たちはどちらも気どったところがなく、まだ屋敷に慣れていないアイネに優しく接してくれた。そして、アイネが入れるお茶をおいしいと褒めてくれた。
 午後のお茶が一日でいちばん楽しみな仕事になるまで、あまり時間はかからなかった。
 もの静かで落ち着いていて、お茶を入れるアイネを見守ってくれるイクセル。
 明るく話し好きで、いつも気さくに声をかけてくれるウィルラート。
 対照的な兄弟のことが、どちらも同じくらい好きだった。
 ある日の午後、いつものようにウィルラートの部屋に行くと、最初のあいさつの時と同じような光景があった。ウィルラートが汚れた服を手にして途方に暮れていたのだ。
「また、お庭にいらしたんですか?」
「うん」
 はじめて会った時の会話からもわかったが、ウィルラートは庭園にいるのが好きだ。もともと屋外で過ごすことのほうが性にあっているのだろう。寄宿学校を卒業して家に帰ってきたばかりで、屋敷の中にいてもすることが浮かばないのかもしれない。
 そんなウィルラートが、このお茶の時間には必ず部屋にいてくれることが、アイネにとっては何よりも嬉しい。
「きみも庭園に行った?」
「はい。とても素敵なところですね」
 ウィルラートの好きな庭園には、アイネも何度か足を運んでいる。もちろん、そこで仕事があったからだが、庭師たちとすっかり仲良くなり、伯爵家が誇る花園の美しさに魅了された。
「白い花が、とてもきれいでした」
 アイネはふと思い出して言った。ウィルラートがいつも親しげに話しかけてくれるので、話すのが得意ではないアイネも浮かんだ言葉を自然に口に出せる。
「白い花?」
「はい。薔薇園ではなくて、表の庭に咲いていたお花です。名前がわかるといいんですけど」
「どの花だろう。生け垣になっている花? あずまやの前に植えてある花?」
「ええと――ごめんなさい、場所はよく覚えていないんです。これくらいの小さな花で、真っ白な色で。他のお花と一緒に少しだけ植えてありました」
 うまく説明できなくて、アイネは悲しくなる。通りがかりに見たその花は清らかでかわいらしくて、たくさんの花が咲き乱れる中で光っているように見えたのに、その場所も名前もウィルラートに伝えることができない。
「もどかしいな。どの花かわかれば、きみに名前を教えてあげられるのに」
 ウィルラートは心から残念そうにアイネに言った。残念なのはアイネも同じだ。ウィルラートもきっと同じ花を庭園で見たのだろう。アイネがそれを指してきれいだと言えば、ウィルラートもそうだねと言ってくれたに違いない。
 ウィルラートと同じ時に、同じ場所に立って、同じ花を見ることができたら――
「アイネ、あとで一緒に庭園に行こう。どの花か教えてくれれば――」
 アイネはびっくりして、思わずお茶を入れる手を止めてしまった。ウィルラートがアイネと同じことを考え、しかもそれを言葉に出してくれるなんて。
「あ――そうだった、ごめん」
 ウィルラートは、アイネの驚きを違う意味に受け取ったようだ。女中の仕事で忙しいアイネには、ウィルラートのようにふらりと庭へ出る時間はないと。
 アイネは少し笑って、再びお茶を入れる作業にとりかかった。できるはずがないとわかっていても、ウィルラートの気持ちが嬉しかった。
「ウィルラートさま、ありがとうございます」
 アイネは茶器を差し出しながら、ウィルラートに言った。
「お花の名前は、今度ウィルさんたちに聞いてみます。お気にかけてくださって嬉しかったです」
「うん……」
 ウィルラートは力なくうなずき、アイネからお茶を受け取った。自分がアイネに花の名前を教えたかったと、はっきり顔に書いてある。アイネは失礼かもしれないと思いつつ笑ってしまった。

 花園に行く機会は、偶然にもその日のうちにやってきた。庭師頭のウィルに家政婦からの伝言を伝えると、アイネは左右にゆっくり視線をめぐらせた。名前を知りたかった白い花は、ここから見えるところには咲いていないようだった。
「どうしたんだね、アイネ。何か探しものかね?」
「あ……いいえ」
 ウィルの問いかけに、アイネは笑って答えた。
 今ここで花の特徴を伝えれば、ウィルならすぐに察しをつけて、その花が咲いている場所へ連れていってくれるだろう。そして、名前を教えてくれるに違いない。
「中へ戻らないと。今日はちょっと忙しいんです」
「そうかね。またおいで」
 ウィルは首を傾げてアイネを見送り、アイネも手を振って応えた。
 花園から出ていく前に、アイネはふと足を止めた。視界の端に、見たかった白い花が咲いていたのだ。覚えていたよりもずっと小さな花で、色も姿もさまざまな他の花たちの中に埋もれている。けれど、いったん目をとめると、ほのかに光を放っているような白さに見とれてしまう。
 アイネはその花の近くまで歩み寄り、ぼんやり立ち尽くした。どうして今、ここにウィルラートがいないのだろう。

 翌日の午後、アイネはいつものようにウィルラートの部屋でお茶を入れていた。ウィルラートもいつものように長椅子に座って待っていたが、いつになく熱心にアイネの仕事を見つめている。おかげでアイネは緊張してしまい、あやうくテーブルにお茶をこぼすところだった。
 なんとか無事にお茶を入れ、ウィルラートのもとへ持っていく時に気がついた。ウィルラートが心なしかほほえんでいるように見えることに。
「お待たせいたしました」
 何が楽しいのか聞くわけにもいかないので、アイネはいつもの言葉とともに茶器を差し出した。
「ありがとう」
 ウィルラートもいつものように片手でそれを受け取る。
 アイネが会釈して離れようとする寸前に、ウィルラートは、自分の背中にまわしていたもう片方の手を差し出した。
 アイネは目を丸くして、突然あらわれた手を見つめた。そこには、花園で見たあの小さな白い花が、何輪かの束になって咲いていた。
「これだろう? きみが言っていた花は」
 花を差し出しながら、ウィルラートが得意げに言う。
 アイネは花束を見つめたまま、黙ってうなずくことしかできないでいる。
「今朝、花園に行ってウィルに少し切ってもらったんだ。きっとこれだろうと思って」
「どうしておわかりになったのですか?」
 アイネは、この花が咲いている場所さえウィルラートに言えなかった。あんなに広く、たくさんの花が咲いている庭園の中で、どうやってこの花を捜し当てたのだろう。
 ウィルラートは照れたように笑った。
「どうしてかな。きみの話を思い出しながら庭を歩きまわって、最初に目についた白い花がこれだったんだ。見た瞬間にこれだってわかったよ」
「わざわざ探してくださったのですか?」
「すぐに見つかったから、探したってほどでもないよ。小さいから今まで気づかなかったけど、こうして見るとかわいいね」
 ウィルラートは手の中の花とアイネを交互に見つめ、やがて花束を差し出した。
「はい、あげるよ」
 アイネはびっくりして、思わず一歩うしろに引き下がった。
「いけません、お屋敷のものをいただくなんて」
「きみにあげようと思って切らせたんだ。もらってくれないと無駄になってしまうよ」
 ウィルラートは嬉しそうに手を差し出したまま引こうとしない。アイネはもうしばらく迷って、ようやくそれを受け取った。
「ありがとうございます、ウィルラートさま」
「どういたしまして」
 ウィルラートはにこにこと笑い、アイネが入れたお茶を一口飲んだ。もともと明るい気質のウィルラートだが、こんなに嬉しそうな笑顔ははじめて見た。
「そうだ、忘れていた」
「何を、ですか?」
「名前だよ。この花の名前は――」

 アイネは白い花をコップに生けて、女中部屋の寝台の脇に飾った。同室の女中たちには、仕事を手伝ったお礼に庭師にもらったと説明した。
 明かりを消して寝台に入ってからも、アイネは横たわりながら花を見つめていた。窓ごしに入ってくる月の光を浴びて、白い花はうっすらと輝いている。
 女中部屋に花があるのはめずらしいことだ。休日に買い物に出かけた仲間が買ってきてくれたり、誰かから贈られたものを飾ったりすることは稀にあるが、屋敷の庭園に咲いていたものがここに来たのははじめてではないだろうか。しかもこれは、伯爵家の次男であるウィルラートがみずから持ってきてくれたのだ。
 アイネは急に恥ずかしくなって枕に顔をうずめた。同室の仲間たちはすでにぐっすりと寝入っている。
 ウィルラートは、アイネが話したたわいもないことを気にかけて、わざわざ庭園まで見つけに行って、こうして持ち帰ってきてくれた。アイネがかわいいと言ったその花を、ウィルラートもかわいいと言ってくれた。そして、その白い花の名前を教えてくれた。
 どうして昨日、庭師たちにこの花のことを尋ねなかったのか、アイネは今になって気がついた。ウィルラートにこの花の名前を教えてほしかったのだ。ウィルラートと一緒にこの花を見て、一緒にかわいいと言いたかったのだ。
 アイネは枕から顔を上げ、もう一度、白い花を見つめた。
 この屋敷に住む二人の令息のことはどちらも大好きだ。けれど、イクセルを好きだと思う気持ちと、ウィルラートを好きだと思う気持ちは違う。
 白い花の名前がわかったこの日、アイネは自分の想いの名前にも気がついた。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.