秘密のお茶会
1.はじまりの言葉
伯爵家の女中アイネ・ハーヴィンは、その日も二人分のお茶を準備して、二階にある若君たちの部屋に運んでいた。
デュオニス伯爵には二人の息子がいる。長男イクセルはいずれ爵位を継ぐ嫡男で、伯爵夫妻が王都にいる今は屋敷の主でもある。物静かで学問を好み、屋敷の中に引きこもっていることが多い青年だ。
次男ウィルラートは兄とは対照的で、明るく活発な性格だと評判だった。跡継ぎではない気楽さからか奔放すぎるところもあるが、そこにいるだけで周りが明るくなるような人柄で、屋敷の使用人からも好かれている。
アイネはまずイクセルの部屋に行き、いつものように午後のお茶をいれた。イクセルはいつもの穏やかな表情で礼を言ってくれた。
次にアイネは、同じ階にあるウィルラートの部屋に向かった。
扉を叩く前に、一瞬だけ手を止める。大きく息を吸って吐いてから、アイネは扉をノックした。「どうぞ」という声に導かれて中に入る。
「失礼いたします」
頭を下げてまた戻すと、ウィルラートの姿が目に飛び込んできた。
大きな背もたれの椅子に腰かけ、肘置きに頬杖をついてこちらを見ている。手元にも、傍らのテーブルにも何も置かれていない。特に何をしているふうでもなく、まるで待ち構えていたような様子に戸惑いながら、アイネは仕事を思い出した。
「お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
頬杖をついたまま、表情も変えずにウィルラートは言った。明るい彼にしては珍しく、にこりとも笑わなければ、それ以上声もかけてこない。ただまっすぐに向けられる視線だけを意識しながら、アイネはお茶をいれ始めた。
落ち着いて。いつも通りに。
手を動かしながら、アイネは自分に言い聞かせる。
カップをソーサーに置く時に、少し音を立ててしまった。けれど、それ以外はうまくいったと思う。
「ありがとう」
テーブルにお茶を置くと、ウィルラートが再び礼を言った。アイネは一礼した後、少しだけ戸惑う。このまま退室していいのか、どうか。
ウィルラートはあれきり口を開かず、立ち昇る湯気ごしにアイネを見ている。その沈黙に耐え切れず、とうとう言ってしまった。
「では、失礼いたします」
再び頭を下げ、慌ただしく踵を返す。
「アイネ」
背中に向かって呼びかけられ、ぴたりと止まる。ひどくぎこちない動きで振り返る。
「はい。ウィルラートさま」
ウィルラートは先ほどの姿勢のまま、やはり無表情にアイネを見ていた。その視線を受けていると落ち着かなくなる。言葉を待っているのはアイネのほうなのに、何か言わなければならないという衝動にとらわれる。
そう、今こそ言うのだ。
下げていた手をきゅっと握り、唇を動かしかけた。その時だった。
「いや。なんでもない」
ウィルラートが言い、それきり目をそらしてしまった。
アイネは口を開こうとした顔のまま、しばらくそこに固まっていた。ようやく我に返って頭を下げると、挨拶もそこそこに部屋から立ち去った。
「今日も言えなかったのね」
女中仲間のイルダの言葉に、アイネは深くため息をついた。
「……うん」
客間の一室に二人だけでいる。伯爵夫妻が留守の今、客はほとんど訪れないが、いつでも使えるように管理は怠らない。今日はカーテンを窓から外し、洗いたてのものと取り替えている。
「ウィルラートさま、ここのところ機嫌が悪いわよ」
「そうなの?」
「顔を合わせても声もかけてくれないって、他の子たちも言っていたわ」
「……」
アイネはもう一度ため息をついた。
ぜんぶ自分のせいだ。気さくで明るいウィルラートが、あんなふうになってしまっているのは。
「早いところ返事しなさいよ。わたしも好きですって」
はっきりした声に、アイネは跳び上がりそうになった。
「――イルダさん!」
「誰も聞いてやしないわ」
イルダは無表情で言い、カーテンの片端をアイネに渡す。アイネは受け取ると、厚みのある生地を抱きしめるように胸に当てた。
ウィルラートが笑わなくなったのは、五日前のことだ。
その日もアイネは、厨房で支度した茶器をもらって、二人の部屋へと向かった。はじめはイクセルの部屋、次にウィルラートの部屋へ。
今になって思えば、部屋に入った時からウィルラートはどこかおかしかった。笑わない、喋らないというだけではなく、手にした本を読んでいるようで目線は動かず、ページをめくろうともしなかった。
お茶が入るとウィルラートは礼を言い、アイネは頭を下げて去ろうとした。扉の前まで来たところで、ウィルラートが急に立ち上がり、アイネの真後ろに立ち、ノブにかけた手をつかんだ。そして、あの言葉をささやいた。
思い出しただけで、体中が熱くなる。
すぐにその場で答えるべきだったのだ。わたしもです、と。
ところが――気がつくと、アイネは扉の外にいた。ウィルラートの手を振り払い、何も言わず部屋を飛び出してきたことを思い出すと、身がすくみそうになった。
ただ、無我夢中だったのだ。ウィルラートがアイネの側にいて、アイネの手をつかんでいて、アイネを見つめている。それを全身で感じるうちに苦しくなり、なりふり構わず逃げ出してしまった。部屋に残されたウィルラートのことを思うと、今でも後悔が襲ってくる。
その翌日も、アイネはお茶を持ってウィルラートの部屋を訪ねた。これが終わったら言わなければと、お茶をいれる間中考えていた。
まず、失礼な態度をとってしまったことを詫びる。それから、受け取った言葉への礼を言う。嬉しかったです、と心を込めて。
そして言うのだ。ウィルラートがくれたのと同じ言葉を。
眠れなかった前の晩、頭の中で何度も練習をした。あの通りにやれば大丈夫だ。
ところが、言えなかった。言わなければ、切り出さなければと考え続けて、気がつくとまた部屋の外にいた。何事もなかったかのようにお茶をいれ終え、いつものように一礼して立ち去っていた。
翌日も、その翌日も、アイネはウィルラートの部屋にお茶を運び、何も言えないまま戻ってきた。
そして、今日も。
「わからないわね。断るんならともかく、いい返事をするのに何の勇気が要るんだか」
五日間、同じ報告をアイネから受けていたイルダは、そのたび何かしらの助言をくれた。緊張しないためのおまじないから、切り出す時の言葉、ちょっとした身づくろいまで。それでもアイネは実行に移せないのだから、もうお手上げといった口調である。
アイネにだってわからないのだ。心の中にずっと留めておいた言葉を、どうして口に出せないのか。
「ウィルラートさま、怒ってるわよね」
「怒っているというか、傷ついてると思うわ。ずっと返事がないなんて、拒絶されるよりもひどいもの」
びくりと肩を揺らす。カーテンを畳む手を止めて、今すぐ駆け出したい気持ちをぐっと抑える。
「アイネ」
顔を上げると、イルダがまっすぐ目を向けていた。何か言われる前に、アイネは自分から口を開く。
「……言わなくちゃね」
「そうよ」
「……うん、わかってる」
アイネは小さくうなずき、畳んだカーテンを軽く押さえた。
ウィルラートを初めて見たのは、この屋敷に来たその日だった。
先輩の女中に連れられて、彼の部屋へ挨拶に行った。事前に聞いていた通りの話しやすい人で、アイネはすぐに彼を好きになった。先に挨拶したイクセルを好きなったのと同じように。
廊下で、書斎で、庭園で、顔を合わせるたびに、ウィルラートは必ず話しかけてくれた。人見知りの激しいアイネだが、ウィルラートとは自然に話すことができた。毎日一回、午後のお茶を届けるのがアイネの仕事になると、その時間が来るのが楽しみで仕方なくなった。
やがて、気がついた。ウィルラートを好きだと思う気持ちは、イクセルを好きな気持ちとは違うのだと。
気付いたところで、アイネにはどうしようもなかった。ウィルラートは伯爵家の令息だ。それに対して、アイネはその伯爵家に仕える女中でしかない。高望みすらできない身分の差だ。
アイネの他にも、ウィルラートに憧れる女中はたくさんいる。アイネはその中のひとりに過ぎない。まして、こんな痩せっぽちで、美人でもなくて、不器用で気のきいたことも言えない、貧しい農家の出の娘なんて。ウィルラートは優しい人だから、使用人として親しくしてくれるけれど、それ以上を望むなんて有りえない。考えることすらおこがましい。
それで良かったのだ。遠くからウィルラートを見つめ、たまに言葉を交わせるだけで幸せだった。顔を合わせた回数や、かけられた言葉の長さに一喜一憂して、ウィルラートが留守の時は内心がっかりして、帰ってくる日は待ち遠しくてそわそわして、ウィルラートの用を受けるたびに舞い上がって、彼がくれる笑顔と、ありがとうという言葉のために、一生懸命になって。
ずっと、ずっと、大好きだった。
「アイネ、もういい」
お茶を注ぐ手をとっさに止めた。数滴こぼれ落ちた後、ポットの口からは何も出なくなる。
アイネは驚いた顔のまま、ウィルラートのほうを見た。ウィルラートはいつもの場所に座り、何も持たずにアイネを見ている。ここ数日と同じで笑わないばかりか、その表情はどこか険しい。
アイネはいたたまれなくなって、手元の茶器に目を落とした。もういい、と言われた時、お茶のことかと思って手を止めたけれど、少し考えたらそんなはずはないのだ。
「悪かったよ。本当にもういいから」
声に再び顔を上げると、ウィルラートは目をそらしていた。アイネは戸惑う。何が悪かったのか、何がもういいのかわからない。
「ごめん。きみがそんなに驚くとは思わなかった」
「……あの……」
「このまえ言ったことは忘れていいよ」
息が止まるかと思った。
「だから、頼むからもうそんな顔はしないで。おれは怒ったりしてないし、もうあんなことを言ったりもしない。きみを怖がらせて本当にすまなかった」
ウィルラートの言いたいことがわかってくるにつれて、アイネの体はどんどん冷たくなっていった。
ウィルラートは、誤解しているのだ。アイネがいつまで経っても返事をしないから。部屋に来た時もずっとぎこちなくて、怯えたような顔をしているから。
「あ、あの――」
「お茶はそのままでいいから、今日はもう行ってくれる? 明日からはまた前みたいに普通に話せるようにするから」
アイネの呼びかけも聞かずに、ウィルラートは冷たく言う。顔を背けたまま、アイネのほうを見ようともしない。
怒っているよりも傷ついているという、イルダの言葉を思い出した。泣きたくなったけれど泣くわけにはいかない。
言わなければ。
今、言わなければ、大切なものを永遠に失ってしまう。
「ウィルラートさま」
「何?」
ウィルラートは振り向きもしなかった。一瞬くじけそうになったけれど気を持ち直し、テーブルを離れてウィルラートの側へ行く。
椅子のすぐ前に立つと、ウィルラートもようやく顔を上げた。
「何?」
重ねて問われ、アイネの身は固まった。言うのだと決めたばかりなのに声が出てこない。その場から動くこともできない。
「わ……わたし」
ウィルラートがアイネを見ている。アイネの言葉を待っている。
言わなければ。
もうこれ以上、ウィルラートを傷つけたくない。
「わたしは――」
「きみが謝ることはないよ」
ぴしゃりと遮った言葉に、せっかく開いた口がそのまま固まってしまう。
「本当にもういいから。――出て行ってくれる?」
そう言い捨てると、ウィルラートは再び顔を背けた。
アイネは、頭がすっと冷えていくのを感じた。緊張でほてっていた顔や手からも、一気に熱が引いていく。
自分が何をしたのか、よくわからなかった。気がつくと、アイネはウィルラートの前に屈み込み、彼の手に自分の手をかけていた。
ウィルラートが再び振り向いた。
「……アイネ?」
「わたしは、あなたが、好きです」
部屋の中が静まりかえった。
アイネはウィルラートの目を離さなかった。どうしてこんなことができたのか、そしてできるのか、自分でもわからない。ウィルラートの手に触れ、顔を見つめているうちに正気がもどってきて、頬が熱くなった。それでも目をそらさず、手も重ねたまま、アイネはウィルラートの返事を待った。
ウィルラートはまばたきもせず見つめ返していた。
「本当に?」
「――はい」
答えると同時に限界が来て、アイネは目をそらしてうつむいた。――うつむこうとした。
ウィルラートの両手がアイネの頬をとらえ、そのまま上を向かせた。
再び目がかち合って、アイネはまた赤くなる。たじろいで顔を背けようとしても、ウィルラートの手が許してくれない。
「あ……あの」
アイネが言いかけたその時、ウィルラートの目が輝いた。
「本当だ」
五日ぶりの、ウィルラートの笑顔だった。頬を包んでいた手がゆっくりと離れていった。
「どうしてすぐに言わなかったの?」
「……ええっと」
アイネは今度こそうつむいた。胸の音が高すぎて、言葉がうまく出てこない。
ウィルラートが笑ってくれて嬉しかったけれど、彼の急な変化に頭がついていかないのだ。どうして信じてもらえたのかもわからない。
「わたし――あの時、とても怖くて」
ありのままを伝えようと、声を絞り出す。
「怖がらせた?」
「いいえ! ウィルラートさまが怖かったんじゃありません。わたし――わたし」
アイネは声をつまらせた。もともと話すのは得意ではないのだ。
それでも言葉にしなければ。もう、あの時みたいな後悔はしたくない。
「わたし、嬉しかったのに、どうしたらいいかわかりませんでした。わからないことが、とても怖くて。不安でたまらなくて、逃げてしまいました。ごめんなさい」
謝るなら目を見なければと思い、顔を上げる。
「ごめんなさい。ウィルラートさま」
ウィルラートは笑い、再びアイネの顔に触れた。
アイネの胸はまだ鳴りやまない。息苦しくて、落ち着かなくて、びっくりするくらい体が熱い。
それでも、逃げたいとはもう思わなかった。
ウィルラートの手がアイネの頬を包み、目はまっすぐにアイネを見つめている。こんな瞬間が訪れるなんて、思ってもみなかった。――ううん、心のどこかで夢を見ていた。夢が現実になったことが信じられなくてくらくらする。気が遠くなるのを必死でこらえ、すべての感覚をウィルラートに向ける。
アイネは抱き寄せられ、髪をすくわれ、耳元で、二度めの言葉をもらった。
あたたかい春が近づく、午後のお茶の時間。
こうしてふたりは、恋人同士になった。
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