秘密のお茶会 [ 8 ]
秘密のお茶会

8.あなたのいない日
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「ウィルさん」
 アイネが声をかけると、梯子の上にいた庭師が顔をこちらに向けた。
「やあ、アイネ。どうしたんだね?」
「玄関に飾るお花をいただきに来ました。ごめんなさい、ティカルさんもセイさんも見つからなくて」
「セイは表の花壇のほうにやったよ。ティカルは……今日はどこで昼寝しとるんだかなあ」
 ウィルは肩をすくめると、ゆっくりと梯子を降りてきた。アイネはその様子を見ながらほほえんだ。
 晴れた朝の庭は静かで、空気が澄んでいた。木のそばに歩み寄ると、まだかすかに朝露のにおいが残っている。
「お手伝いしましょうか? ウィルさん」
「いいや、今日は大丈夫だよ。屋敷の中は? 忙しくないのかね」
「わたしたちもゆっくりしてます。旦那さまたちがまだお留守だし……ウィルラートさまも、いらっしゃらないから」
 その名前を口に出した時、アイネの声はしぼむように小さくなり、顔からは笑みが消えていった。うつむきがちになったアイネに、庭師のウィルがかわりにほほえんだ。
「ウィル坊っちゃまは、長いこと留守にしなさるのかね」
「それは、わかりません。別のお宅にも寄られるかもしれないし」
「寂しくなるね」
「はい……あ、いえ……はい」
 アイネはどきまぎしながら答え、視線をあちこちに動かした。ウィルのにこやかなまなざしを受けて、顔も体も熱くなる。
 たぶん、ウィルは知っているのだと思う。アイネと、ウィルラートのことを。
「そんなに、寂しくは、ないです。イクセルさまはいらっしゃるし、手が空いたらみんなとおしゃべりしているし」
「そうかね。わしらは、ちょっとばかり寂しいが」
「わしら?」
「この庭と、このわしさ」
 ウィルはアイネに目くばせすると、くるりと向きを変えた。
「玄関の花だったね。アイネひとりでは持てないが、中から誰かに来てもらうかね。それとも、ティカルを探して叩き起こすかね?」
「わたしが何回かに分けて運びます。時間はたくさんあるから」
「たまには、こういう時もあったほうがいいのかもしれんなあ」
 アイネはウィルを見てほほえみ、ふと屋敷のほうへ目を移して、またほほえんだ。
 ウィルラートが南部に向けて旅立って、今日でちょうど一週間になる。

「それで、やっとできあがって、ヴォリス夫人のところへ持っていったの。そしたらなんて言われたと思う?」
「『糸の始末がなっていませんよ、アニシア。あなたはその年まで繕いものもしたことがなかったの?』」
 口を挟まれたアニシアは、隣の女中を睨みつけて真っ赤になった。
「勝手に言わないでよ、リデル!」
「いいじゃない。どうせそんなところでしょ」
「だって、繕いものなんて知らないわよ! どうせ結婚したら、あんなのやる必要なくなるんだし」
「はいはい、結婚できたら、ね」
 台所女中のリデルは、短く言い置いてカップを取った。それを横目で見ながら、アニシアがまたも顔を赤くしている。
 アイネはあわてて声をかけた。
「アニシアは刺繍が上手よね。センスもいいし」
「そうよ! 小さいころから習ってきたもの!」
「刺繍は上手いのに、繕いものはできない女中ってのもね……」
「何よリデル。だいたいねー」
「リデル、これ美味しいわ。誰かつくったの?」
 アニシアの反論を遮ったのは、アイネの隣に座っていたローリャだった。もっとも、彼女は言い争いを止めようとしたのではないようで、手の中にあるマフィンに夢中になっている。
 遮られたアニシアはあからさまに頬を膨らませたが、リデルはまったく気にした様子もなく答えた。
「あたしとタミラさんで。今日、若君さまのお茶の時にも持っていってもらうつもりだけど、どうかしら?」
 リデルがアイネのほうを見たので、アイネはにっこり笑った。
「きっとお好きだと思うわ。イクセルさまは前にも、リデルのお菓子を褒めていらしたし」
「ほんと? それ嬉しいわ。ウィルラートさまもお好きよね、甘いもの」
 突然出てきた名前に、アイネはかすかに肩を揺らしたが、すぐに答えた。
「ええ。今日はいらっしゃらなくて残念ね」
「旦那さまと奥さまもね。ずいぶん長いことお留守よねえ」
「いつお帰りになるのかしらね」
「まあ、気楽といえば気楽なんだけど……」
 口々に呟いたあと、短い沈黙が訪れる。
 確かに、主人一家のほとんどが留守だからこそ、こうしてお茶を飲み、おしゃべりをする余裕もできる。けれど、伯爵夫妻に続いて、いつも明るい次男までもがいないとなると、屋敷はどことなく寂しげに感じる。
「まあ、たまにはこういうのもいいかもね」
 ローリャが沈黙をやぶって呟く。
 女中たちはそろってうなずき、アイネも少し遅れて、ゆっくりとうなずいた。

 たたんだカーテンを抱えて廊下を歩いていると、向こうからイルダが近づいてくるのが見えた。彼女も手に何かを持っている。
 それが何なのかすぐに気づいたアイネは、すれ違う前に立ち止まった。
「イルダさん、手紙?」
「そう。今日はちょっと少ないわね」
 イルダの手の中にある束は、確かにあまり厚みがない。三、四通の束がふたつといったところだろうか。とうぜん、アイネやイルダには、その束をといて宛名を見ることは許されない。使用人宛てのものも含めて、手紙を管理するのは執事の仕事だ。
「そんなに見なくても、あんたが待っている手紙はこの中にはないわよ」
 イルダが呆れたように言う。アイネは我に返って赤くなった。
「わたし、そんなに見ていた?」
「ひったくりそうな目で見てたわよ。ウィルラートさまは、普通の郵便であんたへの手紙は出せないでしょ。どうやって届けさせるつもりかしらね」
「……うん」
 ウィルラートが屋敷を留守にして一週間。約束していた手紙は、まだアイネのところに届いていない。
 もちろん、すぐに届くとはもともと思っていない。なんと言ってもウィルラートは友人に会いに行ったのだし、あちらに着けばいろいろと積もる話もあるだろう。それに、もともとウィルラートは、手紙を書くのが得意ではない。
 一週間が過ぎても手紙が届かないことに、がっかりしているわけではないけれど――郵便配達人を迎えるたびに、手紙の束を目にするたびに、無意識に探してしまうのだ。アイネ・ハーヴィン、とウィルラートの字で書かれた封筒を。

「美味しいね、このマフィン」
 イクセルがお茶を飲みながら言ったので、アイネは思わず笑顔になった。
「台所の子たちに伝えておきます。きっと喜びます」
「そうだね。ああ、それから悪いけれど、執事の部屋にこれを持っていってくれるかな」
 イクセルはカップを置き、かわりにテーブルの上から手紙を取って、アイネに差し出した。アイネは受け取りながらにっこりした。
「かしこまりました。必ずお届けします」
「うん、ありがとう」
 イクセルの声がいつになく優しい。
 手紙の宛名を見なくても、誰に宛てたものなのかすぐにわかった。外国にいるイクセルの婚約者だ。
 イクセルは両親のいる王都に滞在中、公爵家の末の令嬢と婚約したのだという。彼女は見聞を広めるための長期旅行に出かけており、国に戻りしだいこの屋敷に嫁いでくる予定だそうだ。アイネたちは彼女を若奥さまと呼ぶことになる。
「手紙はいいね。それを書いている時間は、相手のことだけを考えていられる」
 自分の書いた封筒を見つめながら、イクセルは穏やかな声で言った。
 婚約者のことを心から想っているのだ。アイネはそれを想像し、未来の若奥さまが少しだけうらやましくなった。
 イクセルは筆まめなたちで、両親にも婚約者にも間をあけず手紙を出している。つまり彼はそれだけひんぱんに、婚約者のことを考えているというわけだ。
 もちろん、手紙の頻度だけで気持ちが量れるわけではない。手紙を書いていない時間は相手のことを考えていないということでもない。こんなことでウィルラートとイクセルを、自分と公爵令嬢を比べるなんて、あつかましいにもほどがある。ウィルラートはアイネのわがままを受け入れて、苦手な手紙を書くことを約束してくれたのに。
「きみも、誰かからの手紙を待っているのかな?」
 イクセルが急にそんなことを言い、アイネの心臓が跳び上がった。預かった手紙を見つめながら、自分はどんな顔をしていたのだろう。
 とっさに返事ができないアイネを見て、イクセルはにこにことほほえんでいる。婚約者への手紙を見る目とはまた別の表情だ。
 この伯爵家の若君は、イルダ、庭師のウィルに続く三人目の、アイネたちの秘密を知っている人物なのだ。
「あ――いえ、イクセルさま」
「いいえ?」
 否定しようとしたのに、イクセルに見られているとうまく言葉が出てこない。
「いえ……はい」
 アイネはうなずいて、そのまま顔を上げられなかった。赤くなっているのが自分でもわかる。
 よく考えたら、否定することなんてなかったのだ。イクセルは、手紙を待っているのかと聞いただけで、それがウィルラートだろうとは一言も言わなかったのだから。
「そう。早く届くといいね。僕も待っているんだけど」
 アイネは顔を上げ、小首をかしげた。
 イクセルが待っているのは婚約者からの手紙かと思ったが、それなら彼は間をあけずに受け取っているはずだ。
 ひょっとして、彼が待っている手紙というのは――
 ウィルラートは兄とは違い、筆をとるのは苦手だ。王都にいる両親にもめったに手紙を出さず、そのせいで小言を言われているらしい。屋敷に残っている兄にも手紙は書いていないのだろう。
 イクセルはアイネの顔を見て、悪だくみをする子どものような目をした。
「僕のほうに先に着いたら――まあ、そんなことはないとは思うけど――きみにすぐに知らせてあげよう」
 アイネは遠慮も礼儀も忘れて、無言でうなずいてしまった。

 若君にお茶をいれ、預かった手紙を執事の部屋に届けると、女中頭のもとへ指示を仰ぎにいく。もともと女中の数はじゅうぶんに足りているし、伯爵夫妻と次男が留守で、滞在客も訪問客もないとなると、時間にかなりの余裕ができる。アイネは女中頭と相談した上で、玄関の前を一掃きすることになった。今朝、別の女中がやったばかりだったけれど。
 箒を持って大きな扉を開け、外に出る。このまま散歩に行きたくなるようないい天気だ。
 アイネは一瞬、掃除を忘れて、ぼんやりと空を見上げた。ウィルラートのいる南部も天気はいいのだろうか。元気で、久しぶりに会う友人と楽しくやっているだろうか。
 こんなふうに仕事の手を休めて、考えごとができるのは今だけだ。たまには、こんな日があってもいい。ウィルやローリャが言ったとおり、アイネもそう思う。
 でも、やっぱり、寂しい。
 イクセルの部屋で穏やかな時を過ごした後は、いつものようにウィルラートの部屋に行きたい。ノックの前に髪や服を少し整えて、どきどきしながら扉を開けて、待ちかねていたように笑うウィルラートの顔が見たい。お茶をいれる間ももどかしいように抱き寄せられ、並んで座って、たわいないおしゃべりがしたい。触れたがるウィルラートの手をかわし、あるいはかわさず――胸の高鳴りに耐えられなくなったところで、腕からすり抜けて立ち上がる。あからさまに表情を曇らせるウィルラートの目を見て、次の仕事があるので、と別れを告げる。部屋を出た時は正直ほっとして、けれどすぐにまた会いたくなって、明日のお茶の時間を待ちわびる。
 そんな日を、もう一週間も過ごしていないのだ。高い空を見上げていると少しずつ視界がかすんできて、アイネはあわてて目元をぬぐった。
 その時、目の端で何かが動いた。
 涙のせいだと思ったが、少し遅れて物音も聞こえた。
 アイネはびっくりして箒を抱きしめ、動いた何かがいるほうに向きなおる。現れたのは――どこに隠れていたのか――最近顔なじみになった若い郵便配達人だった。
「アイネ・ハーヴィンさん?」
 彼は帽子を取り、ほとんど迷いのない声で聞いた。
 アイネはうなずきながら不思議に思った。彼に自分の名前を教えた覚えはないのに。
「良かった。きっとあなたのことだろうと思っていました」
 配達人は人なつこく笑うと、少しずつ歩み寄ってきた。ななめ掛けにした大きな鞄から、一通の手紙を取り出しながら。
「お手紙です。あなたに直接お渡しするようにと頼まれていたので」
 差し出された手紙を見つめ、アイネは泣きそうになった。誰に頼まれたのかは聞かなくてもわかった。
 ウィルラートが発ってから一週間。南部の目的地に着くまでに、そこから郵便が届くまでに、それぞれどのくらい日数がかかるのか、正確なことはアイネにはわからない。でも、たぶん、着いてすぐに書いてくれたのだ。
 アイネは手を伸ばし、触れたら消えてしまうような気がしてためらい、おそるおそる受け取った。
「ありがとう、ございます」
「いいえ」
 郵便配達人は照れたように笑った。
「あなたはよく庭に出ているから、ここで待っていればきっと会えると思って。その通りになって良かった」
「えっ」
 アイネはうろたえた。
 イルダが手紙の束を受け取ってから、けっこうな時間が経っている。この少年はその間、アイネ・ハーヴィンが出てくるのをずっと待っていたのだろうか。
「ああ、気にしないでください。この地区の配達はいつもここが最後なんです。時間を余らせるために、他の配達を急いで終わらせました」
「そんな。ごめんなさい」
「謝られるようなことじゃないんです。ウィルラートさまとは交換条件で取り引きしただけですから」
 郵便配達人は帽子をかぶり、いつもと同じ仕草で会釈した。
「じゃあ、また」
「あ――ありがとうございました」
 配達人はもう走り出していたが、アイネの声に立ち止まって振り向いた。笑顔で手を振り、それからまた駆け出していく。
 アイネは彼の姿を見送りながら、しばらく玄関の前に立ち尽くしていた。封筒を持っている両手がぽかぽかとあたたかい。

 いくつかの仕事を済ませ、短い休憩時間を得ると、アイネは階上の女中部屋に駆け込んだ。四人で使っている相部屋だが、他の三人は幸いにも戻っていなかった。
 自分の寝台に腰を下ろし、両手に持った封筒を胸の高さに持ち上げる。
 白い封筒の中ほどに、アイネ・ハーヴィンの名前がある。何度か見たことのあるウィルラートの字が、アイネのフルネームを綴っている。思いのほか――と言ったら失礼かもしれないけれど――きれいに整っていて、どこか堅い文字。
 この中に、ウィルラートの手紙が入っている。
 アイネは裏返して封蝋を見つめ、また裏返して宛名を見つめ、しばらくそれを繰り返した。開けたら消えてしまうのではないだろうか。もし何か間違いがあって、中身が入っていなかったらどうしよう。そんな意味のないことを考え、時間がないことを思い出し、ようやく指をかける。封を開けて便せんを取り出す間、ほとんど息もできなかった。
 ウィルラートの手紙は長くはなかった。アイネにも読めるように気をつかってくれたのか、筆記体ではなく簡易な書体で、やさしい綴りの言葉ばかりで書かれている。
 アイネは始めから終わりまで三回続けて読み、便せんを胸に押しあてた。
「わたしも」
 抱きしめた手紙に向かって、小声でつぶやく。そこに本物のウィルラートがいるように。
「わたしも、会いたい、です。ウィルラートさま」


親愛なるアイネ・ハーヴィン嬢

 今日、無事に着きました。
 ローアルドにも会えた。元気そうだよ。
 電車の中にいる間、ずっときみへの手紙に何を書くか考えていました。つまり、ずっときみのことを考えていられた。
 こういうのもいいね。兄さんがしょっちゅう婚約者に書いているわけがやっとわかったよ。
 でも、やっぱり手紙だけでは足りない。早くきみに会いたい。
 着いたばかりだし、こちらでも楽しく過ごすつもりだけど、きみがいないのが寂しくて仕方がない。きみもそう思っていてくれたら嬉しいな。
 なるべく早く帰るつもりです。それまで元気で。
 早く会いたい。
ウィルラート・デュオニス


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