秘密のお茶会 [ 9 ]
秘密のお茶会

9.おかえりなさい
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 カーテンを両手で開くと、真っ白な光が部屋に入り込んできた。
 アイネはまぶしさに目を細め、空に向かってにこりと微笑んだ。お客さまをお迎えするのにふさわしい、いいお天気だ。
「ベッドが完成したら、もう一度、お部屋をすみずみまで点検して。塵ひとつ見逃さないように、家具の下の隙間まで確認するのですよ」
 家政婦のヴォリス夫人が客用寝室の入り口に立って、女中たちに自ら指示を与えている。夫人も、部屋の中でアイネとともに働く数人の女中たちも、忙しそうであるとともにどこか楽しそうだ。
 デュオニス伯爵家の屋敷に、数ヶ月ぶりに滞在客がやってくる。南部に出かけていたウィルラートが友人たちを連れてくるのである。
 つまり今日は、ウィルラートが屋敷に帰ってくる日なのだ。
 伯爵夫妻が長く留守にしている今、この寝室が使われるのもずいぶんと久しぶりだ。アイネたちは数日かけて窓を拭き、床を清め、カーテンを洗い、シーツを取り替え、部屋の中にあるありとあらゆるものを磨きあげた。厨房では台所女中たちが客用メニューの準備にかかりきりだし、庭師のウィルたちは屋敷の中に飾る花をいつもより多めに切っているはずだ。いかめしい顔をした執事でさえ、この数日はどこか落ち着かない様子で使用人たちに指示を与えている。
 けれど、いちばん落ち着いていないのは自分だと、アイネは密かに思っている。
「ヴォリス夫人。客間の準備が終わりました。見ていただけますか」
 イルダが廊下に現れて、家政婦に声をかけた。経験と能力を買われたイルダは、客間女中の一人に選ばれたのである。
「いま行きます。後でこちらに戻りますから、寝室の準備も怠らないようにね」
「はい、ヴォリス夫人」
 夫人は長いスカートを翻し、客用寝室を後にする。イルダはその後に続こうとして、ふと目線を変えた。寝室の中にいるアイネのほうを見て、意味ありげに目くばせして見せる。アイネは思わずほほえんだ。
「いいなあ、イルダは。お客さまを間近で見られるなんて」
 客用のベッドを作っていた女中の一人が、家政婦が遠のいたのを確かめてから口を開いた。
「女の人もいらっしゃるんでしょ。ウィルラートさまのお友達の妹さんだっけ」
「どんなドレスを着ていらっしゃるのかしら。わたし、奥さま以外の貴族の女の人って見たことがないわ」
「あら。ローアルド・ニルソンさまのおうちは貴族じゃないんでしょ。たしか、お金持ちの商家だって」
「上流階級なのは一緒じゃない。やっぱり美人なのかしらね。近くで見られたらいいのに」
 家政婦の目が離れたのをいいことに、女中たちは客の話に花を咲かせている。
 アイネだけはその中に加わらず、一人で黙々と寝室を整えていた。
 今は、久しぶりのお客さまも、きれいなドレスもどうでもいい。
 ウィルラートが屋敷を出てから七週間が過ぎた。アイネはいつもどおりの仕事をこなし、仲間たちと話し、午後になるとイクセルにだけお茶を運んだ。ことあるたびに、ウィルラートはいま何をしているのか、いつ帰ってくるのかと考え続けた。その長い日々が、ようやく今日で終わるのだ。

 ウィルラートたちを乗せた馬車が屋敷に到着した。その知らせがアイネたち女中の耳にも届いたのは、昼食を済ませて一息ついていた時だった。アイネたちは急いで食器を片づけ、身だしなみを整え、屋敷の玄関へと急ぐ。長く家を空けていた令息と、久しぶりの滞在客を、使用人たちも総出で出迎えるのである。
 玄関扉に面した大階段をはさんで、屋敷の使用人のほとんどが列をつくって並んでいた。中央近くにいるのが執事と家政婦、そして彼らから一歩進み出た場所に、屋敷の留守を預かる伯爵家の若君、イクセルが立っている。色めきたっていた屋敷の中でただ一人、普段どおりの時間を過ごしていた彼は、今も気負ったところはまったく見られない。穏やかな笑みを浮かべて、弟とその友人が入ってくるのを待っている。
 やがて、男性使用人の手によって、重厚な玄関扉が開かれた。
 アイネは息が止まりそうになるのをこらえながら、ゆっくりと動く扉を見守った。
 あと数秒で、ウィルラートにまた会える。笑顔が見られる。声が聞ける。夢でも記憶でもない、本物のウィルラートが、アイネのいるところに帰ってくる。
「仰々しいな。こんなに大勢でなくても良かったのに」
 懐かしい声とともに、待ちこがれていた姿が現れた。アイネの胸はこれまででいちばん熱くなり――次の瞬間、凍りついた。
 ウィルラートの左側に、見たこともない美しい娘が立っていたのである。ウィルラートの左腕に優雅に手をかけて、心なしか体を添わせるようにして。
「おかえり、ウィル」
 同じ場所に立ったままで、イクセルが弟に声をかけた。
「ただいま戻りました。――エヴェリーナ嬢、ユディタ嬢、ローアルド。こちらが僕の兄のイクセルです」
 ウィルラートは兄の言葉に答えると、側にいた令嬢と、その隣の二人に目を移した。ウィルラートたちと同じように腕を組んだ男女がもう一組いたのだ。
「こちらがローアルド・ニルソン。こちらがユディタ嬢とエヴェリーナ嬢。ローアルドの妹君たちです」
「はじめまして。そちらのお宅で、弟がたいそう良くしていただいたそうで」
「まあ、それはわたくしたちのほうですわ。ウィルラートさまがいらしてくださったおかげで、とても楽しい時間を過ごせましたもの」
「そうですよ。そのうえ、こんな立派なお屋敷に、妹たちともども泊めていただけるなんて。感謝申し上げます」
 イクセルとローアルドを中心に、なごやかな会話が続いている。五人とも、玄関広間を埋めつくしている使用人たちなど、視界に入っていないかのようだ。
 アイネは気がつくと、ウィルラートとその隣の令嬢を食い入るように見つめていた。エヴェリーナと呼ばれた令嬢は、兄妹の中ではいちばん年少のようだ。十五、六歳――たぶん、アイネと同い年くらい。つややかな栗色の髪を結い上げ、華奢な体を黄色のドレスでふんわり包んでいる。イクセルに話しかけられてはにかんでしまい、言葉につまるたびにウィルラートを見上げている。すぐ隣に自分の兄がいるというのに。
「どうぞ、客間へ。旅のお疲れを癒していただこうと、お茶を用意させております」
「わたくし、あとで庭園を見せていただきたいわ。デュオニス伯爵家のカントリーハウスには、何代も前から続く薔薇園があるのですってね」
 イクセルの誘導で、ウィルラートと客人たちは大階段へ向かっていく。令嬢たちのはしゃいだ声が屋敷じゅうに響きわたった。

「素敵だったわねえ、ユディタさまのドレス!」
 ウィルラートと客人の出迎えが終わると、使用人たちはそれぞれの持ち場に引き上げた。アイネたち女中はいったん厨房に入って一息ついているところである。客間を担当しているイルダたちは給仕の真っ最中だが、他の者たちは直前までの忙しさとひきかえに、お茶をいれて束の間のおしゃべりを楽しめる。
「あの髪の結い方を見た? 南部ではああいうのが流行っているのかしらね」
「ピンをいくつ使ったらあんなふうにできるのかしら。女中のお仕着せだとちょっと真似できないわね」
「あんなのは上流階級の美女がやるからこそ似合うのよ。ユディタさま、きれいな方だったわね。結婚していらっしゃるのかしら」
「エヴェリーナさまも、お人形みたいにかわいらしい方。お姉さまはわからないけれど、エヴェリーナさまはきっと未婚よ」
 仲間の一人の声に、アイネは手にしていたカップを握りしめた。次の瞬間、自分が考えたことに気がついて愕然とする。
 エヴェリーナが結婚しているかどうかなんて、気にしてどうするというのだ。
 女中たちはお茶を飲み、焼き菓子をかじりながら、興奮した様子で客の話を続けている。ウィルラートの親友だというローアルドも話題にはのぼったが、関心の的はやはり二人の妹たちだ。どちらの令嬢がどんなドレスを着ていたか、どんな目の色をしていたか、どんなに優雅にふるまったか、一人一人が熱っぽく述べていく。
 アイネは同じ席に着きながら、仲間たちの会話にはまったく入らなかった。味がしない紅茶を何度も口もとに運びながら、先ほど目にした光景を思い出しては振り払う。
 ウィルラートが屋敷に帰ってきたのに。この目で見たのは間違いなく、本物のウィルラートだったのに。アイネが片時も目を離さずにいたのにもかかわらず、ウィルラートのほうは視線ひとつよこしてくれなかった。ひょっとしたら、アイネがそこにいることすら気づいてなかったかもしれない。いや、きっと気づいていなかった。ウィルラートが気にかけていたのは兄と、友人と、自分の隣にいる可憐な令嬢だけだった。
 緊張していたエヴェリーナが、ウィルラートにだけ見せた笑顔は、なんて愛らしかったのだろう。まるで、ずっと以前からそうすることが決められていたかのように、ウィルラートの腕に手をかけて、すがるようにして。
 わたしのウィルラートさまにさわらないで。
 そんなことを思ってしまった自分をかえりみて、アイネはひどく落ち込んだ。
 ウィルラートはアイネのものではない。久しぶりに遠方の友人に会って、二人の妹ともども屋敷に招いたのだから、彼女たちをもてなすのは当然のことだ。ウィルラートは気さくで明るいから、見ず知らずの令嬢ともすぐにうちとけたのだろう。エヴェリーナも仲良くなった兄の親友に頼っていただけだ。腕を組むことだって、上流階級ではあたりまえのことなのかもしれない。
 それなのに、覚えたことのない感情が胸の中にたまっていく。
 こんな気持ちは知らない。ウィルラートを前にした時に感じるのはいつだって、包み込まれるようなあたたかさだけだったのに。ずっと会いたくてたまらなくて、ようやく顔を見ることができたというのに。
 アイネは紅茶を飲み干し、自分の感情も押し流そうとした。こんなことを考えたくない。きっと、知らない人と一緒にいるウィルラートを見て、びっくりしてしまっただけなのだ。いつもと同じ時間を一緒に過ごせば、こんな気持ちはきっと消え去ってくれる。いつものお茶の時間になれば――。
「あなたたち、いつまでのんびりしているの。お客さまがいらっしゃる日もいつもの仕事がないわけではないのよ」
 とつぜん、厨房に張りのある声が響いた。女中頭が入り口に立って、おしゃべりに興じる部下をいさめている。
 女中たちは慌てて茶器を置き、ばらばらに立ち上がった。
「はい。すみません」
「すぐ行きます」
「そうしてね。それから、アイネ。わかっていると思うけど、今日は若君さまたちにお茶は出さなくていいわ。お二人とも晩餐までお客さまがたと過ごされるから」
 アイネは茶器を取り落としそうになった。
 今度こそ、立ち直れそうになかった。

 三人の客を迎えての晩餐のため、女中の多くが普段とは別の持ち場に駆り出されている。つまり、通常どおりの仕事をする者は、いつもより多くのことをこなさなければならないということだ。アイネももちろんその一人で、束の間の休息を終えた後は、屋敷の端から端までを駆けまわることになった。
 目が回りそうな数時間だったが、アイネは忙しいのが嬉しかった。手を動かしていなければ、また余計なことを考えてしまいそうだったから。
 ようやく一通りの仕事を終え、仲間たちと夕食にありつくことができた時には、屋敷の外はすっかり暗くなっていた。
 夕食を済ませると、アイネは一人で屋敷の外に出た。なんとなく、外の空気を吸いたかったのだ。
 外に出た瞬間、そうしたことを後悔した。夜の風が頬を刺すように冷たかった。ウィルラートが帰ってくるのを待ちわびている間に、こんなにも肌寒い季節になっていたのだ。
 今日は雲が多いのか、漆黒の空には星は一つも浮かんでいない。ぼんやりした月の光だけが、そこにあるとわかる程度に見えるだけだ。
 暗い夜空を見つめていると、わけもなく心細くなってきた。やはり出てきたことが間違いだったのだ。あたたかい屋敷の中で、仲のいい女中たちと一緒にいるべきだったのに。
 きびすを返し、屋敷の中に向かおうとしたところで、頭が何かにぶつかった。それが人であることに気がついて、アイネは慌てて一歩ひき、相手を見上げた。そして立ちすくんだ。
「大丈夫?」
 気遣うような声がするとともに、肩を大きな手で支えられた。
 ずっと、この声が聞きたかった。この手に触れたかった。
「ウィルラートさま」
 アイネはかすれた声でつぶやいた。
「お客さまは、いいのですか」
 冷たい風にあたったせいか、ひどく冷静な声が出た。もっと言いたいことがたくさんあったはずなのに。ウィルラートに会ったら最初に何を言おうか、ずっと考えていたはずなのに。
 屋敷の外は暗く、ウィルラートは窓の明かりを背にしているので、どんな顔をしているのかはほとんど見えなかった。
「兄さんが相手をしているからいい。客間の窓から、きみが外に出ていくのが見えたから、適当なことを言って抜けてきたんだ」
 アイネは思わず、ウィルラートの背後に並んでいる窓を見た。客間は二階のどの窓だっただろう。あんな遠いところから、こんな暗い外の景色を見て、そこにいる女中がアイネだとわかったのだろうか。
「そんなことより、どうして外に出ているんだ。こんなに冷えるのに」
「すぐ中に戻ります。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
 アイネはウィルラートの手を振りきり、彼を追い越して屋敷に向かおうとした。だがウィルラートが先にまわり、またしてもアイネの肩をつかんだ。
「待って――いや、中には入ってほしいんだけど――きみと少し話したいんだ。その、渡したいものもあるし」
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。でも、お客さまのところに戻ってください。きっとお待ちになっていますから」
「アイネ。何か怒っている?」
 そう言われたとたん、アイネは泣きそうになった。隠しとおそうと思ったのに、やっぱり知られてしまった。ウィルラートに、この暗い気持ちを覗かれてしまった。
「怒って、いません。はなしてください」
「何がいけなかった? 手紙をもっと書いてほしかった? もっと早く帰ってきたら良かった?」
「ウィルラートさまは何も悪くありません。お願いだからはなしてください。わたしの顔を見ないでください」
「どうして?」
「わたし、きっと、とても醜い顔をしています」
「暗いから顔なんて見えない。見えたって、きみは醜くなんかない」
「でも、いやです。お願いですから――」
 言い終える前に、アイネの視界は真っ暗になった。もともと暗かった視界に何かが割り込んできた。
 抱きしめられているのだと気づいたのは、しばらく経ってからだった。アイネの肩をつかんでいた手が背中に回され、頭を抱え込むようにして、顔を胸に押しつけられている。夜風で冷えきった体が急激に熱くなっていく。
「こうしていると顔は見えない。って、きみが前に言ったから」
 頭の上から、言い訳するような声が下りてきた。
 それは確かに、以前アイネが言った言葉だった。あの時、アイネははじめて自分からウィルラートを抱きしめたのだ。もう何年も前のことのような気がする。
 アイネはあらがうのをあきらめて、おとなしく身をゆだねた。今日の昼間、知らない令嬢を支えていた腕が、今は確かにアイネだけを包んでいる。涙があふれ出て止まらなくなった。
「ごめんなさい。ウィルラートさま、ごめんなさい」
「謝られたってわからない。何がそんなに辛かった? 言ってくれたら、ちゃんと直すよ」
「直していただくところなんてありません。悪いのはみんなわたしです」
「きみこそ何も悪くない。アイネ、頼むからちゃんと話してくれないか。きみのことがわからないのは辛いんだ」
「わたし、自分が、怖いんです」
 アイネはしゃくり上げながら、ぽつぽつと言葉を吐き出した。うまく言えるかどうか不安でたまらなかった。
「あなたが、長く留守にされると知った時、寂しくて、寂しくて、本当は行かないでほしかった。そう言ったら、あなたは本当に、行かなくてもいいと言ってくださって、手紙を書くと約束してくださいました。一度だけでじゅうぶんだったのに、何度も書いてくださって、本当に嬉しかったです。でも、やっぱり、早く会いたくて。手紙じゃなく、あなたの声が聞きたくて。それだけでいいと思っていたのに、今日あなたに会った時、素直に喜べませんでした。あなたが――知らない方と一緒にいるのを見て、とても悪いことを、考えました」
「ローアルドの妹のこと?」
 ウィルラートが明るい声で尋ねた。急に安心したような、どこか嬉しそうな声だった。
「そんなことを心配したのか。ユディタは婚約しているし、エヴェリーナも何でもないよ。エヴェリーナは親戚以外の家を訪問したことがなかったから、ぜひ連れていってやってほしいとローアルドに頼まれたんだ。それだけだ」
「そうじゃないんです。わかっていました。わかっていたのに、嫌な気持ちを抑えられませんでした。そんな気持ちになる資格なんて、わたしにはないのに」
「あるよ。俺はきみが嫌がることはしたくない。エヴェリーナたちと一緒にいるのが嫌なら、できるだけ早く帰ってもらう」
「だめです。そんなことをされたら、ますます怖くなります」
「何が怖いの?」
「自分が、どんどんわがままになっていくことが。今だって、あなたを、大切なお友達や、お兄さまから取り上げています」
「俺がきみと一緒にいたくてきたんだ。きみは何も悪くない」
「でも、怖いんです。ウィルラートさま、わたしに何もかも与えないでください。わたし、自分のことだけじゃなく、あなたのことまで怖くなってしまいます」
「――わかった。きみが怖がるようなことはしない。できるだけ」
 本当にわかってくれたのだろうか。自分を包んでくれている人の気持ちがわからなくて、アイネは途方に暮れた。どれだけ言葉を尽くしても、わかってもらえないような気がした。
 アイネだって、こうして言葉にしてみて、自分の気持ちがはじめてわかったのだ。ウィルラートが優しくて、アイネになんでもしてくれるということが、どうしてこんなに怖いのか。ウィルラートにはきっと永遠にわからないに違いない。
 それはとても寂しくて、そして幸せなことだった。
「もういいかな。寒いから、とにかく中に入ろう」
 ウィルラートがためらいがちに腕をはなし、アイネの顔をのぞき込んだ。
 アイネは慌てて頬をぬぐい、うなずいた。
「はい」
「会いたかった?」
 間を空けずに聞かれ、アイネはかっと熱くなった。
「――はい」
「俺もだ。じゃあ、行こう」
「待ってください」
 アイネはふいに思い出し、ウィルラートを呼び止めた。この時を逃したら、次はいつになるかわからない。首をかしげるウィルラートを待たせて、エプロンの胸もとに手を入れる。
 取り出したのは一通の封筒だった。アイネとウィルラートの体温ですっかりあたたかくなっていた。
「……え?」
「手紙をありがとうございました。お返事です」
 ウィルラートの視線が、アイネの手もとに釘づけになっている。
 留守にしていた七週間で、ウィルラートは五通の手紙をくれた。アイネがそのすべてを何度も読み返し、枕元の大切な物を入れる箱にしまい、時には持ち歩いていたことを、この人は知らないのだ。
「わたしから出すことはできないけれど、どうしても書きたくて。一通いただくたびに書いていたから、ぜんぶで五通あります。これは、いちばん最初にいただいたものへのお返事です。お帰りになってからお渡ししたって、しかたがないのですけど――」
 最後まで言い終わる前に、アイネは手紙ごとウィルラートに引き寄せられた。先ほどよりもずっと強く抱きしめられて、息もできないほどだった。
「ただいま、アイネ」
 耳元でウィルラートがささやいた。息がかかるくらい近くでこの声を聞くのは、久しぶりだった。声がアイネの中のいちばん深いところに落ちて、凍てついていたものを溶かしていく。
「おかえりなさい。ウィルラートさま」
 アイネは腕を伸ばし、恋人を抱きしめた。
 しばらくそうした後、二人は同時にお互いをはなした。近くで目があって、照れたようにほほえみあう。ウィルラートは再びアイネの手もとを見て、花を愛でるようなしぐさで封筒を手にした。
「いま読んでもいい?」
「……だめ、です」
「嘘だよ。後で一人になってから読む。残りの四通は、お茶と一緒に届けてくれる? 毎日、一通ずつ」
 アイネはにっこり笑って、うなずいた。
 ようやく、いつもの日々が戻ってくるのだ。ウィルラートにお茶を運ぶ毎日が。


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