末姫と学者 [ 4 ]
末姫と学者

第4話 夜の劇場
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 ボックス席の手すりから身を乗り出し、ミアネラは劇場全体を見まわしてみた。
 半円型の客席は、すでにほとんどが人の姿で埋まっている。後方の壁に沿って設けられた桟敷席も、一階から天井に近い四階までほぼ満席だ。向かい側の半円の角に当たる部分には、分厚いカーテンを左右に引いたボックス席が、やはり縦に四つ設けられている。豆粒ほどの着飾った男女がその中に収まり、互いに言葉を交わしたりオペラグラスを掲げたりしている。向こうからもミアネラのいるこの席が見えているのだろう。
 右方向に見える舞台に目を移せば、そこには暗紅色の幕が引かれ、中の様子はまったくわからない。かわりに目を引くのは上部に施された精緻な装飾だ。天使や神獣を象った彫刻は上に向かって広がり、その先には目も眩むほど鮮やかな天井画が君臨している。
「ミアネラ」
 背後からかかった声に、ミアネラは手すりに寄りかかったまま振り向いた。
「もう少し下がりなさい。そんなに前にいては目立ってしまう」
「はい、お兄さま」
 劇場の光景に未練を残しつつ、ミアネラは席に腰を下ろした。ボックス席に置かれた肘掛け椅子はゆったりした大きさで、素晴らしく座り心地がいい。
「すみません、妹はまだまだ子どもなもので、落ち着きがなくて」
 ミアネラの長兄ベルナルトは、隣にいるイクセルににこやかに声をかけた。同じく椅子に腰かけたイクセルも穏やかな微笑で応じる。
 イクセルが否定してくれなかったことに、ミアネラは少しばかり傷ついた。ベルナルトがミアネラを子ども扱いするのはいつものことだが、イクセルは何か言ってくれるのではないかと思ったのに。
 イクセルが約束を守って一緒に劇場に来てくれたのに、ベルナルトが付き添ってくると決まった時点で、ミアネラはいささかがっかりしていた。家庭教師のアヴィは劇場の中まで同行することはできないので、付き添いは兄ふたりのうちどちらかということになるが、カレルならなんとか言いくるめてイクセルとふたりきりになることができたかもしれないのに。
 ベルナルトはミアネラがイクセルと劇場に行くと知ると、グランフェルト家のボックス席を使うよう熱心に勧めた。そしてミアネラの知らないうちに、日どりと演目まで決めてしまっていた。
 イクセルは何も言わないが、ミアネラは不満である。せっかくイクセルと約束して観劇することになったのだ。何を観るかくらいはふたりで相談して決めたかった。
「ここは良い席ですね。舞台も客席もよく見える。さすがはグランフェルト公爵家のボックス席だ」
「この劇場が建った時に当時の公爵が買い上げたものです。わたしやミアネラの曾祖父ですが」
 今も、イクセルとベルナルトがとりすました会話を交わしており、ミアネラがそこに加わる隙間はない。
 ミアネラは仕方なく、再び劇場の光景に目を戻した。今度は椅子に腰を下ろしたままで。
 ボックス席の高みから見渡す舞台は、ミアネラの屋敷にあるおもちゃの劇場と驚くほど似通っている。おもちゃのほうが本物を模して精巧につくられていたのだろう。
 ミアネラはむしろ、はじめて見る客席のほうに目を奪われた。これほど多くの人間を収納する建物が、自分の住んでいた街にあっただなんて。縦横に連なる席に人々がきれいに収まっているさまは、整頓された人形の棚を見ているようでなんだか面白い。
 ミアネラは兄が買い与えてくれたオペラグラスを持ち上げた。丸眼鏡の片端に持ち手がついたもので、女性らしい繊細なつくりだ。それを目にあてて、見渡せる限りの客席をすみずみまで眺めまわした。
 対向側のボックス席や、舞台に面した平間の席は、ミアネラたちと同じように盛装した、上流階級と想われる客が占めている。ミアネラと同い年くらいの、社交界に出たばかりであろう令嬢の姿もちらほら見つかる。両親や兄姉らしき大人と来ている者がほとんどだが、ボックス席のひとつから顔を覗かせる令嬢のひとりには、二十代前半であろう若い紳士が付き添っていた。別々の椅子に座っているので夫婦ではないのだろうが、ときどき目をあわせては慎ましげにほほえむ様子は兄妹にも見えない。ミアネラとイクセルのような婚約者だろうか、あるいはこれからそうなろうとしているのか――
「ミアネラ嬢、何が見えますか?」
 横から聞こえてきた声に、ミアネラは振り向いた。オペラグラスを外したばかりの目に、まっすぐ自分を見つめるイクセルの顔が飛び込んでくる。
 ミアネラは視線を思わず落とし、そして慌ててイクセルに戻した。覗き見るように他人の席を眺めていたことを知られたようできまりが悪いが、イクセルがせっかく話しかけてくれた機会を逃すつもりはない。
「たくさんのお客さまがいらしていると思って。わたしと同い年くらいのお嬢さんもいるわ」
「劇場に来たのははじめてかもしれませんね。あなたと同じで」
「ご家族と一緒に来ているのかしら。それとも……」
 ミアネラは言葉を濁し、イクセルの目を見つめた。
 ボックス席の中には明かりはなく、劇場の天井に据えられたシャンデリアの輝きが、唯一の光である。
 その薄暗さの中で、イクセルの黒い瞳がミアネラを見つめている。
 何かを言いたいような気がするのに、それが何なのかわからない。
 ミアネラが口ごもっているうちに、シャンデリアの光が遠のき、観客席のざわめきが引いた。
「開演だぞ、ミアネラ」
 ベルナルトがたしなめるように言う。
 そのまま三人の視線は舞台上に集まり、ミアネラは結局、イクセルに何も言うことができなかった。
 ただ、幕が上がってから再び降りるまで、イクセルの視線がときおり自分に向けられるのを、意識しないでいるわけにはいかなかった。

「楽しめましたか? ミアネラ嬢」
 終演の後、馬車を待っている間に、イクセルがそう訊いてくれた。
「ええ、とっても」
 ミアネラは心から答えた。まだ劇の余韻で頭の中が興奮している。
 ベルナルトがこの夜のために選んだのは、王都で評判の高い新作の歌劇だった。この国で育った者なら誰でも知る伝承を下敷きに、登場人物の複雑な心情が絡みあう物語へと発展させ、要所で歌われる独唱が舞台を盛り上げる大作だ。歌劇の中ではめずらしく幸運な結末を迎える恋物語で、終幕で主人公たちの恋愛が成就した瞬間、ミアネラは我がことのように喜んでしまった。
「お芝居ってすごいのね。人が頭の中でつくったお話を、本物の人が演じているんだもの」
「なんだそれは」
 ベルナルトが呆れつつも笑ってミアネラを見下ろす。
「気に入ったか?」
「うん。お兄さま、ありがとう」
 ミアネラは兄からイクセルに視線を移した。
「イクセルさまも、ありがとう」
 劇場の車寄せやそこに続く長い廊下は、観劇を終えて出てきた人の姿で埋め尽くされている。名前を呼ばれた客が前に出るたび人々が道をつくろうとするため、人だかりの波が左右に大きく揺れ動いている。ミアネラの立つ場所を守るために、ベルナルトがさりげなく位置を替え、人波が押し寄せるのを避けてくれていた。
「――グランフェルト卿?」
 喧噪の中からひとつの声が投げかけられ、ミアネラは兄と同時に顔を上げた。
 ベルナルトよりいくつか年上らしい紳士が、人をかき分けながら近づいてくるところだった。
「アスキア子爵、こんばんは。いらしていたのですね」
「そちらこそ、奇遇ですね」
 どうやらベルナルトの仕事仲間らしい。近くまでやってきた彼に、ベルナルトは妹とその婚約者を紹介した。
「グランフェルト卿、あちらに来ていただけませんか。実は大臣が奥方とともにいらしていて」
 同僚の言葉に、ベルナルトはミアネラをちらりと見た。
「あいにくですが、妹から離れるわけにはいかないのです。妹は劇場に来たのがはじめてで」
「少しの間ですよ。大臣もあなたが来ていることをご存じですし、ご挨拶しないわけには」
「お兄さま、行ってきて」
 かぶせるようにミアネラは声を上げた。
 このままではイクセルとほとんど話せないまま、今日という夜が終わってしまう。そうならないための絶好の機会である。
「ミアネラ、しかし」
「お世話になっている方なのでしょう。ご挨拶しないと」
「こんな人の多いところでおまえから目を離すわけには」
「もう、わたしをいくつだと思っているの? 迷子になったりしないわ」
 思わず声を高めると、兄の同僚が目を丸くした。
 兄妹喧嘩の現場を赤の他人に見られたようで、ミアネラは少し気恥ずかしくなる。
「どうぞ、いらしてきてください。ミアネラ嬢にはぼくがついていますので」
 反対側からイクセルの声が降ってきて、ミアネラは顔を上げた。
 イクセルはミアネラの頭ごしにベルナルトを見て、ほほえんでいた。
 ベルナルトがそれでもためらいがちに、同僚とともに人波の中に消えると、ミアネラはさっそくイクセルに言葉をかけた。
「ありがとう」
「いいえ」
 イクセルは約束したとおり、人だかりからミアネラを庇い、他の誰かがミアネラと接触することがないよう、さりげなく気を配ってくれた。
「兄君は本当に、あなたを大切に思っておいでなのですね」
「昔からそうなの。わたしは末娘だし、姉はもういないから。でも、ときどき、そんなにまでしなくてもって思う時もあるわ」
 ミアネラは思わず本音をつぶやいた。
 兄がミアネラのためにさまざまな気を遣い、ミアネラのためならなんでもしてくれることは知っている。そうしてあらゆることを兄の差配に頼っていると、自分の力では何ひとつできないのだと思い知らされる。
 実際、ミアネラはひとりでは何もできないのだ。世間知らずで、子どもっぽくて、この世のあらゆる不幸から遠ざけられて、大切に守られてきた姫なのだから。
 婚約者とふたりきりになれる時間くらいは、与えてくれてもいいのにと思うのだが。
 兄のおかげでイクセルと婚約できておきながら、その兄を邪魔者のように感じるのはわがままなのかもしれないけれど。
「身につまされる話ですね。ぼくも弟にそう思われないように気をつけないと」
「あなたの弟さん?」
 イクセルのただひとりの兄弟のことは、再会したその日にいくらか聞いていた。
 イクセルより五つ年下の十七歳で、今は寄宿学校の最高学年。卒業後の進路は決まっておらず、しばらくは領地の屋敷に身を落ち着けることになっている。明るく人なつこい性格でイクセルとは対照的だが、兄弟仲は決して悪くはないらしい。
「ぼくはあなたの兄君ほど良い兄ではないのですが、弟のことを先走って考えすぎてしまうことはあります。取り越し苦労というか、ひとり勝手に心配しているだけかもしれませんが」
「そんなことは、ないと思うわ」
 ミアネラは飛びつきたい気持ちを抑えつつ、慎重に言葉を選んだ。
 イクセルが自分の話をしてくれるのはめずらしい。もっと聞きたいし、ミアネラに話して良かったと思ってもらいたい。
「弟さんには、何か心配なところでもおありになるの?」
「そんなことはないんです。見た目よりもしっかりしていて、ぼくに欠けているものを持っている子です。ただ、貴族の兄弟というのは、本人の気質にかかわらず厄介なところがあって……」
 イクセルは途中で言葉を止めた。いつの間にか消えていた笑みを再び浮かべる。
「すみません。あなたに聞かせる話ではありませんでした」
 心からミアネラを気遣ってくれている、穏やかな微笑だ。今まではこれを向けられると幸せな気持ちにしかならなかった。
 この時は違った。ミアネラはほほえみ返さず、きっと視線を上げてイクセルを見つめた。
「弟さんの話も聞かず、ひとりで心配しているだけなら、それはあなたの勝手だと思うわ」
 自分でも驚くほど低い声が出た。イクセルにいい印象を持ってもらいたいという目的も忘れ、気がつくと心からの本音を口に出していた。
「何も話さない、相談しないということは、相手を信頼していないということではないの? それでは本当に相手のことを想っているとは言えないと思うわ」
 ミアネラは気がついていた。これは、イクセルに言いたいことではない。イクセルの弟を思って出てきた言葉ではない。
 他でもないミアネラ自身が、兄に対して抱えているものだ。
 そのことに気がつくと、熱くなっていた頭が一気に冷えた。
「あ――ご、ごめんなさい。生意気なこと言って」
「いいえ」
 慌てて言い繕うミアネラに、イクセルは微笑んでくれた。その直前までは軽く目を見開き、凍りついたような表情をしていた。
「あなたの言うとおりです。そうか、そうですね」
 彼にしてはめずらしく、まとまらない言葉をそのまま口にしている。それでも不快に思っている様子ではないので、ミアネラはほっとした。
「ありがとう、ミアネラ嬢。あなたに話して良かった」
 おまけにイクセルがそう言ってくれて、天にも昇る気持ちになった。
「どういたしまして。これからも、何でも話してくれたら嬉しいわ」
 ふたりきりで話せる時間は短かったが、最後にイクセルが自分のことを話してくれた。これだけでミアネラは幸せだった。
 次に会う時は、もっといろいろな話をして、お互いのことを知りたい。その次はもっと、その次も、その次も。そうして少しずつ距離を縮めていけたらいい。
 結婚して一緒に暮らすようになるまでも、それからも。

 グランフェルト家の屋敷の最上階にあるミアネラの部屋は、南に面した壁に三つもの大きな上げ下げ窓がある。天気のいい日の午後になると、たくさんの光を取り込んで部屋を明るく満たしてくれる。
 ミアネラはその光を利用して、人形たちをひとつずつ手に取り、修繕の必要がないか確認していた。おもちゃの劇場に立つ、役者の人形たちである。小さな舞台に並べていくうちに、一週間前に聴いた歌劇の名曲が頭に流れ出す。
「ご機嫌ですね、お嬢さま。鼻歌なんてお歌いになって」
 新聞を手に部屋に戻ってきたアヴィを見上げ、ミアネラはぴたりと手を止めた。
「……歌っていた?」
「歌っていました。階段まで聞こえていましたよ」
 頬が熱くなるのを感じつつ、ミアネラは小さく微笑んだ。歌っていたのは無自覚だったが、機嫌がいいのは事実である。
「先週の歌劇がそんなに良かったんですか。それとも、『学者さん』と何かいいことでもあったんですか?」
「ふふ、両方」
 あれ以来イクセルとは会っていないが、使用人の手を介してメッセージは毎日のようにやりとりしていた。イクセルがくれるのはいつも同じで、ミアネラの健康や機嫌を伺い、またどこかに出かけましょうと添えてある程度だったが、それでもミアネラは受け取るたびに何度も読み返していた。
 イクセルの筆記体の文字は整っていて読みやすく、穏やかで実直な人柄が伝わってくる。眺めているだけでイクセルが側にいてくれるような気分になれるのである。
 まだ次に会う約束はしていないが、いちばん新しいメッセージでは、どこか行きたいところはありますかと訊いてくれていた。じっくり考えて返事を出すつもりだ。できれば兄たちではなく、アヴィが付き添ってきてくれる場所がいい。そうすれば、イクセルとふたりで話せる時間が長くなる。
「あら?」
 アヴィが新聞を開く手を止めた。
 そのわけはミアネラもすぐに気がついた。部屋の扉の外から、階段を上がる足音が聞こえてくるのだ。女中のものではない。どうやらひとりのようである。
 扉を開けて姿を見せたのは、長兄ベルナルトだった。
「お兄さま、どうなさったの」
 まだ正午をまわったばかりである。いつも官公庁街の職場に詰めている兄が、こんな時間にミアネラのところにやってきたのははじめてだ。
 駆け寄っていったミアネラの頬にキスを落とすと、ベルナルトはにっこり笑って告げた。
「婚約を解消にする」
「――え?」
「今日、決まった。おまえに知らせるのは早いほうがいいと思ってな、それだけ言うために帰ってきたんだ」
 ミアネラは兄の顔を見つめた。仕事のために髪や装いを整えた兄は、今日も惚れ惚れするほど素敵である。加えて、ただひとりの妹を見下ろす優しい瞳には、心からの愛情と責任が備わっている。
「お兄さま――どういうこと? 解消って――」
「心配するな。もっといい相手をすぐに見つけてやるから」
「そんなこと――どうしてなの? イクセルさまに何かあったの?」
 兄の言葉の意味を理解すると同時に、不安が染みのようにじわじわと広がっていく。
 イクセルは優しかった。一緒に出かけた時も、メッセージの文面でも、ミアネラを大切に気遣ってくれた。ミアネラがよほど自惚れてでもいない限り、一方的に嫌われて婚約を切られるようなことはないはずだ。
 だとしたら、イクセルのほうに何か、結婚できなくなるようなことが起きたのか。
「落ち着くんだ、ミアネラ。わたしに任せておけばいいから」
 ベルナルトはミアネラの両腕を押さえ、優しく言った。
「おまえは何も心配しなくていいよ」
 そのままきびすを返して、入ってきたばかりの部屋から出ていってしまう。
 冷たくなっていく体を感じながら、ミアネラは部屋の中に呆然と立ち尽くしていた。階段を駆け降りる音が遠のいたと思うと、最上階と三階を隔てる分厚い扉が、勢いよく閉められる音が響いた。


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