秘密のお茶会 [ 7 ]
秘密のお茶会

7.わがままな手紙
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「ウィルラートさま、このところ元気がないわよね」
 いつものように、仲間たちとお茶を囲んでいる時に、女中の一人がそう言った。
 アイネは顔を上げかけ、慌てて手元のお茶に視線を戻した。久しぶりにウィルラートの噂を聞いた気がする。
「元気がないってこともないんじゃない。昨日お話したときは笑っていたわよ」
「でも、ときどき何か考え込んでるっていうか……ねえ?」
「そうそう。上の空になっている時があるのよね」
「らしくないわよね。どうなさったのかしら」
 アイネは無言で、ゆっくりとお茶を飲み続けた。
 あいかわらず、女中たちの目は鋭い。ウィルラートが素直なせいもあるのだろうが、元気な時もそうでない時も、彼女たちにはすべてお見通しのようだ。
 とはいえ、アイネも人のことは言えないのだ。ここしばらく、ウィルラートの口数が少なく、何か悩んでいるようだということは、アイネもずっと気になっていたのだから。
「アイネ、わけを知らない?」
「そうだわ。何か聞いていないの、アイネ?」
 女中たちの視線をいっせいに浴びて、アイネは固まってしまった。ウィルラートの部屋に毎日お茶を運んでいるせいか、アイネは他の女中よりもウィルラートをよく知っていると思われている。実際、以前にもこれとそっくりな場面があり、その時はアイネがイルダの助けを借りて解決した。
 けれど、今度は違う。ウィルラートが何を悩んでいるのか、アイネにもわからないのだ。今日のお茶の時にでも、それとなく聞いてみようと思っている。
 だから、正直に答えた。
「わからないの。今日、聞けそうなら聞いてみるわ」
「そうよ。そうしてちょうだい」
「報告を待っているわね」
「きっとよ、アイネ」
「……うん」
 アイネはうなずき、もう一口お茶を飲み込んだ。
 聞けそうなら、ではなく、是が非でも聞かなければならないようだ。

 ウィルラートの様子がおかしいことに気づいたのは、ほんの数日前だ。いつものようにお茶を持っていき、いつものように他愛ない話をして、……いつものように隣に座らされて、抱き寄せられた。その時、ウィルラートがアイネの髪をもてあそびながら、何か考えている気配がしたのである。
 はじめは気のせいかと思った。アイネが話しかけると普通に応えてくれたし、笑顔も見せていた。特に落ち込んでいるというわけではないようだ。
 けれどその後も、ふとした拍子にウィルラートが黙り込むことがあった。アイネの隣にいるのに、どこか別の場所に一人だけでいるかのように。
 落ち込んだり怒ったりしているわけではないようなので、アイネもそれほど深刻には考えていない。仲間たちに約束したとおり、今日のお茶の時間にでも聞いてみようと思う。
 そんなことを考えながら、玄関のドアノブを磨いていた時だった。
「こんにちは、伯爵家の女中さん」
 外からかけられた声に振り向くと、大きな鞄を斜めがけにした少年が立っていた。新しく入ったばかりの郵便配達人だ。
「こんにちは。ごくろうさまです」
「これが、今日のぶんです」
 少年は帽子をとってあいさつすると、鞄から手紙の束を取り出した。束はふたつあり、ひとつは主人一家のもの、もうひとつは使用人たちに宛てたものだ。アイネは両手で受け取った。
「旦那さまたちは長いあいだお留守なんですね」
 配達の少年がアイネの手元を見て言った。その中には、伯爵夫妻からふたりの令息に宛てた手紙が含まれている。
「ええ。もうしばらく、お帰りにならないと思います」
「気楽でいいものですね――いや、こんなに長いとちょっと寂しいのかな。もうすぐ、ウィルさまも行ってしまうみたいですし」
 アイネはきょとんとした。ウィルさまというと、庭師のウィルのことではない。伯爵家の次男ウィルラートのことだ。
 いま、彼はなんと言ったのだろう。
「行ってしまう?」
「あ、あなたは聞いてないんですか」
 何も知らない少年は、天気の話でもするように言った。実際、配達人と女中が話すことといえば、天気の話の延長ぐらいのものだ。主人一家の噂話もそのひとつに過ぎない。
「ここのお屋敷のウィルさま、近いうちに南部に旅立たれるんでしょう? このあいだ、家政婦のヴォリス夫人が話していましたよ」

 ウィルさまも行ってしまう。
 近いうちに南部に旅立たれる。
 配達人の少年の言葉が、鐘の音のようにアイネの頭に響いたまま、半日が過ぎていった。
 上の空のままなんとか仕事をこなして、ようやく午後のお茶の時間が来ると、アイネは厨房で茶器をもらい、イクセルの部屋でお茶をいれてから、飛び込むようにウィルラートの部屋に入った。お茶の準備もそこそこに、さっき聞いたことをおずおずと繰り返す。
 ウィルラートは一瞬たじろいだだけで、すぐに笑顔に戻ってこう言った。
「言っていなかったかな。来週から、南部のローアルドの実家に行くんだ」
 ローアルドというのは、ウィルラートが寄宿学校にいた時からの親友である。アイネは会ったことはないが、ウィルラートから何度も話を聞いている。そのローアルドが急な病にかかって寝込み、ウィルラートを心配させていたのもよく覚えている。回復を知らせる手紙が届いた時は、アイネも一緒にほっとしたのだ。
 そういえばあの時ウィルラートは、ローアルドにいつか会いに行くと言っていたような。
「約束していたんだ。もう少しあたたかくなったら、お互いの家を訪問しあうって」
 アイネが思い出しかけたのと同時に、ウィルラートはあっけらかんと言った。
「きみに話していなかったかな」
「……お聞きしました」
 アイネはなんとなく目線を落とし、抑えた声で答えた。
 アイネはあんなにびっくりしたのに――今だって隠しきれないくらいうろたえているのに、ウィルラートは平然としている。
「アイネ?」
 無言でお茶の準備を始めた恋人を見て、ウィルラートがようやく表情を変えた。
「アイネ? 怒っている?」
「……いいえ」
 アイネは黙々とお茶を注ぎ、カップを持ち上げてウィルラートの前に差し出した。
 テーブルの上につくかどうかの瞬間、手首に触れられる。
「きゃっ」
「怒った? アイネ」
 アイネが叫んだのとほぼ同時に、ウィルラートの声がした。揺れていたお茶が落ち着くのを待つ間、沈黙が流れる。
 アイネがおそるおそる顔を上げると、ウィルラートと目があった。
「……怒っていません」
 思ったより近かった顔に驚いて、アイネは思わず目をそらした。そのまま、目線を戻すことも、言葉を続けることもできなかった。
「嘘だ。怒っている」
「怒っていません」
「何がいけなかった? 家を空けることを、ちゃんと話しておかなかったこと?」
「……ですから、怒っていません」
 きっと自分は今、かわいげのかけらもない顔をしている。このままではいけない――ウィルラートを傷つけてしまう。
 わかっているのに、どうすることもできなかった。
「アイネ、嫌なことがあったら、ちゃんと話してほしいんだ。どんなことでも、俺はちゃんと聞くつもりだから」
 ウィルラートの声は真剣だった。アイネはうつむいたまま笑いもせず、ウィルラートの真摯な問いかけに、押し戻すような答えしか返せないのに。ウィルラートは怒りも焦りもせず、アイネの気持ちを聞き出そうとしてくれている。
 それが、逆に辛かった。
「……ごめんなさい、ウィルラートさま」
 アイネは恋人の手をほどきながら、やっとそれだけ言った。
「お茶は入りましたので、もう失礼します」
「アイネ」
「怒ったわけではないんです。本当に、ごめんなさい」
「アイネ――」
 繰り返される呼びかけを無視して、アイネは立ち上がり、小さく頭を下げた。
 そして、ウィルラートの部屋を出た。

 後悔と自己嫌悪に、押しつぶされそうになりながら、アイネは屋敷の廊下を歩いた。
 本当に、怒ったわけではないのだ。ウィルラートの顔を見ているうちに、泣き出しそうになってしまったのを、隠そうとしていただけで。
 来週から南部に出かける。ウィルラートがこの屋敷からいなくなる。
 それを思い出しただけで、今もすぐに涙が浮かんできそうになる。
 アイネはそのくらい悲しくて、寂しかったのに、ウィルラートは少しも動じていないようだった。短い散歩に出るかのような気安さで、アイネに話していなかったことさえ、大した問題でもないかのように。
 考えてみればあたりまえだ。伯爵家の令息が、自分の予定をわざわざ女中に話すわけがない。これまでだって、そういうことは何度でもあった。ウィルラートが留守だということを急に聞いて、密かにがっかりした回数など数えきれない。
 恋人同士になったのだから、自分にだけは話してほしいなんて。いつからこんなに、わがままになってしまったのだろう。
 ウィルラートにとっては、きっと些細なことなのだ。久しぶりに会う親友のことで頭がいっぱいで、屋敷に残していく女中のことなんて、気にもとまらなかったに違いない。南部に着いたら、アイネのことなど思い出しもしないかもしれない。
 アイネはますます落ち込み、そしてふと気がついた。
 ウィルラートが何日後に発つのか、どのくらい向こうで過ごすのか、何も聞いていなかったということに。

「こんにちは、伯爵家の女中さん」
 次の日も、アイネは配達人から手紙の束を受け取った。家政婦の伝言を庭師のウィルに伝えてきた帰り、たまたま玄関口で行き会ったのである。
「……こんにちは」
「今日はちょっと多いですよ。気をつけて持ってください」
 少年が言ったとおり、手渡された束は昨日のそれより厚みがあった。特に主人一家へのものが多い。
 南部で会う人々からウィルラートへの手紙が、集中しているのかもしれない。そんなことを考えてしまい、昨日の落ち込みがよみがえってくる。
「どうしたんですか? 元気がないみたいですけれど」
 配達人の少年が気遣わしげに言い、アイネは慌てて微笑んだ。
「なんでもないんです。――ごくろうさまでした、この後もずっと配達なんですか?」
「今日はこれで、いったん局に戻ります。たいていの日はこのお屋敷が最後ですよ」
「そうなんですか」
 アイネは配達人を送り出すと、手紙を渡すために執事の部屋へ急いだ。
 この後は大階段を掃除して、仲間たちと昼食を済ませて、久しぶりに客間の点検をして、それが終わったら、令息たちにお茶を運ぶ時間だ。

 ウィルラートの部屋の扉を開けるなり、アイネは叫びそうになった。部屋に入ってすぐ、つまりアイネの目の前に、部屋の主が立っていたのである。
「ウィルラートさま――」
 声を上げるのと同時に、手にしていた茶器のトレイを取り上げられた。
 ウィルラートはそれを奥のテーブルに置き、立ち尽くしているアイネの後ろで扉を閉めて、再びアイネの前に戻ってきた。それから両腕を伸ばし、アイネを抱きしめた。
 突然でびっくりして、あらがうことも声を上げることもできなかった。ウィルラートの力は思いのほか強く、背中と腕を締めつけられて少し苦しかった。
「ウィルラートさま――痛い、です」
 やっとの思いでそれだけ言うと、ウィルラートの腕が少しゆるんだ。
 囲い込んだ姿勢のままで、ウィルラートがアイネの顔を覗き込むと、アイネはどきりとした。目の前にあるウィルラートの瞳が、泣き出しそうに見えたのである。
「……ごめん」
 ウィルラートは、今度はひかえめにアイネを抱き寄せ、もたれかかるように額をぶつけてきた。
 いったい、何が起こっているのだろう。どうしてウィルラートはこんなことをするのだろう。アイネにはまるでわからなかったが、不思議と気分は落ち着いていた。ウィルラートの髪を優しくなでて、こめかみにキスしてあげたい。そんなふうに思ってから、思ったことが恥ずかしくなって、体じゅうが熱くなった。
「どうなさったんですか、ウィルラートさま」
 ごまかすようにアイネは言った。髪をなでることはできなかったけれど、ウィルラートの背にそっと手をそえた。
「アイネ。――怒っていない?」
「え?」
「昨日、傷つけたみたいだったから」
 アイネは腕の中で身をよじり、間近でウィルラートの顔を見上げた。やはり泣きそうな目をしている。
「黙っていて本当に悪かったよ。――正直言って、どうやって切り出せばいいのかわからなかった。いろいろ考えているうちに、出発の日が近づいてきて――」
 寂しかったのは、アイネだけではなかったということだ。
 アイネは目をそらし、ウィルラートから少しだけ離れた。そして、息を整えると、思いきって顔を上げた。
 以前、ウィルラートを怒らせてしまい、けれどどうすればいいのかわからなかった時、アイネはとても悲しくて、心細くて、苦しかった。あの時と同じ思いをウィルラートにさせてしまったのだ。
「ごめんなさい、ウィルラートさま。わたし、怒っていません」
「本当に?」
「本当です。ただ、寂しかっただけなんです」
 言葉にしてしまうと、急に耐えきれないほどの寂しさが襲ってきた。
 本当に、もうすぐ旅立ってしまうのだ。一日に一度、こうして一緒に過ごす時間がなくなってしまう。永久ではないのはわかっていても、永久のように思えてたまらない。
 ウィルラートも同じように考えたのか、アイネを再び強く抱きしめた。
「寂しい?」
「はい。――ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「わたしのわがままだからです。ウィルラートさまは、お友達にお会いできるのですから、とても良いことのはずなのに」
 頭の上で、ウィルラートが笑う気配がした。
「そんなのはわがままのうちに入らない」
「そうなんでしょうか」
「出立をやめろって言うならともかくね。――いや、いっそのこと、そう言ってくれたって良かったのに」
「そんな」
 そんなことを言えるわけがない。ローアルドはウィルラートのいちばんの親友で、学校を卒業して以来の再会だというのに。
 実家とこの屋敷しか知らないアイネとは違い、ウィルラートはもっと広い世界を知っている。この国のあちこちにたくさんの友達がいる。その人たちとかかわることを止める権利なんて、アイネにあるはずがないのだ。
「いいよ、言っても。きみがそう言うなら、南部に行くのをやめたっていい」
「いいえ。ウィルラートさまは、ローアルドさまとお会いにならなければなりません」
 ウィルラートはまた笑い、体を離して、アイネの顔をまっすぐに見た。もう泣き出しそうな雰囲気はなく、いつもの明るい表情に戻っていた。
「座ろうか」
 ウィルラートはそう言って、奥の長椅子を示した。
 そういえば、この部屋の入ってすぐに抱き寄せられ、ずっとその場所に立ったままだった。お茶もいれずに、トレイごとほうっておいてある。
 アイネはウィルラートに手を引かれ、長椅子に向かった。いつものように並んで腰かける。お茶をいれようと手を伸ばすと、ウィルラートに横から抱き寄せられた。
「俺としては、もっとわがままになってくれても嬉しいんだけどな」
「……嬉しいんですか?」
「あまり無茶なことばかり言われても困るけど。俺にできることならどんどん言ってほしい。たとえば――」
 ウィルラートは少し考え、真顔になって言った。
「たとえば、何かほしいものはない?」
「ほしいもの、ですか?」
「土産に買ってくるよ。あっちにはめずらしいものがたくさんあるらしいし」
 前にも、同じことを聞いたような気がする。はじめて一緒に出かけ、街を歩いた時のことだ。けっきょく、お茶とお菓子をごちそうになっただけで、かたちに残るものは何も買わなかったが、ウィルラートはアイネに何か贈りたくて仕方がないらしい。
 アイネは首をかたむけて、考え込んでしまった。必要はないけれど手に入れたいということが、いまだによくわからないのだ。ほしいものがない、というわけではないと思うものの、それが何かと問われると答えられない。ましてや、訪れたことのない遠い土地にあるものなんて、アイネには思い浮かべることすらできない。
 けれども、何も言わなければ、ウィルラートはきっとがっかりする。
 ふと別のことを思い出し、アイネはウィルラートの顔を見た。
「あちらには、どのくらいいらっしゃるんですか?」
「特に決めていなかったけど、少なくとも三週間。長くて二ヶ月くらいかな」
 具体的な数字を聞いて、アイネは途方に暮れた。
 二ヶ月。短くても三週間。
 そんなにも長いあいだ、一日たりともウィルラートには会えないのだ。この部屋に来て、待ちかまえていたような笑顔に迎えられることも、こうして腕に包まれることもない。
 あの言葉をもらってから数ヶ月、毎日こうしてもらうことが当たり前になっていた。
「……手紙が、ほしいです」
 気がつくと、アイネは声を出していた。
 ウィルラートは小さく口を開き、アイネも自分で驚いていた。よく考えた上での答えではなかった。ただ、ウィルラートのいない二ヶ月を想像しているうちに、自然と言葉が出てきてしまったのだ。
「手紙。で、いいの?」
「はい――」
 アイネは答えかけて、口ごもった。よく考えてみたら、無理のあることを頼んでしまった。ウィルラートが旅先からアイネに手紙を送ることは、買ってきた土産を手渡すよりはるかに難しいのだ。伯爵家に届いた手紙はすべて、執事のもとへいったん集められ、それからそれぞれの宛先へ配られる。もちろん中身を見られることはないが、差出人の名前がなかったとしても、執事はウィルラートの筆跡くらい見分けてしまうだろう。
 それに、ウィルラートは手紙を書くのが得意ではない。
 何も考えずに、とんでもないわがままを言ってしまった。アイネは急いで取り消そうとしたが、その寸前にウィルラートに抱きしめられた。
「わかった。必ず書くよ」
「でも、ウィルラートさま――」
「書くと言ったら書く。きみに届ける方法は、出発までに何か考えるから」
 ウィルラートは困るどころか、嬉しそうだった。アイネの髪に触りながら、もう手紙に何を書くか、どうやってアイネに届けるか考えているようだった。アイネに何かしてやりたいと、本当にそのことで頭がいっぱいだったのだ。
 アイネはウィルラートの腕の中で目を閉じた。
 もうすぐ行ってしまう。永久にではないにしろ、しばらく会えない。
「ウィルラートさま」
「うん?」
「気をつけて行って、帰ってきてください」
 できるだけ早く、という言葉は抑えて、アイネはささやいた。
「わかった。できるだけ早く帰るよ」
 なぜかその言葉を補って、ウィルラートが答えた。
 あと数日で、ウィルラートはこの屋敷からいなくなる。恋人同士になってからはじめての、アイネとウィルラートの別れがやってくる。


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