末姫と学者 [ 3 ]
末姫と学者

第3話 百貨店
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 午後の百貨店はたくさんの人で溢れていた。ガラスのショーケースが置かれているごとに大きな人だかりができ、その合間を縫って渡り歩く人たちが声をかけあい、その騒音が空中まで埋めつくしているようだった。
「大丈夫ですか、ミアネラ嬢」
「は、はい」
 振り返り、自分を気遣ってくれるイクセルの腕につかまりながら、ミアネラは懸命に人と人の間を進んだ。
 腕につかまりながら、という部分はなるべく意識しないようにしていた。けれど、これだけの人いきれの中にいても、コートの腕に触れた手の部分だけが異様な熱を帯びており、そのことをイクセルに気づかれたらどうしようと思うと、今度は全身がひどく熱くなった。
 どこかへ出かけませんかと誘ってくれたのはイクセルだが、百貨店がいいと答えたのはミアネラである。夜会での再会の翌日、伯爵邸から使いがやってきて、イクセルからのメッセージを渡してくれた時、ミアネラは飛び上がらんばかりに喜んだ。実際は使いに応対したのは女中のひとりで、メッセージを最初に読んだのはベルナルトで、ミアネラは最上階の自分の部屋で兄からそれを聞いたのだが。
「上の階に行きましょうか。そのほうがまだ人が少ないはずですから」
 イクセルが再び振り向きながら声をかける。ミアネラの動揺に気づいていないのか、それとも気づいていないふりをしてくれているのか。
「階段まで歩けますか?」
「あ、はい」
「ルースターさんも大丈夫ですか?」
 イクセルはミアネラの頭ごしに、後ろからついてきていたアヴィに声をかけた。
 ベルナルトの言いつけで、兄たちのどちらかかアヴィが一緒でなければ、イクセルと会ってはいけないことになっている。婚約者とはいえ男性とふたりきりで出歩くことは許されないのだ。今日は兄のどちらにも外せない仕事があったため、アヴィが屋敷からついてきてくれた。
 そのアヴィは人ごみの中で足を止め、イクセルににっこり笑いかけた。
「わたしは少し疲れました。この階でお待ちしております」
「え? 大丈夫? アヴィ――」
「どこかで座れるところを見つけますから。お嬢さまたちは上でごゆっくり」
 アヴィはミアネラの声にかぶせるように言い、人々の頭の間から出した手をひらひらと振った。目がミアネラを見つめて心なしか語りかけている。
 心の中でアヴィにありがとうと言い、ミアネラはイクセルについて再び歩きだした。
 階段を上がってたどり着いた二階もそれなりの人出だったが、一階とは違い歩くのが困難なほどではなかった。
「すみません」
 ゆったりと歩けるようになると、イクセルが隣から声をかけてきた。
「あなたの希望も聞かずに上に連れてきてしまって。一階で何か見たいものがあったのではないですか」
「いいえ!」
 人波に揉まれる心配はなくなったのだから、イクセルの腕から手を離すべきか、そればかり考えていたミアネラは、上ずった声を出してしまった。
「あ、ええと、特に見たいものがあったわけではないの。前にもここに来たことがあったから、また行きたいなと思っただけで」
 以前に来た時は兄たちと一緒だった。めったに外出を許してくれないベルナルトが、ミアネラを連れ出してくれた数少ない場所のひとつがこの百貨店だ。
 百貨店は二階建てで、一階が服飾品、二階が雑貨という配置である。ミアネラたちがたどり着いた場所は石鹸の棚の近くで、花の香りがかすかに漂っていた。
「見たいものはないのですか? なんでもつきあいますよ」
「本当にいいの。あの……良くわからないから」
 ミアネラはひとりで買い物をしたことがない。貴族の令嬢ならそれもあたりまえのことだが、自分からこれがほしい、買いに行きたいと思ったこともない。前に来た時はベルナルトが紅茶とジャムとリボンを買ってくれたが、それもミアネラがほしいと言ったからではなく、兄が言い出してミアネラを売場に連れていったのだ。
 自分から百貨店がいいと言ったのに、これではイクセルに申し訳がない。でも公園を歩くには天気が良くないし、乗馬場は季節はずれだ。昼間に行ける場所と言ったらここくらいしか思いつかなかった。
「では、ひととおり見てまわりましょうか」
 イクセルは気を悪くした様子もなく、ミアネラを見つめて穏やかに言った。
「見ているうちに、何かほしいものが見つかるかもしれません」
 ミアネラはうなずき、イクセルの腕にかけた手に少しだけ力を込めた。
 一年ぶりに訪れた百貨店の二階は、以前に来た時とはずいぶんと様変わりしていた。緑で統一された内装の中に、ところどころ季節の生花があしらわれ、清涼な香りを漂わせている。新しくできた売場もいくつかあるようだ。
 陶器の売場では絵つけされた美しい茶道具の他、小鳥や子どもの姿をした愛らしい陶製人形が並んでいる。文房具の売場では店員が客に万年筆のケースを指し示し、その隣では女性客が熱心に便箋を選んでいる。
「ミアネラ嬢のお好きなものは何ですか」
 ガラス細工の置物を横目で見つめていると、イクセルの声が上からふってきた。
「――好きなもの?」
「お屋敷では、いつもどんなことをして過ごしているのですか」
 イクセルの黒い目に見入りながら、ミアネラはちょっと考えてみた。屋敷といっても、ミアネラの住まいは最上階にある自分の部屋がすべてだ。いつも、そこでどんなことをしているのかと言えば――
「お茶を飲んで、アヴィの授業を受けて、あとは……」
「はい」
「本を読んだり、絵を描いたり……」
 本は、イクセルに初めて会った時に読んだような絵本と、それに定期刊行物の雑誌、兄が選んでくれた何冊かの通俗小説だ。絵本はどれも暗記するほど読み返したので、ときどきその絵を自分で真似て描いてみたりしている。
 絵は子どものころから使い続けているスケッチブックに描いている。残り少なくなると必ず兄が買ってきてくれるのだ。
 どれも子どもっぽい、年ごろの令嬢らしからぬ趣味だと思う。イクセルにそう思われるのが怖くて、詳しく話すことができなかった。
 しかし、ここで口を閉ざしてしまっては、せっかくの会話が続かない。
「あとは……劇場とか」
「観劇がお好きですか」
「いいえ、本当の劇場には行ったことがないの。家で、あの……子どものおもちゃなのだけど」
 要領を得ない説明だったにもかかわらず、イクセルはああ、と声を上げた。
「ああいうものですね」
 伸ばされた指の先をミアネラも見つめる。
 ちょうど前のほうに玩具売場があり、小さな子どもたちと、その手を引く親や使用人が集まっていた。中でもいちばん客を惹きつけていたのは、役者の人形たちが並ぶ箱型の劇場――ミアネラが言いたかったものだ。
「見に行ってみますか?」
 イクセルに尋ねられ、ミアネラは小さくうなずいた。
 おもちゃの劇場が小さな客たちを寄せ集めていたのは、それが売場での実演の最中だったからのようだ。店員なのか外部の人間なのかはわからないが、道化めいた扮装をした男女が劇場を挟み、人形を手で動かしながらいくつかの声色を使って芝居を再現していた。
 演目は、ミアネラも知っている、子どもたちに人気のあるおとぎ話だ。お城を追い出されたお姫さまが諸国をさまよい歩き、さまざまな困難の果てに隣国の王さまと結ばれる物語。
 演者のふたりが声をそろえて、めでたし、めでたし、と締めくくると、大人に促された子どもたちが拙い拍手を送った。ミアネラも気がつくと手を叩いていた。
「こういうものがお好きだったのですね」
 かけられた声に顔を上げると、イクセルも同じく手を叩きながらミアネラを見下ろして微笑んでいた。
 馬鹿にしたり軽蔑したりするような様子はいっさいなかった。けれどミアネラは気恥ずかしくなり、頬を熱くしてイクセルから目をそらしてしまった。子どもっぽい娘だと思われてしまっただろうか。
「あちらには、人形だけで売っているものもあるようですよ。見に行きませんか? 気に入ったものがあれば贈りますよ」
 イクセルの言葉に導かれて目をやると、売場の奥には何種類もの人形がところ狭しと並べれていた。
 おもちゃの劇場で使う人形には、紙でできたもの、布を縫って作ったもの、木製のものとさまざまにある。ミアネラの持っているものは木製だが、売場の棚には同じ素材のものもたくさんある。あのうちのいくつかを自分の劇場に加えることができたら、さぞ賑やかになるだろう。
 そこまで考えて、ミアネラは我に返った。
「あ、違うの」
「何がですか」
「そんなつもりじゃなかったの。百貨店に来たかったのは……」
 この場所に来たいと言い出したのは自分だ。婚約者に外出に誘われ、百貨店に行きたいと答えたら、それは贈り物をせがんでいるように思われても仕方がない。
「ぼくもそんなふうには思っていませんよ」
 イクセルが穏やかに言い、ミアネラはようやく彼とまともに目をあわせた。
「この場で思いついただけです。人形でなくても何か贈らせていただけませんか? 記念になりますし」
「本当にいいの。見ているだけで」
「いいのですか?」
「ええ。ありがとう」
 必死で言うと、イクセルの笑みがわずかに深まった。
「お若いのに、しっかりしていらっしゃるんですね」
「え?」
 そんなことを言われたのは初めてだった。兄たちや使用人たちに、それに稀に会う親戚や両親の知人には、可愛らしい、行儀がいいといつも言われていた。しっかりしているという褒め言葉は、ミアネラが初めて聞くものだった。
「そんなこと……ないと思うわ」
 ミアネラの戸惑いを謙遜と受け取ったのか、イクセルは穏やかに微笑んだまま話を変えた。
「お屋敷にあるあなたの劇場は、どのようなものなのですか」
「ええと、人形は木でできていて……舞台の大きさは……あれくらいの」
 売場に並んでいた劇場の中で、いちばん大きなものをミアネラは指さした。
「お人形は全部で十三体あるの。男の人が六体、女の人が五体、それに馬が二体」
「それだけ揃っていれば、たいていの劇は上演できそうですね」
「そうなの」
 ミアネラは思わず顔をほころばせた。
 おもちゃの劇場は絵本やスケッチブックと同じく、兄が買い与えてくれたものだ。それでも自分はそれが気に入っていたのだと、イクセルと話しながら初めて気がついた。
「わたし、声のお芝居は上手いのよ。一度なんて入ってきた女中がびっくりして、部屋に知らない人がいると思ったなんて言って」
「そうですか。どんな演目を演じられるのですか?」
「民話とか、歌劇のお話を戯曲にしたものとか。雑誌に台本が載っているの」
「それは知らなかったです」
「もとのお話も読んでみたいと思うのだけど、それはお兄さまがだめって言うの。本物の劇場で演じているのを見られたら一番なのだけど」
「それなら、今度ご一緒に観に行きませんか」
 行きたい、嬉しい、と即答しかけたミアネラは、火が消えるように口をつぐんだ。
「大丈夫です。あなたにせがまれたとは思っていません」
 イクセルが苦笑し、やや声を低めて続ける。
「それに、そうしてくださっても構わないのですよ」
 どこかへ行きたいとせがんでもいい。何かがほしいとねだってもいい。
 自分とイクセルは婚約者であり、いずれは夫婦になるのだから。
 ミアネラは上気した頬を鎮めるように、深くうなずいた。
「ありがとう。ぜひ劇場に連れていって」
 玩具売場を離れると、ふたりは引き続き二階を見てまわった。けれど観劇の約束で浮き立ったミアネラの目には、他の商品はほとんど入ってこなかった。
「イクセルさまは何が好きなの? 今度はあなたの好きなものを見に行きましょう」
 ミアネラは首を上に向けて、イクセルに尋ねた。
 イクセルが好きなのはたぶん本だと思うが、百貨店の別棟にある食料品売場の一角では、確か貸本を行っていたはずだ。
 しかし、イクセルはにこりと笑って、こう答えた。
「ぼくはいいのです。それより、他に行きたい場所はありませんか? 百貨店の外でもいいですよ」

 日が西に傾いてきた時刻、ミアネラはアヴィとともに公爵家の馬車に乗り込んだ。百貨店に着いたのは午後の早い時間だったので、かれこれ二時間以上はいたことになる。
 馬車に揺られるミアネラの手には、白と黄の花をあわせた小さなブーケがあった。百貨店を出る前に、入口近くにあった生花店で、イクセルが買ってくれたのだ。
 婚約者からもらった初めての贈り物。愛らしいそれを眺めていても、ミアネラの心はどこか沈んでいた。
「アヴィ」
 花から視線を上げ、向かいにいる家庭教師に言葉をかける。
「恋をしたことはある?」
「――『学者さん』と何かあったんですか?」
 ほとんど間を空けずに、アヴィは尋ねた。
「あったというか――何もないんだけど――何もないことがむしろ――」
 要領の得ない説明を試みかけて、ミアネラはふと我に返る。
「もう、質問しているのはこっちよ。ちゃんと答えて」
「はいはい、ありますよ。もっとも経験豊富というわけではありませんから、お嬢さまのご相談に乗れるかはわかりませんけどね。それで、何があったんです? それともなかったんです?」
 ミアネラは一瞬だけ自分の悩みを忘れ、アヴィの顔に見入った。
 自分から尋ねたことではあったが、アヴィに恋愛の経験があるのかないのか、これまでに考えてみたことすらなかった。アヴィは二十歳だが、地方に領地のある歴史の浅い子爵家の出身である。父親を早くに亡くし、男兄弟がいなかったため、働きに出る必要があったのだと聞いている。ミアネラのもとにやってきたのは三年前だから、彼女が十七歳の時だ。それよりも若い時に恋をする機会があったのだろうか。
「だから――何もないことが問題なの」
 アヴィの過去はさておき、ミアネラはひとまず自分の悩みを聞いてもらうことにした。
「『学者さん』は、お嬢さまにたいそうお優しいと思っていたのですけど」
「そうなの、優しいの。どこにいたってわたしを気遣ってくれるし、わたしの話をよく聞いてくれるし、贈り物もしてくれたわ。今度は一緒に劇場に行く約束もしたの」
「ただのお惚気じゃないですか」
「違うわ。だから、わたしには本当に良くしてくれるのだけど――自分のことは何も話してくれないの」
 思えば初めて会った時から、イクセルはミアネラの話を熱心に聞いてくれたが、自分からは何かを話そうとしなかった。先日の夜会でもそうだった。
 ミアネラが夢中になって自分のことばかり話していたから、イクセルの話を聞く暇がなかっただけだと思っていた。
 ところが今日、ミアネラが何度イクセルのことを尋ねても、短い答えが返ってくるだけで、そこから会話が深まることはなかった。
 イクセルは常に優しくて穏やかで、拒絶されているという雰囲気ではなかった。けれど気を向けて話を聞こうとすればするほど、イクセルはやんわりと話題をそらし、ミアネラの話に戻してしまうのだった。
「そういう方もいますよ。性格の問題です」
「性格?」
「自分のことを話すのが好きな人ばかりではないんです。『学者さん』は、お嬢さまにだけではなく、誰に対してもそうなのではないですか?」
「……そうかしら」
 仮にそうだとしても、自分には話してほしい。自分とイクセルは近い将来、夫婦になるのだから。
「きっと、お仕事やご実家のことを話して、お嬢さまに心配をかけたくないと思っていらっしゃるんですよ」
 アヴィにしてはためらいがちに、言葉を選ぶように言った。
「みんなに大切にされているお姫さまですから」
 アヴィだけではなくベルナルトも、ミアネラをときどき姫と呼ぶ。
 可愛いお姫さま。大切なお姫さま。籠に入れられて厳重に守られ、外の冷たい空気に触れることなく、あたたかい場所で美しいものだけを目にして生きていく。やがて別の籠に移される日が来たとしても、それは変わらない。
 ベルナルトもアヴィも、ミアネラのことを想ってそうしてくれているのだ。そしておそらく、イクセルも。
 そのことを不満に思う自分は、贅沢なのだろうか。何不自由なく育った令嬢だから言えるわがままなのだろうか。
 婚約者が贈ってくれた愛らしい花たちを見下ろし、ミアネラは小さくため息をついた。


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