秘密のお茶会 [ 3 ]
秘密のお茶会

3.欲しいものの名前
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 大きな音とともに体が前後に揺さぶられて、アイネは短く悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
 声に顔を上げると、向かいにいるウィルラートが席を立ちかけて、アイネに手を差しのべている。
「だ、大丈夫……です」
 アイネはうつむいたまま小さく答えた。鳴り続ける胸を押さえて、席に座り直す。
 ふたりは今、列車の個室の中に向かいあって座っている。アイネが進行方向の席で、ウィルラートがその向かいである。列車に乗った時、先に個室に入ったウィルラートが当然のようにそちらに座り、アイネに前向きの席を譲ってくれた。アイネは慌てて辞退しようとしたが、ウィルラートは許してくれなかった。
 ここは屋敷の外で、ふたりは主人でも使用人でもないのだから、と。
「疲れない? アイネ」
 ウィルラートが何気なく尋ね、アイネは顔を上げる。
 列車は停まっていた駅を後にして、再び走り始めている。
「大丈夫です。――ウィルラートさまは」
「俺も平気だよ。さっきリークスを過ぎたから、あと半分だね」
「そ、そう――ですか」
 アイネは答え、視線をさまよわせる。
 ウィルラートの後ろの背もたれ、窓枠、床板。けれど狭い個室なので、視界のどこかにウィルラートが入ってしまい、落ち着かない。
 ふたりでどこかへ行こう、とウィルラートが提案してきたのは、一月以上前のことだった。アイネは舞い上がりそうになりながらうなずいたものの、なかなか実現には至らなかった。アイネの休みはおよそ十日に一度しかなく、その日に限ってウィルラートに予定が入ったりして、今日まで延びてしまったのだ。
 行き先は屋敷の最寄り駅から十駅ほどの小都市に決まった。アイネにとって初めての列車の旅である。休暇に実家に帰る時はいつも、乗合馬車を乗り継いで行く。ウィルラートはアイネがいつかそう話したことを覚えていて、列車で行こうと言い出してくれたのだ。
「おとなしいね、アイネ。緊張する?」
 アイネは顔を上げた。ウィルラートと視線がぶつかり、慌てて下にずらす。
 ウィルラートの肩、喉元、胸、膝の上。
「……はい」
 素直に答えると、ウィルラートが吹き出した。
「俺も緊張してるよ」
 アイネは思わず、ウィルラートの顔を見た。再び目が合って、ウィルラートはにっこり微笑む。
 アイネはぎこちなく笑い返しながら、ウィルラートの目を黙って見つめた。
 ウィルラートが緊張しているなんて、そんなことがあるのだろうか。

 列車を降りると、洪水のような人の流れにあっという間に包まれた。左から右へ、次々と押し寄せていく人々に、アイネはどうしていいかわからなくなる。
「アイネ、手を」
 ウィルラートがアイネの左手をつかみ、自分の腕にからませた。
「つかまって、俺に付いてきて」
「は……はい」
 アイネがうなずくと、ウィルラートは前を向いて歩き出した。腕にかけた手が離れないようにしながら、懸命に後をついていく。人いきれのせいだろうか、体中が熱い。
 駅舎から出ると人の群れは四方に散らばり、ようやく息をつく余裕ができた。
 ウィルラートが立ち止まったので、アイネもそれにならう。
「大丈夫?」
「は、はい」
「さっそくこのあたりを歩こうか? それとも、少しどこかで休む?」
「わたしは、平気です。ウィルラートさまは?」
「俺もいいよ。じゃあ、行こうか」
 アイネがうなずくのを待って、ウィルラートが歩き出す。
 二、三歩すすんでから、アイネは気が付いた。自分の手がウィルラートの腕にかけられたままであることに。
 アイネはひどくうろたえたが、ウィルラートは気付かないのか、気にしないのか、構わずに歩いていく。勝手にふりほどくわけにはいかないし、かといって、わざわざ断ってから放すのはもっとおかしい。アイネは迷ったが、そのまま前を見て歩き続けた。
 少し余裕が出てきたので、まわりを見回す。すると、自分たちと同じような男女の姿が、何組も目に入った。腕を組み、肩を並べて、言葉を交わしては微笑みながら歩く恋人たち。
 アイネはこっそりと、ウィルラートの横顔を見上げた。
 今日は主人でも、使用人でもない。
 自分とウィルラートも他人の目には、あの恋人たちのように映っているのだろうか。

「アイネ、何か欲しいものはない?」
 ウィルラートが突然たずね、アイネはすぐに顔を上げた。
 さっきから、何度もこれを繰り返してきた。ウィルラートが話しかけ、アイネは顔を上げてそれに応える。話題は他愛もないこと――別の季節にここに来れば祭りで賑わっているとか、あと三駅も行けばいい公園があるとかだったが、アイネはいつになく緊張した。気の利いた受け答えどころか、何を言ったのかどうかも覚えていない。
 体は緊張して冷たくなっているのに、ウィルラートの腕に触れた左手だけが、別の生き物のように熱を帯びている。
「欲しいもの、ですか?」
「うん」
「ええと……特に、ないです」
 必要なものは給金の中でまかなえているし、余ったお金はそのまま実家へ送っている。なくても困らないけれど、あれば嬉しいもの、というものは、アイネにはよくわからない。
「ないの? 花とか、菓子とか」
「……えっと」
「本とか、ハンカチとか、髪飾りとか。この街には、女の子に人気の店がたくさんあるよ」
 アイネは返事が思いつかず、困り果ててしまった。
 ウィルラートの考えていることはわかっている。アイネに何かを買ってくれる。というよりも、買いたがっているのだ。
 けれど急に言われても、アイネは欲しいものがひとつも浮かんでこない。浮かんだとしても、それをウィルラートにねだっていいのかわからない。
「本当に、ないの?」
 繰り返し聞くウィルラートの目を見て、アイネは戸惑った。明らかに彼はがっかりしている。
 どうしよう。何か、あまり高くないものを選んで、買ってもらうべきなのか。どんなものでもアイネが欲しいと言えば、ウィルラートは喜ぶだろう。喜んで買ってくれるだろう。けれど――
「じゃあ、思いついたら教えて?」
 アイネの迷いを断ち切るように、ウィルラートが言った。残念そうな表情は消え、いつものように明るく微笑んでいる。
「はい」
 アイネはつられて笑った。ウィルラートが笑ってくれたことで、緊張がほぐれてほっとする。

 いっしょに路地を歩いて、何軒かの店に入った。
 いい香りのただよう菓子屋の店先で、焼きたてのクッキーを味見させてもらった。
 花屋でアイネはひとつひとつを指さして、ウィルラートに名前を教えてあげた。ウィルラートは貴族のわりに、こういうことには詳しくないらしい。
 本屋では、ウィルラートがアイネに教えてくれた。王都で流行っている作家の名前や、アイネにも読める簡単な言葉の詩集。それから少し厚い本を指さして、兄のイクセルはこういうのを好んで読んでいるけれど、自分にはさっぱり良さがわからない、一度借りてみたものの開いて一分で投げ出してしまった、と語った。アイネは、肩を揺らして笑った。
「欲しいものは見つかった?」
 歩いていく途中で、ウィルラートが再び訊いた。
 先ほどよりもひかえめな、余裕のある訊きかただったので、アイネは戸惑うことはなかった。けれどもやはり、答えが見つからない。
「ないの?」
「――はい。ごめんなさい」
「謝ることはないけど……どの店でも、嬉しそうに見ていたのに」
 それは本当だった。街に来たのが初めてのアイネにとっては、見るものすべてが魅力的だった。高価なものや美しいものなら屋敷でも目にしていたけれど、まだ持ち主の決まっていない、真新しい品物たちは、どれも生き生きと輝いて見えた。
「気に入らなかったわけじゃないんです。どのお店も、本当に素敵でした。ただ……欲しいかどうかというと、わからないんです」
「どうして? 気に入ったのなら、欲しくならないの?」
「ええと……素敵なものを見て、いいなと思うことと、それを欲しいと思うことは、別なんです。いいものは、お店に並んでいるだけで本当に素敵で、わたしが手に取らなくてもいいと思うんです。眺めているだけで、幸せな気持ちになれるから」
 たどたどしく語りながら、アイネはこの感覚が、何かに似ていると思った。
 見ているだけで幸せになれるもの。手に入らなくても、そこにあるだけで輝いているもの。
 ほんの少し前まで、ウィルラートがアイネにとってそうだった。
 遠くから思っているだけで良かったのに、ある日とつぜん、ウィルラートはアイネの側に来た。今、アイネの手を取って隣を歩いているこの人は、本来なら手を伸ばしても届かない、ずっと遠くにいるべき人。
 少し、怖くなった。
 わたしは、眺めるだけにしておくべきだったものを、手に取ってしまったのだろうか?
「わからないな。幸せな気持ちになれるんだったら、手元に置いていつも見ていればいいのに」
 ウィルラートがあっけらかんと言い、アイネは小さく笑った。
「手元に置きたくなったら、ちゃんと言います。今は、いいんです」
「そうしてくれ。――まあ、無理に買うこともないし」
 自分に言い聞かせるように、ウィルラートは言った。やはり少しがっかりしている。
「……ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいんだ」
 ウィルラートは慌てたように付け加えた。少し目線が揺らいでいたが、すぐにアイネを見つめてにっこり笑った。
「喉が乾いたな。どこかでお茶でも飲もうか」
 アイネはほっとして、答えるかわりに笑い返した。

 小さな店内には、濃い紅茶の香りが立ちこめていた。
 窓際の席に着き、ウィルラートがメニューを開く。
「紅茶でいいかな。それと、何かお菓子と」
「お茶だけでいいです」
「せっかくだから食べていこう。ご馳走するから」
「そんな。いけません」
 アイネは慌てて手を振った。
 列車の切符もウィルラートが買ってくれたのだ。買い方がわからないのでウィルラートに任せていただけで、後から自分のぶんは払うつもりだったのに、ウィルラートは頑として受け取ってくれなかった。これ以上、甘えるわけにはいかない。
「お嬢さん、恋人がご馳走するって言ってくれた時はね、素直に甘えればいいんですよ」
 店員の女性が笑いながら口を挟み、水の入ったグラスをテーブルに置いた。
「なんにします? うちはスコーンが自慢だけど、クランベリーのタルトも女の子には人気ですよ」
「じゃあ、それで」
「ウィルラートさま――」
「いいから」
 店員が軽い足取りでテーブルから離れていく。
 アイネは頭の中で、彼女の言葉を繰り返した。恋人がご馳走すると言ってくれた時は、素直に甘えればいい――恋人が言ってくれた時は――恋人?
「どうしたの? アイネ」
 ウィルラートの声で我に返った。自分でも気付かないうちに、去っていく店員のほうを見つめていたらしい。
「クランベリーのタルトじゃないほうが良かった?」
「そ、そうじゃありません。さっきの人が……」
「ん?」
「恋人――って……」
 アイネは自分が口にした言葉に気付き、慌てて口ごもった。体中の熱が顔に集まってくる。
 ウィルラートはそのアイネを覗き込み、面白そうに口を開いた。
「何? おかしい?」
「……いいえ。ただ」
「ただ?」
「……そう、見えたんだなあって」
「……恋人に?」
 アイネは顔を上げた。すぐウィルラートと目が合って赤くなるが、目をそらさずに黙ってうなずいた。
 少しの間の後、ウィルラートが小さく吹き出した。
「ウィ、ウィルラートさま?」
「――いや、ごめん。きみが、あんまり可愛いから」
 アイネは呆気にとられて沈黙した後、また顔を真っ赤にした。ウィルラートは片手で顔を覆って笑い続けている。
「見えたんだなあって……決まってるじゃないか。恋人じゃなきゃ、何に見えるっていうの?」
「で、でも――」
 確かに、腕を組んで街を歩き、笑いながら話し、一緒にお茶を囲んでいれば、恋人だと思われても不思議はない。ここは屋敷の外で、ふたりを知る人は誰もいないのだから。
 けれどアイネはいつまで経っても、自分がウィルラートの恋人だと実感できないのだ。
 こうして気安く街を歩いてみても、ウィルラートには一目で育ちの良さをうかがわせる、独特の雰囲気があった。よく伸びた背筋、仕立てのいいコート、洗練された、けれど気負いのない歩きかた。――それに比べて、自分はどうだろう。
 アイネ自身でさえ信じられない時があるのに、ましてや、人にそう思われるなんて。それとも他人の目には、あんがい恋人らしく映っているのだろうか。
 アイネが口ごもり、ウィルラートが笑い続けているうちに、お茶とお菓子が運ばれてきた。きれいな赤い色のタルトを前に、ウィルラートがやっと笑いを止める。
「お菓子をどうぞ、俺の恋人」
 芝居がかった声に、アイネの顔はまた熱くなった。
 ウィルラートはそんなアイネを見つめて、飽きもせずに再び笑い出していた。


 夕陽が西の果てに沈むと、街は一気に薄闇の中に包まれる。空の変化とともに、街路が、建物が、人の顔が少しずつ色を変えていくのを、アイネはウィルラートの隣で眺めていた。
 駅に向かう道も、もうあとわずかだ。
「切符を買ってくる」
 駅舎の前で立ち止まり、ウィルラートがささやいた。
「わたしが」
「いいから。アイネはここで待っていて」
 アイネは戸惑いつつも、離れていくウィルラートの背を見送った。
 いいのだろうか。お茶とお菓子をご馳走になった上、行き帰りの切符も買ってもらってしまった。何かお礼をしなければいけないと思う。けれどそんなことを言い出したら、ウィルラートはかえって傷つく気がする。
 わからなかった。ウィルラートがくれるいろんなもの、形のあるもの、ないもの、お金のかかるもの、かからないもの、それらのどこまでを受け取ればいいのか。
 恋人なら甘えてもいい、というのは、どういうことなんだろう。街で何度もすれ違った、同じように恋人を持つ娘たちは、どうやってそういうことを学ぶのだろう。
 途方に暮れているうちに、ウィルラートが戻ってきた。
「お待たせ。行こうか」
 アイネはうなずき、再びウィルラートと並んで歩き始めた。
 ホームにふたりで立ち、電車を待った。少しずつ人が増え始め、身動きが取りづらくなっていく。ウィルラートがさりげなく腕を動かし、人ごみからアイネを守ってくれた。
「けっきょく、きみに何も贈れなかったな」
 突然ささやかれた言葉に、アイネはすぐ答えることができなかった。肩や腕や背中に触れるウィルラートの手が気になって、声をかけられた拍子に我に返ったのだ。
 アイネは顔を上げ、慌てて首を振った。
「お茶をご馳走になりました。それに、切符も」
「いや、そういうものは――後に残らないから」
 アイネは小首を傾げた。
「後に残るもののほうが、いいんですか?」
「だって、うちに帰ってからも、きみに」
 ウィルラートが言葉を切り、珍しく口ごもった。アイネのほうを見ようとせず、前を向いたまま続ける。
「――持っていてほしかったから」
 アイネは何度かまばたきして、ウィルラートの横顔を見つめた。
 欲しいものはないかと何度も訊いてきて、アイネがないと答えると顔を曇らせて――あれは、こういうことだったのだろうか。
 ふたりが今日いっしょにいることは誰も知らない。屋敷に戻ったら、主人の子息と使用人に戻ってしまう。今日という一日のことは、どこにも残らない。
 だからウィルラートは、アイネに何か贈りたがったのか。
 アイネは唇を開き、何か言葉を紡ごうとした。けれども声が出る前に、列車の音がふたりの間に割り込んできた。周りにいた群衆がいっせいに前へ進んでいく。
「行こうか」
 列車が完全に停まったのを見て、ウィルラートは言った。扉が開き、人々がそこへ吸い込まれていく。ウィルラートもそれに続こうとした。
 アイネは手を伸ばし、ウィルラートの腕をつかんだ。
 ウィルラートが驚いて振り返る。アイネは一歩も動かずにウィルラートを見つめる。おびただしい数の乗客は、あっという間に列車の中へと消えていく。
「どうしたの?」
 ウィルラートが当然きいたが、アイネは答えられなかった。どうしてこんなことができるのか、自分でもわからなかった。
 この列車に乗れば、今日という日は終わってしまう。後には何も残らない。アイネは今日のことを忘れないし、ウィルラートも覚えていてくれると思うけれど――。
「か――」
 アイネは再び唇を開き、それを口に出した。
「帰りたく、ないです」
 言った瞬間に顔が熱くなり、ウィルラートから目をそらす。手は、ウィルラートの腕をつかんだままだった。
 ウィルラートは、すぐには応えてくれなかった。沈黙が彼にしては長いので、アイネは不安になる。思いきって甘えてみたつもりだったけれど、やはり図々しかったのだろうか。こんな間ぎわになって駄々をこねるなんて、わがままな女だと思われたのだろうか。
「あの、やっぱり」
 取り消そうと口を開いた次の瞬間、アイネは小さく叫んだ。ウィルラートが空いているほうの腕を、アイネの肩に回したからだ。
 抱き寄せられたのは一瞬で、すぐにアイネは解放された。けれど今度はウィルラートの手が伸びてきて、離してしまったアイネの手を握る。そのまま手をつなぎ、列車を背にして歩き始めた。
「あ、あの」
 アイネがやっと声を上げると、ウィルラートは振り返った。
「次の便にしよう」
 にっこり笑って立ち止まり、列車のほうに向き直る。アイネもその隣に並んで、ウィルラートと同じほうを見た。手はつながれたままだった。
 ホームにはほとんど人は残っていない。汽笛が鳴り、列車がゆっくりと進み始める。
 アイネはウィルラートとふたり並んで、その光景を見つめていた。つないだ手からあたたかさが伝わってくる。自分の手ではない別の手が、アイネをゆっくりとあたためていく。
 わたしたちは、恋人同士だ。
 アイネは今日初めて、そう思った。


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