悪魔来たりて紐を解く [ 7−3 ]
悪魔来たりて紐を解く

7.宿業とタブレット(3)
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 マンションの部屋のドアを開け、泉子は自宅に入った。
 少し残業したとはいえそれほど遅い時間ではないが、1DKの狭い部屋の中は薄暗い。帰宅途中は今にも雨が降り出してきそうな雲行きだった。今年は空梅雨で、降りそうで降らない日が続いているのだが、それでも降る時には降る。
 靴を脱いで上がり、手前のダイニングキッチンへ入る。朝に出た時と同じくカーテンが引かれ、テレビのリモコンやタブレットの充電器も置いた場所から動いていなかった。
「……ただいま」
 声を出してみるが、もちろん返事はない。
 部屋の端には、梅雨入りの前に出してきた除湿機がそのまま置かれている。シンプルな白い箱型で、かなり小さいので、壁際に置いてあると存在を忘れるほどだ。梅雨に入ってからも雨が少ないので、今年は結局まだ一度も使っていない。
 今、ゾールが戻ってきたら、特に使う目的はなくても、電源くらいは入れさせてあげるのに。
 梅雨入りの前にゾールは姿を消してしまった。それから一週間、一度も泉子の前には現れていない。
 通勤バッグを肩にかけたまま、足を引きずるようにして、泉子は奥の寝室へ入る。
 ふと、壁際に置かれた本棚に目が留まった。手を伸ばし、その中から一冊を抜き出してみる。
 エドワード・ゴーリーの『失敬な招喚』。ゾールと愛人契約を結んだ時に思い出して買った絵本だ。
 悪魔に出会った女性が魔力を手に入れて、最終的に地獄の業火に落ちるという物語。
 ぱらぱらと紙をめくって、あるページで止める。悪魔にしるしを付けられたヒロインのもとへ、奇妙な黒い鳥が現れる。その名もベエルファゾール。
 ゾールの名前は泉子がここからつけたのだ。好きな名前で呼べばいいと言われたから。はじめはそのままベエルファゾールと呼ぶつもりだったが、長すぎるので適当に短くした。それでゾールだ。
 こうして改めて絵本を見ると、ベエルファゾールはやはり可愛い。悪魔の使いにしては妙に愛嬌があって、ヒロインとも仲良く楽しく暮らしている。
 黒い鳥とヒロインが、向かいあって一緒にお菓子を作っている絵を見ていると、今の自分が一人でいるという事実が押し迫ってきた。
 悪魔のほうから契約を切ることはないと言ったのに――いや、この間のあれは、泉子のほうから契約を切ったことになるのだろうか。
 自分が何と言ったのか、ゆっくりと思い出してみる。
 触らないで、どこかへ行って、と言った。
 それから、魔力なんていらない、とも。
 泉子は通勤バッグを床に置き、ベッドのスプリングを背にずるりともたれかかった。
 これでは契約を切ったと思われても仕方がない。少なくとも、泉子に触れることができなくなった時点で、ゾールにとって契約を続ける理由は消えた。悪魔のわりに妙に良識的で、泉子の合意がなければ決して手を出してくることはなかったのだから。
 でも、こんなふうに突然、何も言わずに消えなくても。
 自分から拒絶したのだとわかっているが――わかっているからこそ――泉子はゾールを詰りたくなる。
 所詮は契約で結ばれただけの関係だったのだ。彼氏のように思っていたのは泉子のほうだけで、ゾールにとっての泉子は歴代の愛人の一人に過ぎなかった。今ごろはさっさとどこかに移って、骨が綺麗で性格の悪い別の人間を見つけているだろう。
 最後に除湿機くらい見ていっても良かったのに。先々週の休みに買ったマフィンとスコーンもまだ残っている。出先で見かけ、日持ちしそうなので多めに買っておいたのだ。こんなことならケチケチせずに早く食べさせてあげれば良かった。職場で片瀬からまたお菓子をもらったら、すべて自分で食べるしかないのだろうか。
 ただ、あの時と同じ思いを味わうくらいなら、もう悪魔とはかかわりを持たないほうがいいかもしれないと思う。自分の悪意で誰かを殺しかけたかもしれないと気づいた時の衝撃は、今も全身に生々しく残っている。
 泉子は性格が悪いのだから、魔力など持たないほうが人類のためだ。
 『失敬な招喚』のヒロインのように、地獄に落ちる前に気づいて本当に良かった。
 ――地獄は俺の故郷だが、それほど悪いところではないぞ。
 悪魔のささやき声が聞こえた気がしたが、泉子は振り切るように立ち上がり、手にしていた絵本を本棚にしまった。

「――だから、みんなで行きましょうよ。篠山さんにも聞いてみますから」
 所属フロアの扉を開ける寸前に、自分の名前が耳に飛び込んできた。
 泉子は構わずドアを押して中に入る。朝の出勤時間である。自分が現れることはわかっているのだから、同僚たちも聞かれて困る話をしているわけではないだろう。
「おはようございます」
「あっ、篠山さん! 今日の帰りって予定あります?」
 泉子の挨拶に被せるようにして、佐伯が自分の席から声を上げる。隣では松川が椅子ごと体を寄せ、男性営業部員の柿内(かきうち)門脇(かどわき)が二人を見下ろすように立っている。
 もう一人の営業部員の阿佐田(あさだ)と、課長の横田の姿は見えない。そういえば今日は営業先に直行すると言っていた。
「帰り? どうして?」
「みんなで飲みに行かないかって話してたんです。あ、みんなって、課長と阿佐田さんは抜きですよ」
「私も抜きで。今日はちょっと用事があるの」
 もちろん用事などない。仕事から解放された定時後まで同僚たちと過ごすのは遠慮したいだけである。
 飲みニケーションは泉子より上の世代の遺物だと思っていたが、新卒二年目の佐伯と松川はそれほど嫌いでもないらしく、ときどき他の部署からも誘われて出席している。こういうことは世代よりも個人の感覚の問題なのだろうか。職場の飲み会と言っても、上司はきっちり排除しているあたり、学生時代のコンパと同じノリだから良いのか。
「どうしても駄目ですか、篠山さん」
 心許なさそうに訊いてきたのは柿内だった。佐伯と松川より一つ年上で、男性社員の中では部署で最年少になる。
「俺ら、事務の女性たちとあんまり話すことってないし、たまにはつきあってもらえませんか」
「うん、みんなでゆっくり話してきて。片瀬さんも誘ったら来るでしょう」
「篠山さんが来られないなら仕方ないですね。中止で」
 佐伯がほっとしたように畳みかけ、隣で松川もうなずいている。柿内はその二人と泉子を見比べて、まだ何か言いたそうにしているが、言うことが見つからないようだ。
 うっすらと、泉子にも話が見えてきた。
 飲みに行きたいと言い出したのは柿内なのだろう。事務の女性たちとというより、ずばり、松川と。片想いしていることはたぶん部署の全員が知っている。
 グループ飲みを装って、門脇を巻き込んで誘ってみたが、松川は応じるのに抵抗があるようだ。それを察した佐伯がナイトよろしく松川を庇っている。泉子が誘いに乗って来ないことを盾にして。
 どうやら断ったのは正解だったらしく、泉子はこっそり胸を撫で下ろす。柿内には悪いが、他人の恋路のために定時後の時間を割くつもりはない。当の松川が気乗りしていないようだからなおさらだ。
 一件落着と思いつつロッカーに向かうと、ドアの開く音がして、明るい声が飛び込んできた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
 さらさらのハーフアップをなびかせて、片瀬がやや足早に入ってくる。
 遅いと言ってもまだ始業の二十分前である。普段どれだけ早く出勤しているのか。
「あ、片瀬さん――今、飲みに行かないかって話していたところなんです」
 柿内がすかさず片瀬に話しかける。
 案外しつこいな、と泉子は半ば本気で不快に思う。松川が嫌がっていることはわかるだろうに、このへんで引き下がれないものか。隣に立っている門脇も心なしか迷惑そうである。
「え、飲みに? みんなで?」
「――って話してたんですけど、篠山さんの都合が悪いみたいなんですよ! 残念ですね、柿内さん!」
 片瀬のリアクションが定まる前に、佐伯が声を張り上げる。察してくれ、と顔中に書いてある。
 片瀬は飲み会そのものには喜んで乗ってきそうだが、後輩が嫌がっているなら無理強いはしないだろう。
「今日が駄目なら、また別の日にでも――」
「それなら課長と阿佐田さんもいる日にしましょう。なんなら隣の第二課の人たちも呼んで」
「いや、それはちょっと――」
 佐伯と柿内が攻防を続けている。肝心の松川はおろおろするだけで口を挟めない。もともと無口な門脇は静観を決め込むことにしたらしく、案山子のように無言で立ち尽くしている。
 こういう時、片瀬ならば状況を察して、双方の顔を立てながら、雰囲気を悪くせずに収めてくれるかと思ったが――珍しく微笑みも浮かべずに言葉に詰まっている。円滑なコミュニケーションを第一としているだけに、飲み会について否定的なことが言えないのだろうか。
「柿内さん、佐伯さん」
 泉子はロッカーをばたんと閉め、振り返ると同時に言った。
「悪いけど私、飲み会には興味ないから。用事があってもなくても」
 しん、とフロアの中の空気が凍りつく。
 五人全員が泉子の顔を見て押し黙る。泉子を味方につけたがっていた佐伯でさえ、気圧されたように無表情になっている。
 泉子は彼らの視線を無視しながら自分の席に向かった。気まずいとは思わない。自分の役割を果たしただけだ。不愛想で空気の読めない中堅社員にしかできないこともある。
「……朝礼の時間ですね」
 終始無言だった門脇が、珍しく自分から口を開く。会話を打ち切りたくて仕方がなかったのだろう。
「あ、じゃあ始めましょうか」
 片瀬がいつもの明るい声色を使って言う。泉子が凍りつかせた空気が徐々に和らぎ、全員がほっとしたような仕草を見せる。
 時計を見ると八時十五分だった。始業まで十五分あるが、前倒しで出勤して朝礼を始める決まりである。全員で企業理念を唱和して、課長がいる時は実のない小話を聞く。こればかりは何とかしたいと、泉子はいまだに思っている。


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