悪魔来たりて紐を解く [ 7−4 ]
悪魔来たりて紐を解く

7.宿業とタブレット(4)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「あー、良かった。篠山さんがはっきり言ってくれて」
 炭酸水の入ったグラスを傾けながら、佐伯が清々しい表情で言う。
 佐伯の隣には松川がいて、二人の向かいには片瀬と泉子が並んで座っている。四人とも仕事を終えた時と同じ私服姿である。
 何のめぐりあわせか、飲み会に興味はないと言い放ったその日に、泉子は同部署の女性たちと食事に来ていた。
 飲み会というよりは食事会で、四人ともアルコールは注文していない。アラカルトが中心のカジュアルなイタリア料理店で、四人はそれぞれパスタを注文し、会話しながら食べているところだった。
「ありがとうございました、篠山さん」
 松川が小さく頭を下げる。仕事中、男性陣が営業に出て女性社員だけになった時にも言われたが、その時と同じく心底ほっとした表情である。
「いや。飲み会が嫌いなのは本当だし」
 泉子は答え、それではなぜ自分は今ここにいるのかと自問する。
 みんなで食事に行きたいと言い出したのは佐伯だった。柿内の誘いをかわせたことには喜んでいたが、飲み会そのものはもともと嫌いではないらしい。女同士でならいいだろうと佐伯が仮の話をして、松川もそれに同意し、片瀬がここぞとばかりに話をまとめ、気がつくと泉子も出席することになっていた。
 拒もうと思えば拒めたのにそうしなかったのは、仕事を終えて寄り道せずに帰宅して、悪魔のいない部屋で一人過ごすことを思い出したからかもしれない。
「柿内さん、悪くないと思うけどな。今日はちょっとしつこかったけどさ。グループ飲みくらいつきあってあげればいいのに」
「……だめなの、どうしても」
 佐伯の言葉に、松川はうつむきながら答える。クリーム系のパスタをフォークで弄んでいるが、あまり食は進んでいないようだ。
「松川さん、ひょっとして彼氏がいるの?」
 片瀬が食事の手を止めてさりげなく尋ねる。
「いえ、いません。親が厳しくて」
「実家暮らしだといろいろ面倒だよね」
「佐伯さんは一人暮らしなんでしょ」
「そうですよ。束の間ですけど」
 トマト色のフィットチーネをフォークに巻きつけて、佐伯がどこか投げやりに言う。
 束の間というと、まさか、片瀬のように結婚の予定があるということだろうか。そのわりに嬉しそうな表情に見えない。
「私、こう見えて長女なんですよ。妹が二人で男兄弟はいなくて。前に言いましたよね、実家は田舎の個人商店だったって」
「おじいさんがやってらっしゃった?」
「そう。まあ、店はもう閉めてるんですけど――とにかく、そういう家なんです」
 東京の実家に住む松川は不思議そうな顔をしているが、泉子には佐伯の言いたいことがわかった。片瀬も泉子たちに近いらしく、魚介をふんだんに使ったパスタを味わいながら、口を挟まずに佐伯の話に聞き入っている。
「いい社会勉強になるとか言って、大学は東京で通わせてもらえましたけど、本当は卒業と同時に地元に帰って、そっちで就職しろって言われてました。今はまだのらくらと時間稼ぎができてますけど、タイムリミットが来たらもう逃げられないと思います」
 それで、束の間なのか。そういえば佐伯は以前にも言っていた。今のこの会社はいつ辞めるかわからないと。
 若い間だけ都会で自由にすることを許され、刻限が来たら当然のように地元に返される。そちらで就職して、結婚して、子どもを産んで、親と同居して――泉子の弟や義妹や、多くの人たちが受け入れている生き方だ。
「そっか。いろいろあるよね」
 片瀬がやわらかく相槌を打つ。
 同じ束の間の一人暮らしでも、佐伯は婚約が決まっていて幸せなはずだが――そう単純な話でもないのだろうか。本人の言う通り、いろいろあるのだろうか。
 片瀬は婚約のことを泉子に打ち明けた時、挙式や新婚旅行の話は楽しそうにしていたが、肝心の結婚相手のことにはほとんど触れなかった。泉子が興味を持って尋ねなかったせいだろうと思っていたが、本当のところは片瀬にしかわからない。
「片瀬さんは名古屋でしたよね」
「うん。私は兄がいるから、佐伯さんとはちょっと事情が違うけど。――でも、実家が東京にあるのも、それはそれで大変でしょう?」
 地方出身者同士で話が盛り上がりかけたところで、片瀬が松川に水を向ける。四人の中で唯一東京が地元の松川は、気持ちが沈んでいるのもあいまって先ほどから口数が少なかった。
「私は――もともと一人暮らしなんて無理なので、実家が近くて良かったと思ってます」
 松川はあいかわらず自己肯定感が低い。入社二年目で仕事ではずいぶん頼もしくなってきたのに、本人はいつまでも自信なさげなままだ。昼休みは常に佐伯にぴったり付いて過ごしている。一人ランチは結局まだ経験していなさそうである。
 本当に一人では何もできないのか。それを確かめるためにも、一度くらい実家を出てみても良いのではないか。松川は真面目だしきちんとしているし、一人で暮らしてみたら案外なんでもできてしまうのではないか。
 しかし、そこまで口を出す資格は泉子にはない。
「篠山さんは一人暮らし長いですよね。親に何か言われたりしません?」
 佐伯に尋ねられ、泉子は皿から顔を上げずに答えた。
「うちは弟がいるから」
 男兄弟がおらず、一人暮らしは束の間だと言った佐伯に訊かれると、自分が恵まれていることが後ろめたく思えてしまう。
「そのかわり、結婚はまだまだせっつかれるけどね」
 せっつかれるというほどではないが、母が弟を介して探りを入れてくるのは事実である。
「そっか。いろいろあるよね、みんな」
 片瀬が穏やかな声のまま、同じ言葉を繰り返す。演歌かよと思いつつ、同意しかないので泉子はうなずく。
 アルコール抜きのテーブルを囲んで、四人は一時、目に見えないものを共有しあう。

 松川と佐伯とは店の前で別れたが、片瀬とは駅まで一緒に歩くことになった。
 定時で上がってゆっくり食事して、今は夜の八時をまわったところである。
「今日は本当にありがとう、篠山さん」
 隣を歩きながら、片瀬が改めて、飲み会を阻止した泉子に礼を言った。
「はっきり言ってくれて助かった。ごめんね、嫌な役まわりさせちゃって」
「いえ。もともと大して好かれてないんで」
 少なくとも、課長の横田や最年長の阿佐田は、泉子を煙たく思っている。若手の門脇や柿内はそこまでではないと思うが、間違っても親しみやすさは覚えていないはずだ。
 オフィスワークではそれぞれに適した役割というものがある。場を和ませるのは片瀬さんで、雰囲気を壊すのは篠山さんと決まっている。そうでなければ職場の調和が乱れてしまう。
「そんなことないと思うけどな」
「ありますよ。だから、いいんです。――片瀬さんの役だって楽なわけじゃないでしょう」
 片瀬はことあるたびに部署でお菓子を配り、課長のマグカップにお茶を注ぎ、セクハラ発言を鉄の笑顔で受け流している。片瀬が甘やかすのをいいことに、横田や阿佐田は少しずつ調子に乗ってきているようだ。
 無愛想で空気の読めない女の特権を利用して、一度もの申してやるべきかと泉子は密かに思っている。
「私は好きでやってるから」
 片瀬は軽やかに笑いながら即答する。
 その態度から、決して好きでやっているだけではないとわかる。
「課長たち、あんまり調子に乗せるとろくなことないですよ」
「うん、心配してくれてありがとう」
 片瀬が再び微笑んだ時、スマホの震える音がした。
「――佐伯さんと松川さんだ。無事に駅に着いたって」
「LINEですか?」
「そう。前に話した三人のグループ」
 片瀬が泉子を引き入れたがっていたグループだ。泉子はスマホがないからと言って断り、本当はタブレットを持っているのだが、それを知っても片瀬が無理強いをすることはなかった。
「二人に何か伝えることある?」
 スマホを手に立ち止まって、片瀬が尋ねる。
 泉子は体の向きを変えて片瀬を見た。いつも持ち歩いているタブレットは、今も通勤バッグの中に入っている。
「――LINE、やろうかな」
 片瀬はスマホを操作しかけた手を止め、視線を上げて泉子の目を見つめた。
「――え?」
「LINE、やろうかな――と思います。片瀬さん、交換してもらえますか」
 本当は、LINEそのものは一ヶ月以上前から始めていた。理於(りお)依加(よりか)の三人でやりとりするためである。理於はなんのかんのまだ浮気性の彼氏と別れていない。
 やってみて気づいたが、LINEを交換したからと言って、常に連絡を取りあうものでもないらしい。口数の少ない依加はともかく、マシンガンの理於でさえそうなのだ。忙しくて返信できない時は互いに察しあうし、思ったほど面倒なことではなかった。
「篠山さん、本当に……?」
「その代わりお願いがあるんですけど!」
 目を潤ませて喜びを露にする片瀬に、泉子は押し切るように声を張り上げる。
「朝礼の開始時間、始業と同じ八時半に戻してください」
 片瀬はきょとんと泉子を見つめ、吹き出した。
 笑いごとではない。毎朝の十五分だって貴重な人生の一部なのである。
「――いいよ。課長に話してみる」
「いいんですか?」
「最近は朝に全員そろわないことが多いしね。朝礼の頻度自体もっと落としてもいいかもね」
 結局、今年の始めに泉子が言ったとおりではないか――と言いたいのをぐっとこらえる。希望が通りそうな時まで理屈をこねてはいけない。逆効果になる。
「タブレット、今も持ってる?」
 スマホを泉子のほうへ突き出して、片瀬が尋ねた。
 泉子は通勤バッグを開けてすぐに取り出す。私用のタブレットを片瀬に見られるのは二度目だが、自分から見せるのはこれが初めてである。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.