末姫と学者 [ 2 ]
末姫と学者

第2話 幸運の量
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「お嬢さま、どうかされたのですか?」
 真横から聞こえてきた声に、ミアネラは小さく肩を震わせた。
 はじめて招かれた茶会を抜け出して、知らない屋敷を歩きまわるうちに迷い、開いていた扉を見つけて図書室に入ったのはいいが、誰もいないのかとあきらめかけたところだったのだ。
「あ、あの……ごめんなさい、お邪魔して」
 うろたえながら答えるミアネラに、相手は目を細めて微笑んだ。
 二十歳前後の青年だった。図書室の椅子に腰かけて本を読んでいたようだったが、ミアネラに声をかけたのと同時に立ち上がっていた。身なりは良さそうで、姿勢はまっすぐ伸び、夜の空のような黒い髪はきちんと整えられていた。
「構いません。どこかの部屋をお探しですか? 教えていただければご案内しますが」
 道に迷った不安と、初対面の男性を前にした緊張が、ふたつ同時に消えていった。この人はたぶん、招待客の誰かについてきた従者だろう。ならばきっと、ミアネラを元いた場所に連れ戻してくれる。
 そう思った瞬間、ミアネラは気がついた。いつでも戻れるなら、いま戻らなくても別に構わないのだ。
「あの、しばらくここにいてもいいですか?」
 気がつくと、そう口に出していた。
 青年は少し視線を動かしたが、その顔から微笑が消えることはなかった。
「戻らなくてもいいのですか?」
「お茶会に呼ばれていたのですけれど、お話にあまりついていけなくて。ひとりになりたかったのです」
「でしたら、ぼくも出ていきましょう」
 手にしていた本を書架に戻そうとする青年を、ミアネラは慌てて止めた。
「待って。そんなつもりではなかったの」
 見まわしてみたところ、図書室にはこの青年とミアネラの他に人影はなかった。ここで本を読んでいた彼こそが、一時でも主人から離れ、ひとりになれる時間を楽しんでいたのだろう。
「あなたはここにいて。わたしもここで、好きにさせてもらうから。それで気が済んで戻りたくなったら、お茶会の部屋まで送ってくださる?」
 一瞬でも人見知りしたことが嘘のように、ミアネラはすらすらと言った。
 使用人と呼ばれる階層の人たちと話すのは慣れている。王都にある公爵家の屋敷では、使用人の部屋と子ども部屋は同じ最上階にあるのだ。ミアネラにとっては家族よりも彼らと過ごす時間のほうがずっと長い。女中たちも、料理人も御者も、兄たちの従者も、みんなミアネラを可愛がってくれていた。
「ありがとうございます、お嬢さま」
 青年が微笑んだまま言った。
 彼がこのうえ遠慮しなかったことに、ミアネラは心からほっとした。
「どうぞ座っていて。わたしも本を見せていただくから」
 ミアネラは立ち並ぶ書架を見上げ、ゆっくりとそちらに歩み寄った。
 避暑地にある屋敷の図書室というのは、招待客を入れることを想定しているのだろうか。分厚い皮表紙の宗教書や古典ばかりではなく、通俗小説や雑誌も取り揃えられている。ミアネラはとりたてて読書好きというわけではないが、ここでならそれなりに時間を潰せそうだ。
 壁際の書架の高い位置に、大型の絵本が表紙を向けて飾ってあるのを見つけ、ミアネラはその下に立った。床に立ったままでは手を伸ばしてもあれには届かないだろう。左右を見て、踏み台か梯子がないか探していると、背後から声がかかった。
「お取りしましょうか?」
 振り向くと、離れた椅子に座っていたはずの青年が、ミアネラのすぐ後ろに立っていた。
 ミアネラは自分の体が火照り、視線がさまようのを感じた。邪魔はしたくないと思っていたのに、結局こうして手を煩わせてしまっている。
「ごめんなさい。あの、いちばん上にある絵本を」
「左側の大型のものでいいですか」
「ええ」
 青年はすっと腕を伸ばし、ミアネラが指し示した絵本を手に取った。この時まで意識していなかったが、彼は男性の中でも背の高いほうだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
「絵本がお好きなのですか」
 青年にとっては、本を手渡すついでに口にした、ごくさりげない社交辞令だったのだろう。
 しかし、それを耳にしたミアネラは一瞬、考え込んでしまった。
「好きというか、あの……他に読めそうなものがなかったから」
 王都にあった屋敷では、ベルナルトが買ってきてくれたものを読んでいる。定期的に刊行される少女雑誌と、数冊の通俗小説だ。それらは軽薄で品がなく、人前で読むものではないと教えられている。だから他人がいるこの場所では、幼いころに親しんでいた絵本に目が行ったのだ。
 ミアネラは顔の半分を絵本で隠すようにして、うつむいた。部屋に入ってきた時に青年が読んでいたのは、ミアネラが手を触れたこともない学術書だった。十六にもなって図書室で絵本を選ぶ少女のことは、さぞかし幼稚に見えていることだろう。
「この画家はぼくも好きですよ。お嬢さまは良い趣味をお持ちですね」
 青年はそう言い残し、再びミアネラから去ろうとした。
「待って」
 ミアネラはその背中に向かって叫んだ。そうしてから、自分の行動に驚いてまごついたが、そのまま口を閉ざすことはできなかった。
「他にも何か?」
「あの……あの、あなたの隣に座ってもいい?」
 青年が座っていたのは、図書室の扉にいちばん近い長椅子だった。詰めれば四人の大人が楽に座れる大きさである。
「構いませんよ。では、ぼくはこちらの椅子に移りますので」
「そうじゃなくて! だから、あの……一緒に本を読みたいの」
 従者とはいえ初対面の男性にそんなことを言い出す自分が信じられなかった。ただ、この人の側で絵本を開けば、自分の部屋で読むよりもずっと心地よいような気がしたのだ。
 それに、礼儀に外れる行動とは言えない。図書室の扉は半開きになったままだし、何よりこの青年は距離感をわきまえていそうである。
 何度かぎこちない言葉を繰り返した後、ミアネラは長椅子の端と端に、その青年と並んで腰を下ろした。
 座ってからは自分から口を開く勇気が出なかったが、たぶん話しかけてほしい雰囲気が出ていたのだろう。青年のほうからたびたびミアネラに声をかけてくれ、ふたりで短い言葉を何度か交わした。
 たたずまいや物腰から想像したとおり、青年は聞き上手だった。絵本の話にはじまり、避暑地でこれまで経験したこと、一緒に茶会に来た叔母のこと、両親や兄たちのこと、しまいには姉が病気で臥せっていることまで、気がつくとミアネラは話していた。
「姉君が早く良くなられるといいですね」
「ありがとう。来年の避暑の季節には、姉と一緒にここに来たいわ」
 その三週間後、姉が息を引きとったという報せが届き、ミアネラは避暑地を去った。
 一年後の同じ時季は王都で過ごし、再びその屋敷を訪れることも、青年に会うこともなかった。

 たったのこれだけである。
 避暑地にいる間にアヴィにだけ打ち明けたが、彼女は目を丸くして返答に困っていた。アヴィにとってはとりたてて珍しくもない、経験とも呼べないような経験だったのだろう。
 それでも、ミアネラはこの時のことを忘れることができなかった。ひとりで他人の屋敷をさまよい歩き、見知らぬ男性とふたりだけで話したから、ではない。
 あの青年と一緒にいる間、ミアネラははじめて、自分のことをすらすらと話すことができたのだ。
 もう二度と会うことはないと思っていた。
 会えたとしても、使用人である彼とはそれ以上親しくなるどころか、あの時のようにゆっくり話すことも難しいだろうと思っていた。
 その青年が二年後の今、夜会の会場でミアネラの目の前に立ち、あの時は聞けなかった名前を名乗っている。
 ミアネラの婚約者として。
「イクセル・デュオニスです。こんばんは、ミアネラ嬢」
 二年前と同じように、イクセルは穏やかに微笑んでいた。
 ミアネラは挨拶を返すことも忘れて、彼の瞳の奥に見入った。ミアネラを覚えていて、あえて知らないふうを装っているのか、それとも完全に忘れているのか、見分けることはできなかった。
「どうしたんだ、ミアネラ。礼儀を忘れているぞ」
 背後にいる兄の手が、ミアネラの肩に優しく触れた。その感触にミアネラは正気に戻り、慌てていずまいを正した。
「ミアネラ・グランフェルトです。お見知りおきを……イクセルさま」
 その名前を口にした瞬間、夜会のために飾られた広間、たくさんの紳士淑女、その間を行き交う給仕と、彼らが運ぶ飲み物のグラス、そういったすべてものに色がつき、音がつき、急に動きはじめたようにミアネラは感じた。それまで見ていた同じ風景が、白黒の静止画に過ぎなかったかのように。
 イクセルだ。彼の名前はイクセルというのだ。
「ミアネラ? 気分が悪い?」
 次兄カレルが背をかがめて、ミアネラの耳もとで訊いた。自分で思うより長い時間、無言でぼんやり立ち尽くしていたらしい。ミアネラは小さく振り返り、首を振ってみせるのがやっとだった。
「すみません。妹は内気なたちで、家族でも親戚でもない方と話すのは、ほとんどはじめてなものですから」
 ベルナルトが笑って伯爵夫妻に話している。
「うちの愚息こそ、気の利かないことで」
 伯爵もそう言い、ベルナルトと目をあわせて笑っている。
 伯爵夫人が彼らにつきあって笑い、ついでミアネラの顔を覗きこんだ。
「緊張しないでくださいね、ミアネラお嬢さま。これからわたしたちは家族になるのだから」
「あ……はい」
「そうは言っても、こう大勢に取り囲まれては、固くなってしまうのも無理はないわ。どうかしら、旦那さま、しばらくイクセルだけでお嬢さまのお相手をさせては」
 ミアネラは将来の義母に抱きつきたくなった。いつふたりきりにさせてもらえるのだろう、と気が気ではなかったのだ。
 ベルナルトと伯爵が、そうですね、ええごもっとも、と笑みを貼りつけたまま言いあい、カレルはミアネラに気がかりな視線を残し、やがて彼らはミアネラの側を離れていった。
 ただひとりを除いて。
「大丈夫ですか?」
 イクセルは最初にそう言った。彼もミアネラが緊張していると思ったのだろうか。
「はい、大丈夫です」
 ミアネラは素直に答え、イクセルを見上げた。優しげな視線と目がぶつかり、それきり何も言えなくなる。
「座りますか?」
「はい……あ、いえ、あの」
 促されて歩き出そうとして、ミアネラは足を止めた。
「どうかされましたか?」
 イクセルは振り返る姿勢で、怪訝そうにミアネラを見下ろしている。
 ミアネラはその瞳を見上げ、言葉が出てこなかった。この人はミアネラを覚えていないのだろうか。このまま初対面の縁談の相手として、礼儀正しく白々しい会話をするつもりだろうか。
 縋るような視線を送り続けていると、イクセルの顔がふと緩んだ。それまでの改まった表情とも、二年前の優しげな表情とも違う、ミアネラがはじめて見る笑顔が浮かぶ。
 その顔がゆっくりと自分に近づいてきたので、ミアネラは心臓が爆発するかと思った。
「覚えていますよ、お嬢さま。その話は人の耳に入らないところでしましょう」
 頬の横でイクセルの声が響くのを感じながら、ミアネラは熱心にうなずいた。

「あの時は名乗りもせず、失礼しました」
 ミアネラのいる椅子の傍らで、イクセルはそう言った。夜会場にいる多くの紳士と同じように、彼もミアネラだけを座らせて自分は立ったまま話している。
「それを言うなら、わたしだって――でも、従者さんじゃなかったのね」
 失礼だっただろうかと、言ってしまってから気がついた。
 正装して夜会場に立っているイクセルは、どこからどう見ても貴族の令息にしか見えないのだが、二年前に避暑地で会った時と外見がそう違うわけでもなかった。上級使用人である従者は身なりがきちんとしているので、一見すれば主人である貴族たちと変わらないのだ。
「あのお茶会を開いたご婦人は、ぼくの母の古い友人なんです。ぼくも母に言われて一緒に訪問していました」
「それなのに、どうしてひとりで図書室にいたの?」
「どこかのご令嬢と同じ理由から、ですよ」
 ミアネラは思わず声を立てて笑った。あの図書室で会った時よりも、イクセルは明るくて言葉を惜しまない。お互いの名前と身分が知れて、親しくなるのに支障がない、むしろ親しくするべき相手だと判明したからだろうか。
「飲み物はいかがですか、お嬢さま」
 それでいて、ミアネラに対しては従者のように紳士的で優しい。
「いただくわ。ねえ、あなたは、わたしがわたしだといつ知ったの?」
 給仕が差し出したグラスをイクセルの手を経て受け取りながら、ミアネラは尋ねた。おかしな質問になってしまったが、イクセルにはじゅうぶん意味が通じたようだった。
「ついさっきですよ」
「ほんと? それにしては驚いているように見えなかったわ」
「本当です。これでも驚いていたんですよ」
 では、イクセルも同じだったのか。親が――ミアネラの場合は兄だが――選んだ、顔も知らない相手と婚約することになり、会って顔を見てはじめて、それが二年間に避暑地で会った相手だと知ったのか。
「姉君は亡くなられたのでしたね。お悔やみを申し上げます」
 イクセルは急に真顔になって言った。
 以前に会った時、姉が療養中だと話したことを、覚えていてくれたのだ。
「ありがとう。二年も前のことだから、お気遣いなく」
 姉のアミーリアのことを考えると、今でも寂しさと後悔に襲われる。いつかイクセルにそのことを話したいと思ったが、今はまだその時ではなかった。
「あなたには、ご兄弟はいらっしゃるの?」
 伯爵家のことはベルナルトから何度も聞かされていたが、伯爵夫妻の他の子どもの話は聞いていなかった。
「弟がひとり。今年で十七になります」
「わたしとひとつ違いだわ。今は学校? あなたと似ている?」
 それからは、最初の気まずさが嘘のように、次から次へと話が弾んだ。
 イクセルはミアネラの質問にも丁寧に答えてくれたが、やはり人の話を聞くほうが得意ならしく、ミアネラから次々に話題を引き出した。
 避暑地で別れた日からの二年間のことを話し、婚約が決まってからのことを話し、気がつくとミアネラはこんなことまで口走っていた。
「あなたと結婚できるなんて、夢みたい。わたし、ずっとそうなれたら素敵なのにって思っていたの」
 自分で思うより大きな声だったらしく、近くにいた数組の男女がぎょっと振り返った。
 それに気がつくと、ミアネラの頬は火のようになった。
 こわごわとイクセルを見上げると、彼ははじめて会った時と同じ目で、優しくミアネラを見つめていた。

 深夜になると、招かれていた招待客たちが少しずつ帰宅を始める。
 ミアネラも兄たちに促され、イクセルに別れを告げ、伯爵夫妻にも改めて挨拶して、夜会場を後にした。
 会場となった邸宅からミアネラの暮らす屋敷までは、馬車で十五分ほどだ。その間ミアネラは、窓から景色を眺めるふりをしながら、気がつくと笑みを浮かべていた。
「大丈夫か、ミアネラ」
 向かいに座っているカレルが半分は心配そうに、もう半分は不気味そうに訊いてくる。
「機嫌がいいな。伯爵令息のことを、そんなに気に入ったのか?」
 カレルの隣でベルナルトも尋ねる。兄もミアネラに負けず劣らず機嫌がいいようだ。
「気に入ったも何も……」
 ミアネラはふたりの兄の顔を見て、思わず微笑んだ。
 兄たちの言うことはいつだって正しい。いつだって、ミアネラのために最良の選択をしてくれる。
 しかし、今日ほど手放しに感謝したくなったのは、はじめてだった。
「わたしは幸せだわ。お兄さま、ありがとう。ありがとう!」
 一生のうちで与えられる幸運の量が決まっているのなら、自分はそのほとんどを、今夜で使い果たしてしまったに違いない。


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