秘密のお茶会
10.まぼろしの言葉
カップの中にお茶を注ぐと、ふだんとは違う香りが湯気とともに立ちのぼった。
アイネはにっこりしながら、女中仲間にカップを差し出した。今日のお茶はいつも厨房で飲んでいるものとは違う。滞在していた客人たちが屋敷を去ったので、使用人たちにも慰労として客用のものが振る舞われたのだ。
「ああ、いい香りね」
「いつものと全然ちがうわ」
女中たちはカップを手にして口々に言った。すぐに飲んでしまうのがもったいないのか、揺らして眺めたり、湯気を吸い込んだりして楽しんでいる。
全員に行き渡ったのを見ると、アイネは自分の席に座った。
ウィルラートの友人のローアルド、それに、彼の妹のユディタとエヴェリーナは、四週間ほど滞在してから伯爵家を去っていった。ウィルラートは彼らを見送るために昨日から留守にしている。列車が出るのを見届けたら今日中に帰ってくるはずだ。
もう、客間の寝具を毎日とりかえたり、ほとんど手がつかずに戻ってくる料理を運んだり、屋敷のどこでも声を落としてしゃべったりしなくていい。女中たちだけでなく、屋敷で働く者はみんな心の底でほっとしている。イクセルとウィルラートの二人のためだけに働く日々がようやく帰ってくるのだ。
「静かになったわね」
「うん。忙しかったものね」
「にぎやかな方たちだったわ」
「パーティなんて久しぶりに見たかも」
「素敵なドレスだったわね……」
女中たちは慌ただしかった日々を振り返りながら、どこか気の抜けたような顔をしている。アイネにも仲間たちの気持ちはよくわかった。伯爵家に滞在した久しぶりの客人たちは、気どりのない、感じのいい人たちだった。直接声をかけてもらうことはなかったけれど、彼らのおかげで屋敷中に明るい空気が満ちていた。ウィルラートもいつになく楽しそうにしていたのをアイネは覚えている。
ローアルドと妹たちが滞在していた間、ウィルラートの部屋にお茶を運ぶことは一度もなかった。明日から、いや、もしかしたら今日からまたそれが始まるのだと思うと、嬉しいような恥ずかしいような、よくわからない気分になる。
アイネは自分を落ち着けるように、手にしていたカップからお茶を一口飲んだ。
それと同時に、厨房の外がにわかに騒がしくなった。
「お帰りになったのかしら」
仲間の一人がのんびりとつぶやく。
アイネはカップを握りしめ、胸につまった何かを流すように、もう一口飲んだ。味はほとんどわからなかった。
それから一時間も経たないうちに、アイネは茶器を載せたトレイを持って、ウィルラートの部屋の前に立っていた。帰宅したウィルラートが開口一番にお茶を所望したらしい。規則的な仕事ではないので誰がしてもいいはずなのだが、気がつくとアイネが持っていくことになっていた。
ノックのために持ち上げた手を、扉の前で止める。ウィルラートのためにお茶を入れるのは何週間、何ヶ月ぶりだろう。ウィルラートが南部に行っていた期間をあわせると、以前にそうした日はもう遠い昔のようだった。滞在客がいる間もお茶を運ぶことはあったが、ウィルラートはたいてい次の予定があって、アイネとゆっくり過ごすことはできなかった。
もしかして、ウィルラートも同じことを考えているのだろうか。だから屋敷に戻るなり、お茶を持ってくるよう命じてくれたのだろうか。アイネが持ってくるという当てはなく、それでもそうなることを期待しながら。
アイネは息を吸い込み、ウィルラートの部屋の扉を叩いた。
「どうぞ」
聞き慣れた、けれど懐かしい声に導かれて中に入る。
「失礼いたします、ウィルラートさま。お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
部屋の奥から、思いのほか静かな声が返ってきた。
ウィルラートは長椅子の上に腰かけていた。顔を上げてアイネを見ているが、笑みはない。
アイネは少し怯んだが、気を取りなおしてお茶を入れはじめた。
ウィルラートはその間、一度も長椅子から立ち上がらず、一度も口を開かなかった。時おり盗み見ても、笑みを浮かべようとする気配はない。そのくせ、視線はアイネから一時もそらさない。
茶器を扱うアイネの手が少しこわばっている。部屋に入ってすぐ抱きしめられると思っていたわけではないけれど――ううん、本当は少し、思っていたけれど――ウィルラートの様子は明らかにおかしい。入れ終えたお茶を渡す時、ウィルラートが一言も口をきかないのを見て、アイネの不安は決定的になった。
「ウィルラートさま、お疲れですか?」
アイネが身を屈めて聞いても、ウィルラートはすぐに答えなかった。受け取ったお茶を一口飲んでから口を開く。
「いや、疲れていないよ」
「では、どこかお加減でも悪いのですか」
「悪くないよ」
ウィルラートはにこりともしなかった。怒っているのだろうかと思ったが、そうではないようだった。以前、イクセルのことで怒った時は、ウィルラートはアイネから顔を背けてしまった。今はその反対で、片時もアイネから目をそらそうとしない。見つめるのをやめてしまったら、アイネが消えてしまうとでもいうように。
「座って、アイネ」
ウィルラートの手が長椅子の自分の隣を示し、アイネは言われるままに座った。
それを見届けると、ウィルラートは手にしていた茶器をテーブルに置いた。静まり返った部屋に、陶器が触れあう音がかすかに響く。それが消えると同時に、ウィルラートはアイネのほうに体を向けた。
再び目があった時、アイネは気がついた。
ウィルラートは、緊張しているのだ。
「大事な話があるんだ」
目線で射止められたように、アイネは動けなくなった。心臓の音がウィルラートに聞こえてしまいそうな勢いで鳴り始める。
「……はい」
「ローアルドの家のことなんだけど」
意外な言葉が出てきて、アイネは拍子抜けしそうになった。けれど、ウィルラートの表情は変わらない。
「きみに話したことはあったかな。ニルソン家は、海洋貿易で富を築いた商家なんだ。特に南部では、貴族よりも名前を知られているくらいで」
「そうですか……」
「ローアルドの父上はまだ三代目だけど、王都でも上流階級の一員として認められているし、事業も上り調子だ。当然、その後はローアルドが継ぐことになる」
アイネはうなずいたが、正直に言って腑に落ちなかった。貿易だの、事業だの、上流階級だの、そんなことはアイネにはよくわからない。ウィルラートが親友の話をしたいと言うなら喜んで聞くけれど、少なくとも今は楽しんで話しているわけでもなさそうだ。何より、これがウィルラートの大事な話だとはとても思えない。
「ニルソン家に滞在した時、仕事の現場も見せてもらったんだ。ローアルドはもう自分の事務所を持っていて、従業員を使って働くことを覚えてる。仕事で外国に行くこともよくあるらしい。仕事場にも屋敷にも、見たこともないような国の人たちが出入りしていて。彼らと会って話すのがとても楽しかったんだ」
そのことなら手紙にも書いてあった。ウィルラートは誰とでもすぐに打ち解けるし、めずらしい話を聞くのが好きだ。
「今日、ローアルドが帰る時に言ってくれたんだ。南部に移ってきて、仕事を手伝ってくれないかって」
ぐらりと、体全体を揺さぶられたような気がした。
南部に移る? 仕事を手伝う?
ウィルラートは何を言っているのだろう。
「俺は働いたことなんてないし、商売のための勉強なんてしてこなかったけど、ローアルドも部下たちもぜひと言ってくれているんだ。たぶん、俺の生まれと人脈を当てにしているんだと思うけど。自分でもやってみたいと思ったんだ。父上たちのいる王都に出るよりは向いていると思う」
「……行ってしまわれるのですか?」
アイネは、恋人の言葉にかぶせるように聞いた。
仕事の話はよくわからないけれど、ウィルラートがまたこの屋敷を離れ、遠くへ行こうとしていることはわかる。そして、今度はそうとう長い間、もしかしたら永久に、帰ってこないかもしれないということも。
すがりつくように見つめると、ウィルラートは少し黙った。しばらく視線をからませた後、急に恥ずかしくなってアイネから目をそらす。
その時、ウィルラートの手がアイネの手をつかんだ。
「アイネ、寂しい?」
見つめたままウィルラートが問いかけ、アイネはうなずいた。そして、手を重ねようとしたその時だった。
「だったら、一緒に来てくれる?」
何を言われたのかわからなくて、アイネは手を浮かせたまま固まった。
「俺と一緒に南部に行って、俺の側にいてくれる? アイネ」
言葉を返すことも、顔を上げることもできなかった。自分とウィルラートの間に、とても大切な、けれど壊れやすい何かがあるような気がする。少しでも動いたら、あっという間にそれは壊れてしまう。
「実は、渡そうかどうか迷っていたんだけど」
ウィルラートは片手をアイネの手に重ねたまま、もう片手で脇にあった何かを取った。
「きみが怖がるようなことはしないって約束したから。どうしようか迷っていたんだ。こんなことを言ったら、また怖がらせてしまうかもしれないけど――どうしても、言いたくて」
アイネはまだウィルラートの顔を見ることができない。ウィルラートの片手には、そこにすっかり収まるほどの小さな箱がある。アイネが見たこともないような、光沢のある布ばりの美しい小箱。
それを目にした瞬間、アイネの胸を満たしたのは感激でも喜びでもなかった。ウィルラートが予想したとおり、恐怖だった。
「ウィルラートさま」
「返事はしなくてもいいよ。言わせてくれるだけでいいんだ。アイネ、俺は」
「待って、ウィルラートさま、待って」
アイネは顔を下に向けたまま、必死になって言った。
思ってもみなかった。その言葉を、ウィルラートから聞くことがあるなんて。
でも、まだ聞きたくない。聞きたいけれど聞きたくない。聞いてしまったら、逃げられなくなってしまう。あやふやにして見えないふりをしてきた、いろいろなもの、いろいろなこと。そのすべてから目をそらせなくなってしまう。
こうして、ウィルラートのためにお茶を運んで、言葉を交わして、ときどき抱きしめあうだけで幸せなのに。その幸せさえ、守れなくなってしまう。
「アイネ」
「ごめんなさい、ウィルラートさま」
「どうしても、だめ?」
アイネは首を振ろうとして、ふと動きを止めた。ここで首を振ったら、ウィルラートがまだ口に出してもいない問いに、『いいえ』と答えたことになってしまう。
アイネは首を振ることができず、けれどそれ以外の答えを言うこともできず、ずっとうつむいていた。
ウィルラートの片手は小箱を取り上げて、不自然に浮いたままになっている。言葉なり身ぶりなり、アイネが何か返すのを待って、待って、待って――ウィルラートが言いたい気持ちを抑え、アイネのために黙ってくれているのが、痛いほど伝わってきた。
それなのに、アイネは。
「もう、行かないと」
ウィルラートの顔を見ずにうつむいたまま、アイネはすばやく立ち上がった。その拍子に、触れあっていた手が力なく離れた。
アイネは一度も振り返らずに部屋の中を駆け、気がつくと扉の外側にいた。足の勢いが止まらずしばらく歩き続けた後、急に力が抜けてその場に座り込んだ。ずっと息ができなかったかのように、胸が苦しい。
ここにはウィルラートがいない。ウィルラートの目も、手も、声も、ここまでは追いかけてこない。
あんなに会いたくてたまらなかったのに、アイネは今、ウィルラートから逃れられたことを喜んでいた。喜んでいる自分に気がつくと、これまででいちばん自分が嫌いになった。
また逃げてしまった。あの時と同じことをした。ウィルラートの言葉に答えずに――それどころか、ウィルラートがそれを言うことさえ許さなかった。
「ごめんなさい、ウィルラートさま」
自分の腕に顔をうずめ、自分にしか聞こえない声でつぶやいた。
ウィルラートが言えなかった――アイネが言わせなかった言葉が、今になってアイネの耳に響く。まるで、ウィルラートがそこでささやいているように。
「はい、ウィルラートさま」
ここにはいないウィルラートに聞かせるように、言えなかった返事を口に出す。
本当は、ウィルラートに言ってほしかった。その場ですぐに答えたかった。今なら何度でも、何度でも言うことができるのに。
「はい、はい、はい、はい、はい」
アイネは一人で座り込んだまま、ウィルラートが言わなかった幻の言葉に、何十回、何百回も答え続けた。
Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.