秘密のお茶会 [ 2 ]
秘密のお茶会

2.お茶の時間
[ BACK / TOP / NEXT ]


 毎日の午後、伯爵家の二人の子息にお茶を運ぶのが、アイネの仕事になっている。
 まずイクセルの部屋へ行き、お茶をいれる。穏やかな声で礼を言われる。
 次に、ウィルラートの部屋へ行く。ここまでは良かった。
「あの……ウィルラートさま」
「何?」
「お茶が、いれられません」
「いいよ。いれなくて」
「で……でも」
 テーブルに置いたままの茶器を、ちらりと見る。厨房で茶葉とお茶をポットに入れてもらい、ここに来るまでそのままである。このままでは蒸らしすぎて渋くなってしまう。
 無理にそちらへ行こうとすると、ウィルラートの腕がいっそう強く締めつけた。
 アイネは今、長椅子のウィルラートの隣に座らされ、両腕で縛られているところである。
「あの……ウィルラートさま」
「何?」
「わ、わたし、そろそろ行かないと」
 勇気を出して言ってみると、ウィルラートの腕が少しゆるんだ。ほっとしたのも束の間で、今度は唐突に顔を覗き込まれた。睫毛の一本一本を数えられそうな距離に、ウィルラートの黒い瞳がある。アイネは思わず顔を背けた。
「アイネ」
 すかさずウィルラートが呼び止める。
「こっち向いて」
「……」
 反対側を向いたまま押し黙った。顔も、体も、すでに湯に入ったように熱くなっている。
 さらに頬に手をかけられて、心臓が止まるかと思った。
「向いて」
「……だめです」
 ウィルラートが、何をしようとしているのかはわかっている。この部屋に入って椅子に座らされてから、ずっとそんな気配はしていた。
 だからアイネは、落ち着かなくて仕方がないのだ。
 嫌ではない。けれど、振り返る勇気がない。まだ心の準備ができていない。もう少し待ってほしい。――でも、そんなことは言えなかった。
「アイネ」
「……だめ、です」
「向かないと、行かせてやらないよ」
「えっ……」
 そんな、と思った瞬間に振り向いてしまい、ウィルラートと目が合った。たっぷり三秒間は見つめ合った後――ウィルラートが、いきなり吹き出した。
「ウィ、ウィルラートさま……」
 背もたれに倒れこんで笑い続けるウィルラートを見下ろし、アイネは絶句する。何か、笑われるようなおかしなことをしたのだろうか。
「きみは本当に可愛いな」
 そんな言葉を聞かされて、ますますわからなくなった。
 ただ体の熱が一気に上がるのを感じ、慌てて立ち上がる。
「わたし――本当に行かないと」
 ウィルラートの笑いがやんだ。引き止められるのかと思ったが、ウィルラートは笑顔のまま身を起こしただけだった。
 アイネはほっとして――少しだけがっかりもして――頭を下げて、踵を返そうとする。
 ほとんど真後ろを向いたその時、片手をつかまれた。そのまま手を引かれ、振り向かされると同時に、指に何かが触れる。
 何が起こったのかわからないまま、手は解放された。けれども、アイネは動くことができない。
 立ち尽くすアイネを見上げて、ウィルラートは笑みを浮かべた。
「また明日」

 熱に浮かされたまま厨房にもどると、女中たちが五、六人でテーブルを囲んでいた。
「アイネ、おかえり」
「ちょうどお茶が入ったところよ。あんたも飲む?」
 アイネはなんとかうなずき、持ち帰ってきたトレイを定位置にもどした。
 仕事が一段落した厨房には、温かい紅茶と焼き菓子の香りが漂っている。
「やっぱりローリャもそう思う?」
 女中の一人が、別の女中に詰め寄った。
「タミアも? そうよね、絶対みんな気付いてると思ったもの!」
「なあに、何の話?」
 ティーポットを持ってきたイルダが、再び席に着きながら二人に聞いた。アイネはイルダが置いてくれたお茶を取り、口元に運ぶ。
「ウィルラートさまが、最近すごくご機嫌なの!」
 アイネはあやうく、飲みかけたお茶にむせそうになった。
「今朝わたしがシーツを運んでたら、『大変だね』って声をかけてきて、代わりに運んでくれたのよ。三階からランドリーまで、ずっとよ!?」
「わたしなんて昼前のお茶を持っていったら、『後で食べて』ってケーキを一切れいただいちゃったわ」
「なんだか、お勉強も熱心にしていらっしゃるし」
「いつもは面倒くさがるお手紙も、すぐ開けてお返事を書いているみたいよ」
「一体どうしちゃったのかしらね」
「ついこの間は、なんだか落ち込んでたのに」
「ウィル坊ちゃま、わかりやすいからね……」
 口々に言い立てる仲間を前に、アイネは逃げ出したくなった。
 やっとウィルラートから逃げてきたというのに、ここでもその名前を聞くことになるとは。
「ねえアイネ、さっきはどうだった? ウィルラートさま、やっぱり機嫌が良かった?」
 ローリャが聞き、全員の目がアイネを見つめる。
「えっ……と」
  アイネはお茶を置いてうつむいた。先ほどのウィルラートのことを思い出してみる。
 機嫌は、良かった。
 ものすごく良かった。
「……うん」
 かぼそい声で答えながら、アイネは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
 幸い、女中仲間は話に夢中で、アイネの変化には気付いていない。
「やっぱり、そうよね。……何かあったのかしら」
「最近、ウィルラートさまに来客って特にないわよね」
「手紙でいい知らせが来たとか」
「いい知らせって?」
「さあ――」
 アイネはますますうつむき、膝の上で汗ばむ手を握った。
 自由時間もほとんどなく、休日もめったにもらえない女中たちにとって、主人一家の噂ばなしは貴重な楽しみの一つである。ウィルラートは女中たちに人気があるから、こういった場で話題にのぼることは珍しくない。アイネだってこれまでは、心ときめかせて会話に加わっていた。
 それが今は、どうしてこう居心地が悪いのだろう。
 恥ずかしくて、いたたまれない。けれどウィルラートの名前を耳にするたび、くすぐったいような不思議な気持ちに包まれる。
 わたしの、恋人の名前。
「理由なら知ってるわよ」
 イルダが突然口をはさみ、いっせいに視線を集めた。
「知ってたの!? イルダ!」
「それなら早く言ってよ! 何なの?」
「南部にいるウィルラートさまの親友が、病気で寝込んでいたんですって。このまえ不機嫌だったのは、その方のことを心配していたからよ」
「じゃあ、機嫌が良くなったのは……」
「そう。回復して、手紙が届いたのよ。今度お互いの家を訪問する約束をしたそうよ」
「イルダ、どうして知っているの?」
「ウィルラートさまに聞いたの。あんまり様子がおかしかったから」
 女中たちは色めきたった。しかし次のイルダの言葉が、さらにどよめきを引き起こした。
「あたしじゃなくて、アイネがだけどね」
 皆の視線がイルダからアイネに移る。
 急に水を向けられて、アイネはおろおろと目を動かした。
 確かに、今の話はウィルラートから聞いた。ただし、ウィルラートが不機嫌になる前――アイネに告白する前――のことだったが。
「ね、アイネ」
 イルダがまっすぐにアイネを見つめる。
 アイネはその意図を読み取って、ようやく落ち着いた。
「うん」
「なんだ、そういうことだったの」
「別に秘密でもなかったのね。あたしも聞いてみれば良かった」
 女中たちは口々に言い、すぐ次の話題に移ってゆく。
 皆の視線がアイネから離れる中、イルダだけがまだアイネを見ている。アイネは他に気付かれないよう、小さくうなずいた。後できちんと礼を言わなければ。

 束の間の休息が終わり、アイネは自分から申し出て洗いものをした。
 仲間たちと使った茶器は、どこででも手に入る安価なものだ。令息たちに出すものとは全く違う。扱うぶんにはこちらのほうがはるかに気が楽だ。
 アイネはふと手を止めた。ウィルラートは、もうお茶を飲み終わっただろうか。
 女中たちの仕事は細かいところまで分担されている。アイネが持っていった茶器を下げるのは、別の仲間の仕事だった。
 以前はそのことが残念だった。今も確かに残念だけれど、どこか安心もしている。
 ここのところ、ウィルラートの部屋に行くのが気詰まりなのだ。嫌なわけではない。以前と同じくらい嬉しい。
 ただ、心臓が持たないのだ。お茶を持っていくたびに長椅子に座らされて、両腕に囲まれて、そして――。
 アイネは慌てて首を振った。体がものすごく熱い。誰も見ていないけれど、穴があったら入りたい気分だ。
 思い出してしまったせいで、また胸が鳴り出している。
 以前はこんなことはなかった。ウィルラートとは他愛のない話をして、たくさん笑いかけてもらって、アイネも笑い返して、別れてからも一人で幸せな余韻にひたる。それだけだった。それだけで、充分すぎるくらい楽しかった。
 もし、恋人になれたら。そんな空想をしたことはあったけれど。
 知らなかった。恋人というものは、一緒にいて笑っていればいいわけではないのだ。想いが通じてからのほうが、通じる前より落ち着かないものなのだ。
 手にした茶器のことを思い出して、アイネは慌てて洗いものを再開した。急がなければこの後の仕事が遅れてしまう。今日も一日の予定どおりに、割りふられた仕事をこなさなければならない。
 ……割りふられた仕事。
 今日の夜までと、明日の午前の仕事を終えたら、また午後のお茶の時間が来る。
 待ち遠しいような、来てほしくないような、よくわからない気分だ。


「アイネ。手が空いているかね?」
 夕方になって、掃除道具を片づけていたアイネは、廊下で執事に呼び止められた。階段の掃除が思ったより早く終わったので、女中頭に指示を仰ごうと思っていたところだ。
「はい。大丈夫です」
「では、これをウィルラートさまに」
 執事はそう言って、封書を載せたトレイを差し出した。
「先ほど速達で届いたものだ。夕食前にお出かけになるから、その前に――アイネ?」
 封書に目を落としたまま、ぼんやりしていたらしい。アイネは我に返って、慌てて答えた。
「申し訳ありません。すぐお持ちします」
「頼んだぞ」
 執事は念を押すと、背を向けて離れていった。
 残されたアイネは、トレイを持って途方に暮れた。
 ――あと一晩と半日あると思っていたのに。

 両手でトレイを持って、アイネはウィルラートの部屋の前に来た。見慣れた扉を見てしばらく立ち尽くす。
 お茶と違い、手紙は渡したら終わりだから、すぐに立ち去ればいい。ウィルラートは出かける予定だと言っていたし、長話をする必要はないはずだ。手紙も読まなければならないだろうし、アイネにも次の仕事があるわけだし。
 もし座っていくように言われても、はっきり断ろう。
 アイネは小さく息を吸うと、扉をノックした。
 数秒待っても、返事は聞こえてこない。席を外しているのだろうか。
 アイネは肩を落とし、そんな自分にぎょっとした。あんなに緊張していたのに、ウィルラートがいないと知ったとたん、がっかりしてしまうなんて。
 こういった場合、使用人は許可なく部屋に入り、用を済ませることを許されている。それが仕事なのだから当然だ。お互いを尊重し合う家族とは違い、自分たちはあくまで裏方なのだから。
 つまり、このまま部屋に入り、封書を置いてくるだけでいいのだ。気が抜けてしまったアイネは、どこか投げやりに扉を開けた。
 次の瞬間、思ってもみなかったものが目に入った。
 ウィルラートが、いたのだ。書きもの机に向かい、重ねた腕の上に突っ伏した形で。
 アイネは足音をたてないようにそっとしのび寄り、横からウィルラートの顔を覗き込んだ。
 勉強をしている間に眠ってしまったらしい。机の上には本やノートが広げてある。腕に顔をうずめているので寝顔は見えないけれど、ゆっくりと上下する肩や背中から、彼が起きていないとわかる。
 出かける時間まではまだ間があるから、起こさなくてもいいのだろうけど……。
 アイネは首の角度を変え、改めてウィルラートを見つめた。
 さらさらの黒い髪。こうして後ろから見てみると、肩も背中もずいぶんと広い。アイネなどすっかり包まれてしまうはずだ。まだ十代とはいえ、ウィルラートは男の人なのだ。そう考えると同時に、自分の考えに赤くなる。
 ともあれ、これで引き止められる心配はなくなったのだ。机の上に封書を置き、離れようとする――が、なぜか立ち去れなくて、そのままウィルラートを見下ろしていた。
 眠っている間にアイネが来たと知ったら、ウィルラートは後でどう思うだろう。残念がってくれるだろうか。ウィルラートは知らないままだろうから、考えても仕方のないことだけれど。
 アイネはトレイを胸に抱えたまま、ウィルラートの隣に屈み込んだ。顔の位置がちょうど、ウィルラートの頭の真横に来る。
 耳に顔を近づけて、くちびるだけを動かして、いつもは言えない言葉を紡ぐ。
 本当は、ウィルラートが起きている時に言いたい言葉。でも、今は、これで自分を許してあげよう。
 もう少し月日が経てば、ウィルラートの顔を見て言えるようになれるだろうか。彼がくれるさまざまなものに、応えられるようになれるだろうか。
 ふと、ウィルラートの手が目にとまった。頭の下になった腕から伸びて、机の上に投げ出されている。それからアイネは、自分の手に目を移す。昼間ここで会った時、ウィルラートが最後にしてくれたことを思い出す。
 アイネは彼の手に顔を近づけ、指にそっと口づけをした。
『また明日』
 やはり声を出さずにささやきかける。
 明日のお茶の時間が、待ち遠しい。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.