末姫と学者 [ 6 ]
末姫と学者

第6話 条件
[ BACK / TOP ]


 天気のいい午前の公園は、有閑階級の女性や子どもで賑わっていた。ある者は徒歩で日傘をさし、ある者は美しい乗用馬にまたがり、並木に囲まれた遊歩道を進んでいる。
 アヴィとともに馬車を降りたミアネラは、場違いに慌ただしい歩調でその中を突き進んだ。
 まだ午前中ではあるが、約束の時間は少しまわっている。イクセルに限って、すぐに痺れを切らして去ってしまうことはないと思うが、それでも気が逸るのを止めることはできない。
 公園には男性客は比較的少ないので、イクセルがいれば見つけ辛くはないはずだ。けれどイクセルもミアネラを捜して歩きまわっていれば、お互いにすれ違ってしまう可能性もある。
「お嬢さま、二手に分かれましょうか? わたしはあちらを捜しますから、お嬢さまは」
「――待って、アヴィ」
 身を翻しかけたアヴィの袖を、ミアネラはつかんだ。
 目を凝らしながら、ベンチのひとつに歩み寄っていく。
 視界を遮っていた無蓋馬車が遠のくと、ベンチにいた青年が顔を上げてミアネラを見た。手にしていた本を閉じ、立ち上がって歩いてくる。はじめて会った時と同じ、『学者さん』の雰囲気のままで。

「驚かれたでしょう。すみませんでした」
 公園の遊歩道を歩きながら、イクセルはミアネラに言った。
「びっくりしたし、心配したわ。あなたの身に何かあったのかと思って」
「すみません。あんな大事になるとは思わなくて」
 あんな大事、と言われても、ミアネラは何があったのかまだ知らされていない。
 久しぶりに会ったイクセルが、特に憔悴したり打ちひしがれたりしておらず、以前と変わらず穏やかな様子だったのは安心した。ただ、イクセルは打撃を受けてもそれを表に出さないたちなのかもしれない。
 百貨店を一緒に歩いた時とは違い、ミアネラはイクセルの腕は借りず、一定の距離を置いて並んでいた。アヴィは例によって気を利かせ、ベンチのひとつに陣取ってミアネラたちの話が終わるのを待ってくれていた。
「どこから話したらいいものか――新聞記事は読まれたのでしたね」
「あなたが廃嫡されそうになっているって。本当なの?」
「本当と言えば本当です。そうならないようにするつもりですが」
「ご領地に帰るつもりだっていうのは?」
 イクセルが顔を向けた。
「新聞に、そんなことまで書いてありましたか」
「いいえ、兄から聞いたの。噂ばなしをしてごめんなさい」
「謝るようなことではありません。こちらこそ、すみません。こんなことになる前に、あなたに少しでも話しておけば良かった」
 イクセルのほうこそ、先ほどから謝ってばかりいる。なかなか核心に迫れないことにミアネラは焦れていたが、質問攻めにして無理やり話を引き出すのは、なんとか思いとどまっていた。
「領地に帰りたいというのは、学生のころからずっと考えていたことだったんです」
 イクセルはゆっくりと話しはじめた。
「デュオニス伯爵家の領地は、この国のずっと北のほうにあります。王都から列車で半日以上かかるのですが、気候のいい美しい土地です」
「あなたはそこで生まれたの?」
「はい。父がこちらでの仕事にかかりきりなので、屋敷と領地の管理は差配人に任せていますが」
「あなたもお父さまのように、王都にずっといるのだと思っていたわ」
 だからこそベルナルトは、イクセルをミアネラの相手にふさわしいと判断したのだ。
「ぼくもそのつもりでいました。ですが――ぼくは王都には向いていないんです。社交的ではないし、政治家の複雑な機微にもついていけませんし」
 そんなことはない、とミアネラは口を開きかけ、あやうく押しとどまった。イクセルは人あたりも頭もいいし、上流階級での社交もそつなくこなしているように見える。
 だが、そのことを伝えたところで、イクセルの話の腰を折るだけだ。
「それに何より、ぼくは自分の育った領地が好きなんです」
「領地が」
「先ほども言いましたが、気候は穏やかですし、水源にも恵まれていますし、農業にも牧畜にも向いています。いくつかの改善を施せば、領民の暮らしももっと豊かになると思います」
 もっと勉強しておけば良かったと、ミアネラは場違いなことを考えた。アヴィが読んでいる新聞にときどきでも目を通しておけば、イクセルの話をもう少し理解できたかもしれないのに。
「あなたは領地に帰って、その仕事をしたいのね。差配人に任せきりにするのではなくて」
「そうです。ずっとそう考えていました」
 イクセルは体の向きを変え、ミアネラをさりげなく道の端に促した。幾人かの貴婦人を乗せた無蓋馬車が、正面から走ってくるところだった。
 馬車が走り去ってもイクセルは歩きはじめず、立ち止まったまま続けた。
「でも、そのことは誰にも話したことはありませんでした。弟のことがあったので」
「弟さん?」
「ぼくが王都を捨てて領地に帰りたいと言い出せば、弟がぼくの代わりに王都に呼ばれることになると、わかっていたんです」
「弟さんも、こちらにはいたくないと思っていらっしゃるの?」
「いいえ。弟はまだ、卒業後にどんな道へ進むのか決めかねています。もしかしたら、王都が性にあっている可能性も、まったくなくはないのですが――それでも、ぼくが投げ出したものを弟が背負わされるのを、黙って見ているわけにはいきません」
 イクセルは投げ出したりはしないだろう。ミアネラは心からそう思った。
 王都を去って領地へ帰ると決めたとしても、両親や弟や、かかわりのあるすべての人と話をつけて、やるべき仕事を終えてからそうするのに決まっている。
 それでもイクセルは、その後の弟のことまで考えて、自分の希望を口に出すことすらできなかったのだ。
「弟のためにぼくが耐えなければならないと、ずっとそう思ってきました。あの観劇の夜に、あなたにそれを正してもらうまでは」
「わたし?」
「弟の話を聞いたわけでもないのに、ひとりで勝手に心配しているのは、本当に相手のことを想っているとは言えないと。その通りだと思いました。弟はぼくにはない強さを持っている子です。父に強いられたとしても、自分が望まないならはっきりそう主張できるはずです。ぼくはそのことを忘れて、弟のことを信頼せずにいたんです」
 劇場で自分がイクセルに話したことを、ミアネラはゆっくりと思い出した。
 あの時は、会ったこともないイクセルの弟に自分を重ねてしまい、つい感情のままにまくし立てていた。それがイクセルの中にそんなふうに響いていたなんて。
「それで――領地に帰る決心がついたの?」
「まだ具体的に決めたわけではありませんが、とにかく希望だけは父に伝えようと思いました。王都でいま任されている仕事を引き継ぐなら、少しでも早いほうがいいですから」
 イクセルは力なく笑った。
「でも、やっぱりぼくは、こういうことには向いていないんですね。切り出し方が悪かったようで、父を怒らせてしまいました。しかも仕事場で話したものですから、何人か無関係の方にも聞かれてしまって」
「それで、廃嫡――?」
「その言葉が出たのは事実ですが、父も本気ではないと思います。伯爵家の体面にもかかわることですしね」
 でも、イクセルが王都を去るつもりでいるのは確かなのだ。だからベルナルトは婚約を解消させると昨日のうちに決めてしまった。
 おおよその事情を理解するにつれ、ミアネラの胸には別の不安がよぎってきた。イクセルは何のために、ミアネラをここに呼び出したのだろう。包み隠さず説明してくれたことは嬉しいが、そこから導き出される結論は果たして良いものなのか。
「今日の午後、父とあらためて話をすることになっているので、そこでもう一度きちんと希望を伝えます。だからあなたとは午前中にお会いして、話したかったんです」
 ミアネラは凍りついた。
 イクセルの目には、これまでになかった緊張の色が浮かんでいる。ミアネラにいちばん話したかったこととは、これなのだ。
「わたしが王都でなければ暮らしていけないと、そう思っているのね」
「――ミアネラ嬢?」
「確かにわたしは世間知らずだし、屋敷から出たことは数えるほどしかないわ。でも、グランフェルト家の領地で暮らしていたことだってあるのよ」
 主張できることのあまりの乏しさに、知らず知らず涙が出てきた。自分は王都と、領地と、短い滞在だった避暑地しか知らない。いずれの場所でも自分の暮らす部屋にこもって、家族や使用人に守られて過ごしてきた。これではイクセルが心配してくれるのも無理はない。
 けれども、それだけは嫌だった。王都を離れて知らない土地に行くのだとしても、イクセルと別れることに比べればいくらでも耐えられる。
「どうせ、わたしは姫よ。家族のいないところで暮らしたことなんてない。でも、あなたと一緒にいるためだったらなんだって努力する。だからお願い、婚約を解消するなんて言わないで」
 次第に声が大きくなっていたのか、公園にいる人々の視線がひとつずつ集まり始めていた。
 ミアネラはそれにも構わず、涙の滲む目でイクセルを見上げた。
「落ち着いてください――ミアネラ」
 つかみかからんばかりのミアネラをなだめるように、イクセルは両肩に手を置いた。
「これだから――ぼくは話し下手なんです。慎重になりすぎて、相手に誤解されてしまうんですね」
「え?」
「一緒に領地に来てもらえますかと、尋ねるつもりでいたんですよ」
 ミアネラはイクセルを見上げた。
 黒い瞳はこれまで通り優しく、同時にからかうように自分を見つめている。その瞳の中に、ぽかんとしたミアネラの顔が映っている。
「もう――早くそう言って!」
 ミアネラは勢いをつけて、イクセルにしがみついた。
 周囲でいくつか、小さな叫び声が上がったが、気にしていられなかった。
「見られていますよ」
「構わないわ。わたしはあなたと結婚するんだもの」
 どんな噂を立てられようと、知ったことではない。
「ずっと、そうなれたらいいのにって思っていたの。はじめて会った時から」
 いつかと同じことをミアネラが口にすると、イクセルの腕が背中にまわされた。
「ぼくもそう思っていましたよ」
「そうなの? いつから?」
 至近距離で抱きあったまま、ふたりは視線をあわせ、イクセルの目が笑った。
「それは秘密です」

 その日の夜、夕食を終えたミアネラがアヴィと話していると、階段の扉が開く音が聞こえた。
 駆け上がってくる足音の主はふたり。もちろんミアネラには、それが誰と誰なのかわかっている。
 部屋に入ってきたベルナルトは、ミアネラのいるテーブルまで大股で歩いてきた。
「お兄さま、こんばんは。お仕事ごくろうさまでした」
「仕事場でおまえの噂を聞いたよ、ミアネラ」
 ベルナルトは優しく妹に問いかけようとして、失敗していた。笑みを浮かべた顔がわずかに引きつっている。
「どんな噂?」
「廃嫡の可能性がある伯爵家のご子息とおまえが、公園で――群衆の目の前で――ふしだらな真似をしていたと」
 数十秒間、抱きあっていただけである。上流階級ではそれをふしだらと呼ぶことは、もちろん知っているけれど。
「カレル、おまえは何をしていた。何のために屋敷に残らせたと思っている」
 背後から追いついた次兄に、ベルナルトは訊いた。どうやら仕事から帰ってくるなり、カレルと話す暇もなくこの部屋まで上がってきたようだ。
「カレルお兄さまは何も知らないわ。わたしがこっそり、窓から抜け出したの」
 カレルが口を開く前に、ミアネラはすかさず言った。
「窓から?」
「シーツを破いて、ロープをつくったの。帰りもそれを使って窓まで登ったわ」
 視界の端で、アヴィがあんぐりと口を開けているのが見えた。カレルが何か言いかけたが、ミアネラは視線でそれを制した。
「――どうやって部屋から出たのかはどうでもいい。問題は、部屋から出て何をしていたのかだ」
 かろうじて笑顔のままでいる兄に、ミアネラは首を傾げた。
「婚約者と会うことが、どうして問題なの」
「婚約は解消した」
「お兄さまがそう言っているだけでしょう」
「すぐにあちらにも承諾をもらう」
「あの――若君さま」
 テーブルの向こうからアヴィがおずおずと、しかし笑いをこらえているような表情で口を挟んだ。
「お嬢さまは公園でふしだらな真似をなさって、それを居合わせた方々に見られてしまったのでしょう。今のご縁談を逃したら、次のお相手がすぐに見つかるとは思えないのですが」
 ミアネラはアヴィに飛びつきそうになった。話しあって示しあわせたわけでもないのに、ミアネラの考えを少しのずれもなく汲んでくれている。
 ベルナルトは視線を床に落とした。端正な顔からは、笑みがすっかり削げ落ちている。
 自分がこの状況を招いたのにもかかわらず、ミアネラは立ち上がって長兄を慰めたくなった。
「ありがとう、ベルナルトお兄さま」
 そうするかわりに、座ったまま口を開いた。
「わたしのためにお兄さまがしてくれたことには感謝しているわ。中でもいちばん、イクセルさまと婚約させてくれたことに」
「結婚はさせないぞ」
「もう決めたの。わたしはイクセルさまと一緒に伯爵家の領地に行って、そこで暮らす」
 ミアネラはゆっくりと言った。今朝のような強い感情は、もう湧いてこなかった。
「お兄さまがどんなにわたしを守ってくれようとしても、この世にある不幸や苦労がみんなわたしを避けてくれるわけじゃない。辛いことも苦しいことも、わたしは知らなければならないの」
 それらを自分の一部にするために。
 幸せも不幸せも、すべて自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で感じられるように。
 ベルナルトはまだ視線を落としたままだった。一分近く経って顔を上げた兄は、再び微笑みを浮かべていた。
「旅行に行け」
「え?」
「二年間――いや一年でもいい。大陸諸国をまわって見聞を広めろ。それが結婚の条件だ」
 予想もしなかった言葉に、ミアネラはしばし呆然とした。
 一年でも二年でも、イクセルと遠く離れているのは嫌だ。できることなら明日にでも結婚したい。
 だが、イクセルも領地に移るには時間がかかると言っていた。父親を説得し、王都での仕事を引き継がなければならないからだ。
 ベルナルトは、条件、と言った。この旅行さえ引き受ければ、イクセルとの結婚を許してくれるということだ。
「わかったわ、お兄さま。旅行に行く」
 アヴィとカレルの視線が同時にミアネラに向いた。ふたりは無表情だったが、ベルナルトだけは満面の笑みのままミアネラを見ていた。
「そうか。わかってくれて嬉しいよ」
「ちょうど勉強したいと思っていたところだったの。何か国くらいまわればいいかしら。滞在先は?」
「わたしが完璧な旅程を組んでやる。おまえは何も心配しなくていいよ」
 ベルナルトは歩み寄り、ミアネラの頬にキスした。微笑みをかわしあい、背を向けて部屋から去っていく。
 ミアネラも決して笑みを絶やさず、兄の退室を見守った。
「いいのか?」
 ベルナルトが階段を下りる音が遠のくと、カレルが振り向きざまに訊いた。扉の前で立ち止まり、出ていくか留まるか決めかねていたようだ。
「兄さんはたぶん、旅行中におまえの気が変わるのを期待しているぞ。一、二年もすれば醜聞だって消えるだろうから、帰国後に新しい縁談をまとめることもできる」
「わかっているわ。大丈夫、わたしの気は変わらないから」
 ミアネラは次兄ににっこり笑いかけた。
「カレルお兄さまも、早くベルナルトお兄さまを説得してね」
 カレルは一瞬で真っ赤になり、それを隠すように背を向け、部屋から出て行った。
 アヴィとふたりで残されたミアネラは、テーブルの席を立った。部屋の隅に置いてある、おもちゃの劇場の前で身をかがめる。
「『学者さん』に、手紙を書かなければいけませんね」
 ミアネラが考えていたのと同じことを、アヴィが言った。
 長い旅行に出かけることを、イクセルに伝えなければならない。それさえすれば兄に結婚を許してもらえることも、この機会にさまざまな地方を見聞し、イクセルの領地経営に役立てたいと考えていることも。
 それに、本当なら、一日たりとも離れたくない、と思っていることも。
「そうね」
 舞台に立つ人形たちを覗きこみ、ミアネラは微笑んだ。それから横についている紐を引き、おもちゃの劇場に幕を下ろした。



[ BACK / TOP ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.