悪魔来たりて紐を解く [ 7−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

7.宿業とタブレット(5)
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 通勤バッグを肩にかけたまま、泉子は絶句していた。
 仕事を終えてまっすぐ帰宅し、一人暮らしの部屋に入って電気をつけたら、ベッドに男が座っていた。
「おかえり、泉子」
「――今までどこにいたの」
 とっさに出した声が強ばっている。黙っているとさまざまな感情が溢れてきそうで、急いで言葉を発したのだ。
 あの電車での一件から二週間と少しが経っている。その間、一度も姿を見せなかったゾールは、今はあたりまえのように泉子のベッドでくつろいでいた。
「どこだと思う?」
 艶やかな黒い瞳を上目がちにして訊き返してくる。悪魔は好きなところへ行くのではなかったのか。
「もしかして、けっこう近くにいた?」
 泉子は直感で答えた。かまをかけたわけではなく、今になってその可能性に思い至ったのだ。ゾールは最初に泉子の前に現れた時も、数日前から泉子を見ていたようなことを言っていた。
 赤い唇の端をつり上げて、悪魔が笑った。あたりだということだろう。
 泉子は通勤バッグを床に置くと、書き物テーブルの下からスツールを取り出して座った。ゾールに訊きたいことはいくつもあったが、ひとまず、再会したら一番に言いたかったことを言う。
「この間はごめん」
 よくよく考えなくても、自分はゾールにかなりひどいことを言った。電車の件で動転していたとはいえ、その後はずっと気が咎めていたのだ。
「この間? 何のことだ?」
 ゾールはきょとんとして尋ねた。とぼけたふりをして水に流そうとしているようには見えない。本当に心当たりがないようである。
「――覚えてないかもしれないけど、とにかくごめん」
「よくわからんが、気持ちはしかと受け取ったぞ」
 あんなことがあった後、二週間以上も顔をあわせていなかったというのに、ゾールの態度は変わらない。今にも鎖骨に触れたいとかお菓子を食べたいとか言い出しそうだ。
 泉子のほうは、もう二度と会えないのかもしれないとまで思いつめていたというのに。
「それで――どうする、泉子」
「どうするって?」
「契約を続けるか? それとも、このあたりで打ち切りにするか?」
 ゾールは以前と変わらない調子だが、やはり同じではなかった。
 これを泉子に考えさせるために、二週間あまり姿を消していたのだ。
「なんか、慣れてるね、ゾール」
 すぐに答えられるはずもないので、泉子は思ったままを言った。
 愛人契約の打ち切りについて話すゾールは、はじめに契約を持ちかけてきた時と同じくらい、落ち着いていて物慣れている。今まで何人の愛人を渡り歩いてきたのか知らないが、ひょっとして、愛人のほうから契約を切ることは珍しくないのだろうか。
 そなたがやめたいと思った時にやめることができる。最初からゾールはそう言っていた。
「こういう展開になることって、よくあるの?」
「そっくり同じ展開ではないが、まあ似たようなことは少なくないな。愛人になってそこそこの期間が経って魔力が貯まってきたところで、大きな災いを起こしてしまって動揺する者は多い」
「――本当に起こしてしまう人もいるんだ」
「いるな。魔力が働いたのは、その者が心からそれを望んだからなのだが」
 その人たちはそれからどうなったのか、ゾールに尋ねる勇気はなかった。
 自分の場合は未遂で済んだが、本当に誰かを死なせることになっていたら。そんな恐ろしいことは想像したくもない。
「最終的にそうなる前に、兆しを見せる愛人も多いがな」
「兆し?」
「大きな災いを起こすには多くの魔力がいる。つまり、その時までその愛人は、魔力をほとんど使わずに貯め込んでいたということだ」
「――私もそうだった」
「ああ。毎日のように魔力を与えたのに、泉子はそれをろくに活用していなかったな。だから、いずれこういう事態に至ることは予見していた」
「こういう事態?」
「泉子が契約を切りたいと言い出す時だ」
 切りたいとは言っていない。
 泉子は口に出しかけた言葉を呑み込んだ。
 切りたいとは思っていないが、続けたいとはっきり思っているわけでもない。今はゾールが戻ってきたことで頭がいっぱいで、その先のことを考えられそうにない。
 ゾールの言うとおり、泉子は与えられた魔力をほとんど使っていなかった。大きな災いを起こす可能性があることは、だからわかっていたのだ。泉子にもゾールにも。
「泉子は性格がいいからな。悪魔の愛人は向いていなかったのかも知れんな」
「は?」
 思わず、険を含んだ声を出してしまった。
「性格がいいって、誰が」
「俺がどれだけ魔力を与えても、泉子はそれを使おうとしなかった。それどころか、使わないように気をつけてさえいただろう」
 それは性格がいいと言えるのだろうか。魔力を使わないよう気をつけていたということは、気をつけなければ使いそうになっていたということで、つまり災いを起こしたい相手に事欠かないということになるのだが。
「魔力を使いたい、つまり誰かに災いを起こしたいと胸の内で思うことくらい、悪魔の愛人でなくとも、たいていの人間が経験しているぞ」
 膝の上で頬杖をついて、悪魔が楽しそうに笑っている。
「実際に魔力を手に入れるや否や、嬉々としてそれを活用する人間もいる。そういう者は小さな災いをちまちまと起こすから、大きな災いを起こせるほどの魔力はなかなか貯まらないがな。性格が良くて魔力を貯め込む人間ほど、大きな災いを起こしてしまうリスクが高いということだ」
 自分は性格が悪いから、悪魔の愛人こそが天職だと思っていた。まさか真逆のことを当の悪魔から言われるとは。
「愛人は性格が悪いほうがいいって言ったのは、そういうことなの?」
「そうだ。泉子もそろそろだと思っていた」
 そろそろ大きな災いを起こすか、起こしかけるかして、愛人契約を切りたくなるタイミングだったということか。
 話が一周してもとに戻ってしまった。
 自分よりやや低い位置に座った悪魔を、泉子は見つめる。
 ベッドに投げ出された長い両腕、長い両脚。墨で染めたような色のスーツがおそろしく似合っている。黒い髪も黒い瞳も濡れたように艶やかで、愛嬌がありながらどこか危ういような雰囲気もある。まったく、ため息の出るような美男子だ。
 泉子は面食いなので、この顔が見られなくなるのは惜しい。しかも、人間の彼氏と違って面倒なことがなく、彼氏の美味しい部分だけを煮つめた男、いや悪魔である。
「今までの愛人で、ずっと契約を続けてた人はいるの?」
「いるぞ。途中で切る者のほうが多かったが、最後まで続いた者も少なからずいる」
「最後って――その人が死ぬまで、ってことだよね」
 『失敬な招喚』のヒロインの末路を思い出す。
 彼女の場合は天寿を全うできず、悪魔の力を享受できたのも短い期間だったようだが、最後は悪魔に連れ去られて地獄の業火に落ちた。
 泉子は宗教に関心がないので、死後の世界のことなどはわからない。ただ、悪魔の愛人として生涯を終えた人間が天国に行けるはずがないだろうとは思う。
「愛人の死後のことが気になるか?」
 ゾールが上目遣いに言った。
 別の愛人から、同じような疑問を向けられたことがあるのかもしれない。
「――気になる」
「俺も実はよく知らん。故郷には長いこと戻ってないのでな」
 泉子は椅子からずり落ちそうになった。そういえば、ゾールは愛人と甘味の探求には熱心だが、肝心の本分のほうは怠けている悪魔だった。
 呆れ返ったが、同時にほっとしている自分もいる。死後にどうなるかなど、悪魔の愛人になってもならなくても具体的には考えたくない。
「ただ、死後まで待たずとも、泉子が地獄に行きたければいつでも連れて行くぞ」
 以前にもゾールは同じことを言っていた。地獄はそう悪いところではない、そなたが付いてくると言うなら一緒に連れて行ってもいいのだぞと。甲子園に連れて行くとかオリンピックに連れて行くとか言うのと同じような温度で。
 ゾールの愛人になると決めたのは、今思えばあの時だ。
 泉子はスツールから立ち上がり、床に置いた通勤バッグの中を漁って、取り出したものをゾールの前に見せた。個包装の小さなフィナンシェである。
「あげる。今日、片瀬さんからもらったの」
「また諍いを起こしたのだな」
「嬉しそうに言わないでくれる?」
 片瀬は今になって、部署に共有の茶葉を置くか置かないかの件を蒸し返してきたのだ。泉子の体調不良で休戦となっていたので、話そのものが流れたと思ってすっかり油断していた。反論する言葉の準備もなく、片瀬の一点の曇りもない笑顔を前に、白旗を振らざるを得なかった。
 だいたい、LINEというものがあるのがいけないのだ。片瀬は頻繁にコンタクトを送ってくることはしないが、昼間に職場で言い争ったことを夜になってLINEで取りなそうとしてくる。泉子は対面で話しているとき以上に強く言い返すことができない。文字に起こすと自分の言葉がいっそう無愛想になることがわかっているからだ。
 こんなことなら、片瀬とLINEを交換するのではなかったと、泉子は早くも後悔し始めていた。
「片瀬さん、これからもお菓子をくれると思うんだよね」
「そのようだな」
「だから――私はあんまり食べたくないから、ゾールがもらってよ。これからも」
 ベタなラブコメのような伝え方になってしまった。
 泉子が赤面しそうになって目をそらしていると、ゾールがいつの間にか立ち上がって、泉子の前で泉子を見下ろしていた。逆光で黒い瞳から光が消えている。
「加湿機に触ってもいいか?」
「いいよ。なんだかじめじめしてるし」
「泉子も菓子を買ってくれるか?」
「あんまり高くないやつならね」
 ゾールは嬉しそうに笑った。子どもか。
「可愛い人。そなたの鎖骨は美しい」
 一転して翳りのある表情になり、悪魔がささやいた。
 泉子はデコルテの開いたカットソーを着ている。これもゾールと愛人契約を結んでから買ったものである。
「――触っていいよ」
 泉子は顎を反らせて、悪魔のしるしを受けることにした。



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