末姫と学者 [ 1 ]
末姫と学者

第1話 最上階の部屋
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 朝食を終えたミアネラが部屋でお茶を飲んでいると、階段の扉が開く音が聞こえてきた。
 食器を下げに来た厨房女中かと思ったが、すぐに違うとわかった。階段を上がる足音が重々しく、それでいて速い。しかもどうやらひとりではないようだ。
 部屋の扉を開いて現れたのは、ふたりの兄だった。
「おはよう、ミアネラ」
「おはよう。ベルナルトお兄さま、カレルお兄さま」
 兄たちがかわるがわるやってきて、ミアネラの頬にキスを落とす。
 身支度を整えた兄たちは、こざっぱりとして様子が良かった。特に長兄ベルナルトはすらりとした身をスーツに包み、鳶色の髪を横に流して整え、立っているだけで人の目を惹きつけてしまう。見慣れている妹のミアネラの目でさえも。
「順調か?」
 ベルナルトはミアネラではなく、テーブルを挟んで向かいにいるもうひとりの女性、家庭教師のアヴィ・ル―スターに尋ねた。
 ひらひらしたピンク色の子ども服を着たミアネラと違い、簡素な灰色のドレスを着込んだアヴィは、椅子から立ち上がったままうなずいた。
「もうお教えすることはございません。お嬢さまのお食事の作法はもとからほとんど完璧でしたから」
「そうだろう。幼いころからしっかり仕込んできたからな」
 ミアネラは首をひねって兄を見上げた。
「お兄さまたち、今朝はどうなさったの。何かご用でもおありになるの?」
 兄たちはミアネラとは違い、一階の食堂で食事をとるのが習慣だ。朝も最上階にあるミアネラの部屋には寄らず、そのまま連れだって仕事に出かけていく。この王都でもっとも多く大型の建物が並ぶ区域、議会場を中心にした官公庁街に。
 ミアネラは三食とも自分の部屋でアヴィとともにする。兄たちと顔をあわせるのは夕食の後と決まっている。その時間が来るとミアネラは女中たちに身なりを整えられ、舞台にでも出ていくように兄たちの前でお辞儀をするのだ。ミアネラの両親は外国に赴任しているので、王都にあるこの屋敷の主はベルナルトである。
 そういえば、昨日ミアネラが一階に下りた時、食堂にベルナルトの姿はなかった。次兄カレルに尋ねても、言葉を濁すばかりでそれらしい理由さえ教えてくれなかった。カレルは姿こそベルナルトに似ているが、口数が少なく目立たない性格だ。
「昨日のうちにおまえに知らせたかったんだが、帰りが遅くなってしまってね。今日いちばんに伝えようと思った」
 ベルナルトはにこやかに言った。王都の社交界でも多くの令嬢とその母親の心を惹きつけている、端正な上に人好きのする笑みだった。
「おまえのはじめての夜会が決まったよ、ミアネラ」
「まあ」
 ミアネラは胸に手をあてて声を出した。
 兄たちが現れた時から予想できていたことではあったが、いざ耳にするとやはり緊張してしまう。
「では、いよいよお会いになるのですね」
 言葉が出ないミアネラにかわって、テーブルの向こうでアヴィが言った。ベルナルトがうなずく。
「デュオニス伯爵家の嫡男、イクセル・デュオニスをおまえに引きあわせる。心の準備はできているか、ミアネラ」
「わからないわ」
 ミアネラは胸を押さえたまま言った。手をあてた部分が高鳴っているのがわかる。
 ミアネラはこの国でも一、二位を争う大貴族、グランフェルト公爵家の、今は唯一の令嬢だ。そのミアネラが十八歳ではじめての夜会に出て、親の――正確には兄だが――計らいで、貴族の令息に紹介される。これがどういうことなのかは、世間知らずのミアネラにもわかっていた。
「デュオニス伯爵は、この国の中枢を担う貴族のひとり――国と王家のために献身的に働いている方だ。その嫡男は当然、父親の仕事を引き継ぐだろう。彼と一緒になれば、おまえはいつまでもこの王都で、わたしたちと一緒にいられるんだ」
 ミアネラはにっこり笑って立ち上がった。そして、兄の背に腕をまわして抱きついた。
「ありがとう、お兄さま。わたしのために考えてくださって」
「会ってみて気に入らなければ、断ってもいいぞ。同じ条件の令息は他にもいるからな」
「そんなことにはならないわ、きっと」
 イクセル・デュオニスがどんな青年なのかは知らないが、ひどく退屈だったり、愚かだったり、醜かったり乱暴だったりすることはないと思う。ベルナルトがミアネラのために選んでくれた相手なのだから。
「そのとおりだ。おまえは何も心配しなくていいよ、ミアネラ」
 ベルナルトはミアネラの顔を覗きこむと、優しく笑った。
「おまえはわたしたちの大切な姫だ」
 ふたりの兄はまたかわるがわるミアネラにキスをして、名残惜しそうに部屋から出ていった。
 最上階である四階と三階をつなぐ階段には、いちばん下の部分に扉が備えられている。大きくて、重たくて、ミアネラがひとりでは開け閉めできないような扉だ。
 その扉が開かれ、再び閉まる音を、ミアネラは自分の部屋で聞いていた。

「おめでとうございます、お嬢さま」
 兄たちの足音が消えてしばらくすると、アヴィが口を開いた。すでに椅子に腰を下ろし、飲みかけの紅茶に手を伸ばしている。
「ありがとう、アヴィ」
 ミアネラはアヴィを先生とは呼ばない。二十歳という若さの彼女は、教師と言うより親しい女中のような存在だ。
「なんだかお元気がないようですね。ご婚約が決まったというのに」
「……そんなことはないわ」
 ミアネラは言い、自分も紅茶を口に運んだ。すっかり冷めてしまっていた。
「新聞に、デュオニス伯爵のことが載っていますよ」
 アヴィはテーブルクロスの下から新聞紙を取り上げ、ミアネラの目の前で開いた。
「伯爵が中心になってまとめた法案が、下院議会で可決されたそうです。若君さまが仰っていたとおり、この国を背負って立つ方なのですね、お嬢さまの未来のお義父さまは」
「アヴィ、またこの部屋に新聞を持ってきたの? お兄さまに叱られるわよ」
 ベルナルトは妹の目に新聞を触れさせるのを好まない。ドレスの見本や通俗小説が載っている少女雑誌や、社交界の話題を主に扱うゴシップ紙なら許してくれるが、アヴィが手にしているのは政治経済について論じる、王都でもっとも堅い高級紙のたぐいだ。
「そうは言ってもお嬢さまだって、婚約者のことはお知りになりたいでしょう?」
「……いいえ」
 イクセル・デュオニスのことは半年ほど前から、兄たちに少しずつ聞かされていた。
 ミアネラより四つ年上の二十二歳で、次兄カレルと同い年。この国でもっとも伝統のある大学を首席で卒業したばかり。デュオニス伯爵家は国の北西部に広大な領地を有しているが、伯爵はその経営を差配人に任せ、自身は議会での仕事に専念している。
 伯爵家の事情ばかりで、イクセルの人となりについては何も知らされなかったも同然だが、ミアネラも進んで兄たちに質問しようとはしなかった。
 ミアネラは席を立ち、部屋の隅に置かれている箱型のものに歩み寄った。
 ミアネラの腕で抱えられる大きさの、劇場の模型である。本物の舞台と同じように上げ下げできる幕がついており、役に扮した人形たちがその中に並んでいる。国王、貴婦人、道化、たくさんの騎士たち。
 芝居を再現して遊ぶための玩具であり、婚約を控えた十八歳の娘が楽しむようなものではないが、ミアネラは兄が三年前に買ってくれて以来、これが好きだった。今でも時間ができると人形を動かしてみたりする。
 おもちゃの劇場の中に広がっているのは、華やかな宮廷の世界だ。もうじきミアネラが出ていく社交界という場所も、これと似ているのだろうか。
「お嬢さま」
 いつの間にかアヴィが隣に来て、一緒に小さな劇場を覗きこんでいた。首を動かして目をやると、その顔は楽しそうにほほえんでいる。
「なあに? アヴィ」
「わたしには打ち明けてくださいな。本当は、婚約なさりたくないのでしょう?」
 ミアネラは逃げるように目をそらした。
 しかし、舞台に並ぶ小さな役者たちは、アヴィと違って何も言ってくれない。
「……お兄さまたちも、気づいたかしら」
「そんなわけないでしょう。気づいていたら、若君さまはあんなにご機嫌ではいられませんよ」
 そのとおりである。ミアネラは小さく息をついた。
 自分がいま考えていることは、兄たちに、とりわけベルナルトには知られてはいけない。
「好きな人がいるの」
 ミアネラは短く声に出した。婚約の話がまとまりはじめてから、ずっと胸にしまい込んでいたことを。
「そうではないかと思っていました」
 アヴィの声に、ミアネラはすばやく顔を上げた。
「そうなの?」
「お相手はあの方でしょう。二年前にお会いした、『学者さん』」
 アヴィのにこにこした顔を見て、ミアネラはさすがに頬を熱くした。
 二年前の夏、ミアネラは叔母に連れられて、海沿いの避暑地で数週間を過ごした。
 ミアネラに遠出をさせないベルナルトが、この時ばかりは許したのには理由があった。グランフェルト公爵家の長女、ミアネラの姉であったアミーリアが、重病に罹ったのだ。姉は療養のために領地の館のひとつに移され、兄妹四人が暮らしていた王都の屋敷は売られることになった。今ミアネラがいるこの屋敷は、それから新たに購入されたものだ。
 避暑地では訪れていた貴族たちが互いを招きあい、毎日のように舞踏会や晩餐会が開かれていた。ミアネラはそういった深夜の行事には出られなかったが、昼間の茶会や演奏会には叔母が連れていってくれることもあった。
 そうした場所で話題の中心となるのは、だれそれの令嬢がだれそれの令息と婚約しただとか、どこそこの新興貴族が地方に大きな館を買っただとか、要するに大半が社交界の噂ばなしで、すぐに飽きたミアネラは叔母の目を盗んで席を立った。
 はじめて訪れたその館は、ミアネラが生まれた屋敷よりずっと小さかったが、部屋数は少なくなかった。同じ階の端から端を歩いて戻るつもりだったが、角をいくつか曲がるうちにどこまで来たのかわからなくなってしまった。
 困り果てた時、扉のひとつが半開きになっているのに気づき、ミアネラはそこへ走り寄った。この中に人がいれば、誰であろうと戻り道を教えてくれるだろうと思ったのだ。
 その部屋は図書室だった。扉を開けても見えるのは背表紙が並んだ書架ばかりで、人は誰もいないのかとがっかりしかけた時だった。
『お嬢さま、どうかされたのですか?』
 扉の横から声をかけられて、ミアネラはそちらを向いた。
 壁際に置かれた長椅子に、二十歳くらいの青年が座っていた。短い黒髪をきれいに整え、上質な上着に身を包んでいた。
『あ、あの……ごめんなさい、お邪魔して』
 ミアネラはしどろもどろに返した。自分が人見知りをするとは思っていなかったが、そもそも兄たちを抜きに誰かと話したことはほとんどなく、まして若い男性を相手にすることなどはじめてだったのだ。
 青年は黒い目を細めて微笑んだ。物静かなその表情といい、大きな本を両手に広げた佇まいといい、まるで浮き世ばなれした学者のような雰囲気だった。
「その方が誰なのかは、結局おわかりにならなかったのですよね?」
 おもちゃの劇場の前で、ミアネラはアヴィにうなずいた。この時のことを話したのは避暑地にも同行していたアヴィだけだ。
 図書室で短い会話を交わした後、青年はミアネラを茶会の部屋まで送ってくれた。彼は茶会の中に交わろうとせず、扉の前で引き返していった。
 たぶん招待客のひとりではなく、彼らの誰かについてきた者だったのだろう。身なりはきちんとしていたし、図書室で時間を潰すことを許されるくらいだから、上級の使用人である従者か何かか。
「お嬢さま、言いたくありませんけれど、きっとその方とは……」
 アヴィが笑顔をなくして言った。いつも、どんなことにも面白がる彼女にしては、めったに見ない深刻な表情だった。
「わかっているわ。わたしも、あの人と結婚できるとは思っていない」
 使用人との結婚など兄が許すはずがない。それ以前に、『学者さん』がミアネラをどう思っているかもわからない。だからミアネラも避暑地にいる間、積極的に彼のことを知ろうとしなかったのだ。
 そうしているうちに姉が亡くなったという報せが届き、ミアネラは王都の新しい屋敷に移ることになった。それから二年間、避暑地であったできごとは、アヴィを除く誰にも話さなかった。
 そして半年前、ベルナルトがはじめて縁談のことを話した時、ミアネラは恥じらいながらほほえんでうなずいた。
 この縁談を断ったとしても、兄はすぐに同じような青年貴族を見つけてくるだろう。ミアネラと年があい、容姿も人柄も申し分なく、王都を離れる心配がない相手を。その中にあの時の『学者さん』はいない。
 それならば兄が勧めるままに、デュオニス伯爵家に嫁ぐほうがいい。
 兄が選んでくれた相手を断り、自分の好きな人と一緒になるなんて、世間知らずのミアネラにできるはずがないのだから。

 はじめて足を踏み入れた夜会場は、ミアネラが想像していた以上の人出だった。ミアネラが暮らしている屋敷と同じくらいの広さの邸宅だが、玄関ホールから階段を経て広間に至るまで、着飾った男女で溢れている。
「グランフェルト公爵ご令息ベルナルトさま、並びにカレルさま、ご令嬢ミアネラさま」
 自分の名前が読み上げられると同時に、すべての招待客がさっと視線を投げかけるのがミアネラにもわかった。
「わかるか、ミアネラ? ここにいる全員がおまえの愛らしさに釘づけだ」
 ミアネラは長兄の声にうなずいたが、兄の言葉には心から賛同とはいかなかった。はじめての夜会にふさわしい純白のドレスは、清楚と可憐を絵に描いたようで確かに愛らしい。ミアネラの乳白色がかった金髪と、若葉のような緑の瞳が引きたっている。けれど夜会場に集まったたくさんの美しい女性と比べると、どうにも自分が子どもっぽく思えてならない。妙齢の令嬢というよりは、飾りたてられた子どもの人形のようだ。
 人々が注目するのはミアネラが愛らしいからではなく、グランフェルト公爵家の今は唯一の娘だからだ。グランフェルト家は七百年も続く王国随一の爵家で、長い歴史の中では王女の降嫁も何度かあり、王家にもっとも近しい貴族と言われている。昼間に王宮で拝謁した国王夫妻は、初対面のミアネラをまるで親族の娘のように扱ってくれた。
 それに、注目されているのはミアネラだけではない。長兄ベルナルトはすでに王宮や議会に出入りし、国の将来を担う若者として一目置かれている。髪をていねいにまとめ、長身を燕尾服に包んだ兄の姿は、妹の目から見ても素敵だと思う。
 そのベルナルトと、次兄カレルに左右を守られ、ミアネラはドレスの裾に気をつけながら、ゆっくりと階段を上った。
 主会場である広間でも、あらゆる視線が自分と兄に集まってくるのをミアネラは感じた。彼らは純粋な興味や羨望だけではなく、何かの儀式を見守るような厳粛な表情を浮かべている。これからこの場で何が始まるのか、すべての者が知っているのだ。グランフェルト家の末の姫が、社交界に出て早々に結婚相手と対面するのだと。
「ミアネラ」
 ベルナルトが身をかがめ、ミアネラの耳の側でささやいた。
「あのテーブルの側に立っているのがデュオニス伯爵、隣が夫人。そして少し離れているのがご嫡男だ」
 ミアネラは兄の手が示すほうを見やった。大きなテーブルの脇に四十代くらいの正装した男女と、すらりとした黒髪の青年が立っているのが見えた。
「伯爵夫人、デュオニス伯爵」
 ベルナルトが歩み寄って夫妻と親しく挨拶を交わし、次いでミアネラの肩を抱いて前に促す。
「妹のミアネラです。ミアネラ、ご挨拶しなさい。やりかたを教えただろう」
 ミアネラは伯爵夫妻の前で膝を折り、名前と身分を述べた。
「なんて可愛らしいお嬢さまでしょう」
 伯爵夫人が目を細めてミアネラに微笑む。つやのある茶色の髪を高く結い上げた、娘のように初々しい女性だった。
「息子は幸運ですわ。イクセル、こちらに来てご挨拶なさい」
 夫人の言葉とともに、ミアネラの視界にその青年が入ってきた。遠くから見た時の印象よりも背が高い。ベルナルトと同じくらいだろうか。
「え……」
 自分に微笑みを向けた縁談相手の顔を見て、ミアネラは言葉を失った。
 そこにいたのは、二年前に別荘で出会った『学者さん』――ミアネラの初恋の人だったのだ。


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