秘密のお茶会 [ 4 ]
秘密のお茶会

4.秘密の花園
[ BACK / TOP / NEXT ]


「アイネ」
 名前を呼ばれて、アイネは屈み込んでいた場所に立ち上がった。手に付いた土をぱんぱんと払う。
 振り向くと、つばの広い帽子を被った初老の庭師が、一輪車を押して近付いてくるところだった。
「ご苦労さん、そのくらいでいいよ」
 一輪車の上には、根から抜いた雑草が山と積まれている。アイネはうなずくと、自分が抜いた草の山を持ち上げ、一輪車の上に載せた。
「せっかくの空き時間だっていうのに、手伝わせてすまなかったね」
「いいえ」
 アイネはにっこりした。
 玄関に飾る花をもらいに庭園に来てみたら、庭師頭である彼が一人で仕事をしていたのだ。二人の若い助手のうち、片方が休暇で里帰りをしている時に、もう片方が折り悪く木から落ちて足を折ってしまったそうだ。アイネは花を持って屋敷に引き返し、家政婦の許可を得て庭仕事を手伝うことにしたのだった。
 実は、こういうことは初めてではない。アイネはこの屋敷で働き始めたころから、不思議と庭に使いに出されることが多かったのだ。庭師たちと仲良くなったのも当然のなりゆきで、花の名前や手入れのしかたを教わったり、手が空いている時なら少し仕事を手伝ったりしていた。
「そら、今日のお礼だ」
 庭師は一輪車の端から、紐で束ねた小さな花を取り上げた。
「咲きたてだよ。女中部屋にでもお飾り」
 アイネは笑みを浮かべながら受け取った。
 白とピンクの花びらを並べた小さな花は、女中部屋の窓辺によく似合うだろう。
「ありがとう、ウィルさん」
 アイネが言うと、庭師頭はにこにこしてうなずいた。
 ウィル、というのが彼の本名だが、これはウィルラートの愛称と同じである。アイネはウィルラートを愛称では呼ばないので、特に気にしたことはない――意識せずにウィルの名前を呼べるが、年輩の女中たちはときどき話の種にしている。
 ウィル坊っちゃまというのがウィルラートで、ウィルじいやというのが庭師のウィル。それでからかわれたこともあると、ウィルラートは拗ねたように話していた。
「明日には、ティカルさんが戻ってくるんですよね?」
「そうだな。旦那さまたちもいない、お客さまもない時で良かったよ」
「……でも、ちょっともったいないですね」
 アイネは花束を手にして、庭に視線をめぐらせた。
 今がちょうど、一年でいちばん花の豊かな時季だ。さまざまな色の花が庭じゅうを彩り、やわらかな日ざしを受けて輝いている。花壇のまわりを歩いてみれば、気を失いそうに深い香りに包まれる。
「誰も見に来なくても、庭は庭さ。いつも、ちゃあんとここにある」
 庭師がゆっくりと言い、アイネはほほえんだ。ウィルの言うことはよくわからなかったが、アイネは彼のかすれがちの声や、まどろむような話しかたが好きなのだ。
「それに、まったく誰も来ないわけじゃない」
 ウィルが目をやった先を、アイネも追って見つめた。
 大きな木の枝に小鳥が一羽とまり、とんとんと端の方へ歩いていく。もう一羽が側に来て、枝を分けあいながら仲良さげにさえずっている。
 アイネがほほえんでウィルに目をもどすと、ウィルもほほえんだ。
「奥の庭は薔薇が見ごろになっているよ。まだ時間があるなら、少し歩いておいで」

 デュオニス伯爵邸の庭園はふたつある。屋敷に近いほうが広く、季節によってさまざまな花が咲き、小さな散歩道を歩きながら楽しめるつくりになっている。
 もうひとつ、ウィルが『奥の庭』と呼んでいるのは、手前の庭とは壁で仕切られている薔薇園である。何代か前の伯爵夫人がつくらせたというそこでは、薔薇だけがとくべつ手をかけて育てられ、伯爵家の自慢の場所となっている。
 アイネはウィルからもらった花を手に、奥の庭をゆっくりと歩いた。
 左手には淡いピンク、右手には薄紫の薔薇が茂り、ここだけが別の世界のようだった。点々と立つ小さな塔には、真紅と純白の薔薇が交互に咲き、童話の一場面を思い出させる。
 奥へと足を進めるほど、少しずつ香りが強くなっていく。
 アイネは、屋敷のほうを振り返った。庭仕事を手伝うために、今日の午後はほとんど空けてもらった。夕方になれば持ち場に戻らなければならないし、その前に、仲間たちに手伝うことがないか訊いてみようと思う。
 でも、まだ少しなら大丈夫だろう。
 アイネは再び向きなおり、歩き出した。
 薄紅の大輪の薔薇には、詩の一節からとった名前が付けられている。黄色い小さな薔薇には、地方の民話に出てくる妖精の名前。楚々とした白い薔薇には、百年前の王女の名前。
 ひとつひとつ唱えていくうちに、このあいだのことを思い出した。
 ふたりで立ち寄った花屋で。アイネが花の名前を教えてあげると、彼は困ったように笑っていた。
 こういうことは、きみのほうがずっと詳しいんだな、と。
 アイネは声をたてずにひとりで笑った。とても幸せだったので、花園の中で眠っているウィルラートを見つけた時も、驚かずにほほえんだだけだった。
 そうしてしばらく見つめたあと、だいぶ遅れてアイネは仰天した。
 どうして、ここにウィルラートが。
 考えてすぐに思い直した。ここは伯爵家の庭園なのだから、その子息がいたって何も不思議はない。
 ウィルラートは、庭園の中央にある大きな木にもたれて、静かに眠っていた。かたわらにはあまり厚くない本が一冊と、便せんが何枚かあった。どうやら、手紙を書きかけた途中で眠ってしまったらしい。
 和やかに吹いていた風が少し強くなり、ウィルラートの便せんが動いた。アイネは慌てて駆けより、手を伸ばす。飛びかけた便せんを押さえるとほぼ同時に、声が聞こえた。
「――アイネ?」
 アイネは手を下に置いたまま、隣を見上げた。ウィルラートが木にもたれたまま目を開き、こちらを見ていた。
「すみません、起こしてしまって……」
「どうしてここにいる?」
 ウィルラートはアイネに答えずに、アイネと同じ疑問を口にした。
「庭仕事を手伝っていたんです。人手が足りなくて大変そうだったので」
 言い終わってから、アイネは慌てて便せんから手を離した。アイネの手は先ほどの庭仕事で汚れている。土は乾いていたし、できるだけ払い落としたが、ウィルラートの物を汚してしまっては申し訳ない。
 ウィルラートは散らばっていた便せんをまとめ、本の上に重ねた。まだ眠気が残っているのか黒い目はぼんやりとしていたが、アイネの手元を見て急に険しくなった。
「その花は?」
「え? ――あ」
 アイネは手にしていた花束を見た。
「庭師のウィルさんにいただきました。お手伝いをしたお礼にって」
「……へえ、そう」
 ウィルラートの手が伸びてきて、アイネの手から花を取った。それを見つめながら尋ねる。
「こういうのは、よくもらうの?」
「あ――はい、仕事でよくお庭に来るので、みなさんとは仲良くしていただいてます」
「ウィルじいやだけじゃなくて、他の若い庭師とも?」
「は……い」
 アイネの声は小さくなった。ウィルラートがどこか不機嫌なようで、少し怖くなる。
「そうか。わかった」
 ウィルラートは急に話を切り上げ、アイネに花を返した。
 アイネはよくわからないまま、懸命に考えて話を変えた。
「ウィルラートさまも、よくここにいらっしゃるのですか?」
「よくではないよ。今日はたまたま――部屋で手紙を書いていたんだけど、なかなか進まないから、気晴らしに」
 ウィルラートはかたわらの便せんを見つめ、うんざりした顔になった。静かに机に向かったり、文章を書いたりするのが苦手なのだ。
 アイネはほほえんだ。
「お手紙って、旦那さまと、奥さまにですか」
「そう。たまには返事をよこせって。兄さんはこまめに書いているみたいだから、俺への風当たりはきつい」
 ウィルラートの兄であるイクセルは、室内で一人で過ごすのを好む、物静かな青年である。きっと文章の読み書きも得意なのだろう。対照的な兄弟なのだ。
「お手紙、書けそうですか?」
「ん……何を書いたらいいのかさっぱりわからない。いっしょに考えてくれないかな」
 アイネは小さく首を傾けた。家族の手紙に口を挟んでもいいのだろうか。アイデアを出すくらいならいいのかも知れないが、急に言われても思いつかない。伯爵夫妻はいったい、どんな話題に喜ぶのだろう。
 アイネはしばらく考え、口を開いた。
「奥さまと旦那さまは、ウィルラートさまがお元気にしていらっしゃるのを、お知りになりたいだけだと思います。だから、お手紙の内容はなんでもいいんだと思います」
「なんでもいい……」
 ウィルラートはあたりを見回したあと、アイネの目を見つめた。
「きみは、家族によく手紙を書くの?」
「はい。夜、時間がある時に書いています」
「たとえば何を書く?」
 アイネはふたたび考えた。
 そういえば、このところ家族への手紙を書いていなかった。時間があれば今夜にでも書いてみようと思う。アイネの家には小さな弟と妹がいて、実家のある田舎から出たことがないので、屋敷や街の様子を書いてやると喜ぶのだ。
 アイネは急に思いついて、首をまわした。薔薇園の中にゆっくりと視線をめぐらせる。
「今だったら、このお庭のことを書くと思います」
 アイネは言った。
「ここのこと?」
「弟や妹たちがいて……田舎の子どもなので、お屋敷のことをよく聞きたがるんです。どんなきれいなお部屋があるのかとか、どんなものを食べているのかとか」
「この庭のことも書いてあげるの?」
「こんど書いてみようと思います。どんなお花が咲いているのか、この薔薇園がどんなにきれいか」
「……俺も書いてみようかな」
 ウィルラートがつぶやいたので、アイネは笑顔になってうなずいた。
「はい。奥さまもここがお好きですから、お喜びになると思います」
「よく知っているな。きみは、母の身のまわりの世話はしていないのに」
「ウィルさんたちを手伝っていた時に、奥さまがここにいらっしゃることがあったんです。何度か、お声をかけていただきました」
「そうか」
 ウィルラートは笑った。
「きみが花の名前に詳しいのも、ここで教わったから?」
「はい。ウィルさんたちが、よく教えてくださるんです」
 答えてから、アイネはウィルラートの目を見て、またそらした。ほんのりと顔が熱くなる。
 ウィルラートも、この間のことを思い出してくれたのだ。
「この間は楽しかったよ。ありがとう」
 ウィルラートが言い、アイネは顔を上げた。顔がますます熱くなる。
「わたしこそ、ありがとうございました。とても楽しかったです」
 ふたりは目を合わせ、同時にほほえんだ。
 屋敷の中ではこういうやりとりはできない。ふたりが一緒に出かけたことは、もちろん秘密だからだ。
「楽しかった?」
「はい」
 はにかみながら笑うと、ウィルラートの手が近づいてきて、どきりとする。
 手はアイネの目の前を通り、耳の上の髪に触れた。と思うと、あっという間に離れていく。
「何かついてた」
 ウィルラートがかざして見せたのは、土で汚れた雑草の葉だった。
 きっと先ほど草むしりをした時だろう。そんなものを髪につけてウィルラートと話していたと気づき、アイネはうろたえた。花びらや枯れ葉ならまだしも、土つきの雑草なんてあんまりだ。
「す、すみません」
 アイネは草を受け取ろうと手を出したが、ウィルラートはそれを地面に落とした。そしてまた手を近づけてくる。
 わけがわからないまま、アイネはウィルラートに抱き寄せられていた。
「ウィ――ウィルラートさま」
 アイネはさらにうろたえた。屈み込んだまま上体だけ引かれたので、おかしな姿勢になっている。
「あの、服が汚れます」
「汚れてもいいよ」
「――人が来るかもしれません」
「今日はウィルじいやしかいないんだろう」
「そのウィルさんが来たら……」
「忙しいから来ないよ」
 訴えを端から退けられて、さらにもう一方の手にも押しつけられた。持っていた花がつぶれないよう、必死ですきまを探す。
「――また行きたい?」
 アイネは一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。この状況で、落ち着いたやりとりなんてできるわけがない。
「は、はい」
 やっとの思いで答えると、ウィルラートが笑う気配がした。少し腕がゆるんだかと思うと、より丁寧なかたちで抱きなおされる。
「また行こうか」
 アイネはうなずく。心臓がものすごい勢いで鳴っていて、きちんと声を出せる自信がない。
 ウィルラートもそれきり、何も言わなかった。
 少しずつ心臓が静かになり、アイネは思い切って目を閉じた。
 遠くから、小鳥のうたが聞こえてくる。羽ばたきの音、葉がそよぐ音、風が木の幹を撫でる音。薔薇と、草と土と、ウィルラートの服の上質な生地の香り。
 目を閉じていても、ここは花園だった。
 アイネはそのまま仰向かされ、唇に何かが触れるのを感じた。


 ふたりは並んで薔薇園を出た。もうひとつの庭を歩いてから、屋敷の前までいっしょに行くことにした。
 大きな木の側を通りかかった時、庭師のウィルが枝の剪定をしているのに気がついた。ウィルもふたりの姿に気づき、梯子の上で軽く帽子を上げた。
「ウィル坊っちゃま。手紙は書けましたかな」
 アイネはぎょっとして二人を見比べた。ウィルは、ウィルラートが薔薇園にいることを知っていたのか。
「何を書くのかは決まった。これから部屋で書くよ」
「そうですか。薔薇はしばらく続きますから、またおいでになってください」
「そうするよ」
 ウィルラートは答えたあと、アイネを見てにこりと笑った。
「アイネも、また手伝ってくれると助かるよ」
「はい。また、来ます」
 アイネは笑い、ウィルラートを見てまた笑った。
 庭師のウィルは帽子を直しながら、ふたりをほほえんで見下ろしていた。
「――ばれないようにやってくださいよ、坊っちゃま」
 アイネは、ウィルラートがうろたえるところを初めて見た。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.