末姫と学者 [ 5 ]
末姫と学者

第5話 階段の扉
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 ミアネラは急いでメッセージをしたためた。宛先はもちろん、デュオニス伯爵邸のイクセル・デュオニスである。
 兄が部屋を去ってからもう一度じっくり考え直してみたが、急に婚約を解消される理由がミアネラにあったとは、どうしても思えない。それならばやはり、イクセルのほうに何かがあったのだ。
「これを届けさせて。すぐにお願い」
 女中にメッセージを託しながら、ミアネラの手は震えていた。
 婚約を解消しなければならない何かというのが、何なのかはわからない。だが決して小さなことではないということはわかる。
 イクセルの身に何か――事故や病気が――あったのだとしたら。
 ミアネラは考えるのをやめ、落ち着くよう自分に言い聞かせた。とにかく今は、メッセージの返事を待つしかない。

 その日の終わりまで待っても、イクセルからの連絡はなかった。
 兄たちに詰め寄ることもできなかった。夕食の後に階下に降りて兄たちと話す習慣が、この日に限って中止されたのである。
 それを伝えに来たのは女中のひとりだったが、理由を尋ねても決して答えてくれなかった。たぶんベルナルトが決めたことだろう。
 兄は、イクセルのことを何か知りながら、それをミアネラに隠し通そうとしている。
 ほとんど眠れないまま朝を迎え、ミアネラはいつもより早い時間に起きて着替えた。
 この時間ならまだ兄たちは出勤前だ。朝食の席に乗り込んででもベルナルトを問いつめ、ひとつでも何か教えてもらわなければ。
「お嬢さま」
 ひとりでテーブルについていたアヴィが、新聞から目を上げた。すでに朝食は運ばれてきているが、ミアネラは手をつける気にもなれなかった。
「これじゃないですか?」
「え?」
「婚約解消の原因です」
 アヴィは手にしていた新聞を翻し、ミアネラに面を向けた。
 ミアネラは駆け寄り、見開いた目を紙面に走らせた。政治家の動向などを知らせる記事の片隅に、その文字はあった。
 デュオニス伯爵家の長男、廃嫡の可能性――と。
「これだけではよくわかりませんけれど、どうも『学者さん』は、お父さまの伯爵と仲違いなさったようですね」
 新聞の記事はミアネラの小指ほどの長さしかなく、アヴィの言うとおり詳しいことはわからなかった。ただ、これが婚約解消と無関係でないことだけは確かだ。
「ケープと靴を取って。アヴィ、一緒に来てくれる?」
「どこへですか」
「決まっているじゃない」
 ミアネラは女中に靴を替えさせ、ケープを羽織ると、自分の部屋を飛び出した。階段を駆け降り、三階との間にある扉の前に来ると、取っ手に手をかけて押し開こうとした。鍵をかけられているわけではないのに、分厚い扉はミアネラひとりの力ではびくともしない。
「アヴィ、手伝って」
 アヴィがミアネラの隣に立つ前に、扉が動いた。
 ミアネラがひとりで押し開けたのではない。向こう側から、まったく別の力がかかったのだった。
 扉が取り除かれると階段の続きが見え、そこにミアネラのふたりの兄が立っていた。
「何をしている? ミアネラ」
「イクセルさまのところへ行くの」
 ミアネラはアヴィを振り返った。慌ただしく部屋を飛び出してきた彼女の手には、読みかけの新聞がまだ握られていた。
「イクセルさまが廃嫡されそうになっているって。婚約解消はそのためなんでしょう?」
「アヴィ・ルースター! ミアネラに新聞を読ませたのか」
 ベルナルトに大声で呼ばれ、階段の上のアヴィが身をすくませた。
「アヴィは悪くないわ。わたしが勝手に読んだの」
「いけないと言ったのに、ミアネラ」
「とにかく、イクセルさまに会ってお話を聞きたいの。デュオニス伯爵邸に行かせて、お兄さま」
「ミアネラ」
 ベルナルトは優しく笑い、ミアネラの手首をつかんだ。
「おまえがそんなことをする必要はない。おまえは何も心配しなくていいんだ」
「そんなことできない。もし、本当に婚約を解消するのだとしても、イクセルさまからその理由を聞きたいの」
「だめだ」
 ベルナルトは階段を上った。ミアネラの手を引いたまま。
「はなして、お兄さま」
 ベルナルトはミアネラの声に答えなかった。階段のいちばん上まで歩き、部屋の扉の前にミアネラを立たせた。自分は数段下で立ち止まり、振り返ったミアネラを見上げた。優しい笑みを浮かべたまま、わがままな姫君をなだめる騎士のように。
「もっといい相手を見つけてやると言っただろう。もう終わった婚約の相手のことなんて、おまえが気にすることはない」
「終わっていないわ。わたしにとっては。婚約を解消する理由を、まだ聞いていないもの」
「そんなことを聞いてどうする、ミアネラ」
 ベルナルトが鼻で笑った。
 ミアネラの隣にいるアヴィも、ベルナルトの後ろにいるカレルも、石になったように一歩も動かず、一言も口にしない。
「聞いたところで、おまえに何ができるんだ? おまえは廃嫡というのが何を指すのかわかっているか? 政治家の貴族の父親と息子がどういうものか知っているか? この件はおまえが耳に入れるような話じゃない、ミアネラ。入れたとしても半分も理解できないだろう」
 ミアネラは怯んだ。
 ベルナルトの言うとおり、ミアネラは社会のことなど何も知らない。社交界に出たと言っても、拝謁式と夜会に一度ずつ出席し、百貨店と劇場に出かけただけだ。上流階級の人間の機微なんてミアネラにわかるはずがない。まして、自分からいちばん遠い、政治に携わるような男性たちのことなんて。
「おまえは何も知らなくていい、ミアネラ。何もかも、わたしに任せておけばいいから」
 ミアネラが押し黙ったのを見て、ベルナルトはあらためて微笑み、きびすを返した。
 階段を下りようとする長兄の背中を、ミアネラは食い入るように見つめた。兄が去ってしまう。ミアネラにとって大切な鍵を握っている兄が、それをミアネラに見せもせず隠し持ったままで。
「そうやって、わたしの見えないところで、わたしの人生を動かそうとするの。お姉さまの時みたいに!」
 階段に声が響きわたった。
 降りかけていたベルナルトも、それに従っていたカレルも、振り向いて顔を上げた。ミアネラの部屋にいた女中たちも扉のところまで来て、アヴィとともに固唾を呑んで兄妹のやりとりを見守っていた。
「お姉さまが病気になった時も、ベルナルトお兄さまはそう言ったわ。おまえは何も知らなくていい、何も心配しなくていいって。命にかかわる病気だったのに、わたしはそんなことも知らされなくて、知ったのはお葬式の時だったのよ!」
 ベルナルトが階段を引き返し、ミアネラの前へ来た。最上段にいるミアネラより少し低い場所で、再び姫をなだめる騎士の姿勢になった。
「おまえのために知らせなかったんだ、ミアネラ。おまえがまだ幼かったから」
「十六歳だった。お母さまがお父さまと結婚した時と同じ年よ」
 姉のアミーリアが療養のために地方に移った時、すぐに良くなって会えるとベルナルトは言い、ミアネラはそれを信じた。連れられて行った避暑地から何度も姉に手紙を書き、一緒にいた時と同じ調子で他愛ない話を連ね、早く良くなって帰ってきてほしいとせがんだ。
 アミーリアの病気が、いったん罹れば治る見込みはほとんどなく、若い命をあっけなく奪っていくものだとは知らずに。
 一緒に育った、ふたりきりの大切な姉妹だった。二度と会えなくなることがわかっていたら、その前に伝えたいことがたくさんあった。感染の恐れがあって会うことは許されなくても、知っていれば違う手紙を書くこともできたのに。
「アミーリアはわたしにとっても大切な妹だった。あの時はわたしだって悲しんださ、ミアネラ。おまえに同じ悲しみを味わわせたくなかった」
「妹を亡くした悲しみはお兄さまのもの。でも、姉を亡くした悲しみは、わたしのものだった」
 高い段から兄を見下ろし、ミアネラは言った。やり場のない怒りと、二年間も抱えてきた後悔で、目の前が霞んだ。
「わたしの人生にある喜びも、悲しみも、幸せも不幸せも、全部わたしのもの。お兄さまのものじゃない」
 ベルナルトの表情から笑みが消えた。姫君を優しくなだめる騎士の顔から、塔の上に閉じこめようとする暴君の顔になった。
「おまえを傷つけないためにやったことだ」
「知っているわ。感謝していないわけじゃない」
「おまえに何ができると言うんだ? ずっとわたしたちに守られて、不自由なく暮らしてきて、この世の荒波を何も知らずに来たくせに。今になってわたしの手から離れようとすれば、おまえが痛い思いをするだけだ」
「したって構わない。傷ついても、汚れても、わたしは自分の人生を生きたい」
 兄の語気が荒くなるにつれ、ミアネラは逆に冷静になった。自分よりも低い位置にある兄の瞳を見下ろし、宣言するように告げた。
「イクセルさまと結婚するのも、しないのも、わたしであってお兄さまじゃない。婚約を解消するのなら、ちゃんと自分の目と耳でそのことを確かめたい」
 ベルナルトが階段を上がった。ミアネラの肩を抱き、開いたままの扉に連れていく。
「部屋から出すな」
「お兄さま!」
「カレル、おまえは今日一日この屋敷にいろ。妹から目を離すな」
 ベルナルトは引き返し、階段の途中で立ちすくんでいた次兄に命じた。カレルは気圧された表情のまま、こわごわと無言でうなずいていた。
 兄たちのその光景を、ミアネラは最上階から見下ろしていた。
 階段にある重い扉が兄たちの姿を隠し、音を立てて閉まった。

 ベルナルトを乗せた馬車が去っていくのを見届けると、ミアネラは窓際から離れた。
 部屋のテーブルの上には、普段どおり給仕された朝食が、すっかり冷めた状態でそのまま残っている。その傍らに腰かけたアヴィは手をつけることもせず、所在なげにミアネラを見つめていた。
「アヴィ、ごめんなさい」
 ミアネラはテーブルに向かった。
「はい?」
「新聞のこと、わたしのせいでお兄さまに知られてしまって」
 アヴィが厨房から新聞を持ってくるのは毎日のことだが、ベルナルトはそれを許していない。ミアネラの目に政治や経済の記事を触れさせるのを好まないためだ。
「大丈夫だとは思うけど、このせいでうちを辞めさせられることになっても、紹介状は必ず渡すから。わたしからお父さまにお願いするわ」
「そんなことを気にしていたんですか、お嬢さま」
「そんなこと、じゃないわ」
 ミアネラはアヴィの向かいの席につき、銀製のカトラリーを手に取った。
「とりあえず食べましょうよ、アヴィ。もったいないから」
 兄と言い争った時とは打ってかわって、ミアネラの頭は落ち着いていた。落ち着くと空腹を感じるものなのか、冷めてしまった朝食が急に美味しそうに見えてきた。
 固くなったパンを一枚取り、半分にちぎる。バターを載せても気持ちよく溶けないので、ナイフを使って塗り込めていく。
「お嬢さま、どうなさるんです?」
 ミアネラにならって朝食に手をつけながら、アヴィがおずおずと切り出した。
「このままあきらめるおつもりではないんでしょう?」
「もちろんよ。食べ終わったらイクセルさまのところへ行くわ」
「どうやって?」
 ミアネラはパンを咀嚼し、小さく背後を振り返った。
「窓から――とか」
「窓ですって?」
「シーツを引き裂いてロープをつくれば、なんとか地面に届くと思うの。届かなくても、せめて二階の窓まで足がつけば――」
「呆れました。通俗小説の読みすぎですよ、お嬢さま」
 アヴィは食べかけの朝食を放り出して立ち上がった。すたすたと部屋の扉のほうへ歩いていく。
「アヴィ?」
 ミアネラが呼びかけても、アヴィは振り返らずに部屋を出てしまった。階段を下りる足音がしばらく響いた。
 朝食をきれいに平らげ、いったん脱いだケープを再び羽織っていると、また扉が開いてアヴィが戻ってきた。振り向いて呼びかけようとしたミアネラは、口を半開きにしたまま声を失った。アヴィの後ろに、階下にいたはずのカレルが続いているのに気づいたためだ。
「カレルお兄さま?」
「これを渡しに来た」
 カレルはアヴィを追い越し、ミアネラの前まで歩いてくると、手にしていた薄い封筒を差し出した。
「本当は昨日のうちに届いていたんだが、おまえには見せるなと兄さんに言われていた」
 ミアネラは飛びつくように封筒を奪い、急いで開けた。
 イクセルからだった。明日の――つまり今日の――午前、公園で会って話がしたいとある。切手も消印もない。おそらく伯爵邸の使用人がじかに届けに来たのだろう。
 それを見た瞬間に走り出したくなったが、はたと気づいてミアネラはカレルを見上げた。
「カレルお兄さま、どうして?」
「あの時は悪かったよ、ミアネラ」
 カレルはミアネラの問いに答えず、目もあわせずに続けた。
「おれはおまえにも知らせるべきだと思っていた。でも兄さんがだめだと言って――いや、言い訳だな。おれもあの時は、アミーリアのことで頭がいっぱいだった」
 どうやらアミーリアが病気になった時のことを話しているらしい。カレルは昔から口下手である。
「後悔しているの? カレルお兄さま。だからわたしにこれを見せに来てくれたの?」
「それもある」
 カレルはようやくミアネラの目を見た。
「でも、それだけじゃない。さっきはなんというか――感心、いや感動した。あの兄さんによくああまで言ったよ。おれは一言も逆らえないのに」
 カレルはベルナルトと同じ大学を出て、ベルナルトと同じ官公庁で働いている。社交的な性格ではないのだが、ベルナルトに言われるままに夜会に出かけ、上流の紳士らしく振る舞っている。
 今も、ベルナルトの命令に従って屋敷に残り、ミアネラが外に出ないよう見張っているはずだった。
「アヴィに聞いた。おまえはイクセル・デュオニスと、婚約する前に会っていたんだって?」
 ミアネラは思わずアヴィを見た。アヴィはカレルの半歩後ろに立ち、かすかに後ろめたい目をミアネラに向けていたが、ミアネラは決して怒る気にはならなかった。
「ええ。偶然だったの。もう会うこともないと思っていたから、あの夜会で顔を見た時は本当にびっくりしたわ」
「そんな幸運な偶然はめったにない。彼と結婚したいんだろう、おまえは」
 まっすぐに訊かれ、さすがにミアネラは頬を熱くした。
「ええ、そうよ。でも、イクセルさまは――」
「婚約解消は兄さんが一方的に決めたことで、向こうからはまだ何の申し出も来ていない」
「――本当に?」
「それどころじゃないんだろう。どうもおまえの婚約者は、王都を捨てて領地に帰ると言い出して、伯爵のご不興を買ったらしい」
 はじめて聞く情報だった。新聞にもそんなことは書いていなかった。
「イクセルさまが――領地に?」
「だから兄さんはすぐさま婚約を解消すると決めたんだ。王都に留まる相手でなければ、おまえを嫁がせられないと思っているから」
 イクセルが領地に帰りたがっている。王都にいて父親の後を継ぎ、この国の将来を担うことを期待されている彼が。そんな考えは一言も聞いたことがなかった。
 それに、前もって素振りも見せずにいきなり自分の意志を伝え、父親の怒りを買って廃嫡を言い渡されるなんて、イクセルらしくない。
 ここでそれを考えていたって仕方がない。カレルが渡してくれたメッセージには、イクセルが選んだ場所がはっきりと記されている。
「本人に会って、じかに聞いてきたほうがいい。彼もそのつもりでおまえを呼び出したんだろう」
 ミアネラがまさに考えていたことをカレルが言い、ミアネラはすぐにうなずいた。
「ありがとう。カレルお兄さま、わたしを見逃して、ベルナルトお兄さまに叱られない?」
「叱られるどころじゃない。でも、おまえが兄さんにああまで言ったのに、おれが黙って見ているわけにはいかない。おれたちも自分のことは自分でなんとかするよ」
「おれたち?」
 きょとんとするミアネラの前で、カレルが視線を横に滑らせた。そこに立っていたアヴィがカレルと目をあわせ、すぐにそらす。
 ミアネラは数秒かけてその意味を理解し、次兄と家庭教師の顔を見比べた。
「あ――アヴィの恋愛の相手って――」
「その話は今はいいから。おまえは自分の婚約者に会いに行ってこい」
「行きましょう、お嬢さま」
 アヴィが自分の外出着を取りに行き、そそくさと戻ってくる。
 ミアネラはこくりとうなずき、アヴィとともに自分の部屋から抜け出した。


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