悪魔来たりて紐を解く [ 7−2 ]
悪魔来たりて紐を解く

7.宿業とタブレット(2)
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「――篠山(ささやま)さん?」
 名前を呼ばれて、泉子はパソコンから顔を上げた。
「どうしたの、お昼だよ」
「あ――すみません」
 片瀬が泉子のデスクの脇に立って、泉子の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「謝ることないけど。まだ体調が悪いの?」
「いいえ。すみません、もう大丈夫です。土日にしっかり休んだので」
 今日は月曜日である。泉子は先週いっぱい、職場では体調が悪いということになっていた。実際に良くはなかったのだが。
 ぼんやりしたり覇気がなかったりすることの言い訳にそう言ったのだが、片瀬はいたく心配して、泉子の担当の仕事の一部を引き受けてくれたり、早退するように強く勧めてくれたりした。
 泉子としては仕事をしているほうが気が紛れるし、一人でいると余計なことを考えてしまうので、むしろ残業したいくらいだったのだが、気を遣ってもらえるのはありがたかった。今は片瀬とくだらないことで議論をする余裕もない。
 ゾールが姿を見せなくなってから、明日で一週間になる。
 今までも毎日欠かさず顔をあわせていたわけではないのだが、これほど長く会うことがなかったのは初めてである。
 電車での一件に続いてゾールが姿を消したことで、泉子はすっかり参ってしまっていた。
 気を紛らわせるために集中しているせいか、仕事はいつもよりもはかどっている。今も昼休みが来たことに気づかなかったほどだ。フロアには先にランチを済ませた松川(まつかわ)佐伯(さえき)が戻ってきており、泉子と片瀬を気にしつつそれぞれの席に着くところだった。課長の横田は外まわりに出ていて不在である。
「元気になったならいいけど、無理しないでね」
「ありがとうございます」
「一緒にランチ行かない? 食欲がなかったら軽いものでいいから」
 この三、四ヶ月というもの、片瀬は隙あらば泉子をランチに誘おうとしてくる。一度だけ泉子から誘った時のことが忘れられず、押せば泉子が応じると思っているらしい。
 泉子はと言えば、この一週間はろくに食べる気がせず、昼休みは外に出てカフェや書店で時間を潰していた。社内の休憩スペースや同じビルのコンビニにいると、片瀬をはじめとする同僚に出くわす可能性が高いからだ。
「片瀬さんは――お弁当は」
「今日は持ってきてないの。篠山さんの食べたいものでいいよ。外で買ってきて会社の中で食べてもいいし」
 泉子が即答しなかったことで力を得たのか、片瀬がいつもより強めに畳みかけてくる。ひょっとしたら、休戦状態になっている議論を再開するつもりなのかもしれない。部署の全員で飲む茶葉を女性社員で負担するのしないの。
 だいぶ調子が戻って来たとはいえ、片瀬に真綿で締められて耐えられるほどの元気はない。
 しかし、一週間のあいだ片瀬には何かと気遣われ、仕事まで手伝ってもらっていたのは事実である。
「軽いものなら……」
 泉子が控えめに言うと、片瀬の顔がぱっと輝いた。
 向かいのデスクにいる松川と佐伯が、パソコンを見るふりをしながら、ちらちらと意味ありげな視線を向けてくる。

星野(ほしの)さん、名古屋で頑張ってるみたいだね」
 それぞれの昼食を手配して席に着くなり、片瀬はにこやかに会話を始めた。
 職場の近くにある、チェーンのカフェである。片瀬はパスタとアイスティーを、泉子はサンドイッチとコーヒーをカウンターで注文し、空いていた席に座った。片瀬のパスタはまだ来ておらず、引き換えの番号札がテーブルに置かれている。
「そうなんですか」
「うん――篠山さん、私に構わないで先に食べてね」
「いえ、せっかく一緒に来たので待ちます。名古屋営業所って、去年まで片瀬さんがいたところですよね」
「うん。その時の仲間から連絡が来てるの。写真見る? 星野さんの歓迎会だって」
 片瀬はスマホを操作して泉子に見せる。
 画面には、居酒屋らしい店を背景に、身を寄せ合ってポーズをとる男女が十数人。中心にいるのは三月まで泉子や片瀬と一緒に働いていた星野である。ネクタイを締めた男性社員二人に左右から肩を組まれて笑っている。
「名古屋営業所、仲がいいんですね」
「いいよー。今のうちの部署だっていいと思うけど。星野さんの後ろにいる女性が私の同期で、この写真を送ってくれた人なの」
「へー、そうなんですか」
 パスタがまだ来ないので、泉子は適当に相槌を打つ。正直言ってよその営業所のことに興味はないが、茶葉の件を片瀬がいつ切り出すか気が気ではないのだ。
「同期とずっと連絡が続いているのはいいですね。私の同期は男性ばかりなので」
「総務の(あずま)さんと、大阪の戸崎(とざき)さんね。戸崎さんが本社に来てた時、三人で食事に行ったりはしなかったの?」
「なかったですね。二人は男同士で飲んでたみたいですけど」
 飲みには行かなかったが、東京駅に見送りには行った、ということを片瀬に言う必要はない。
 あれから二ヶ月が経つが、征嵩(ゆきたか)の結婚の話はまだ聞かない。四年前まで本社にいたイケメンの戸崎さんは有名なので、いずれ公然の話になれば噂にでも耳にしそうである。
 東とはエレベーターや休憩スペースで居合わせた時に、何度か業務外の会話をした。忙しいか、元気か、といったありふれた一問一答だったが、なんとなく共有できるものがあるように感じるのは、やはり同期だからなのだろうか。
 お待たせしましたー、という明るい女性の声がして、片瀬の和風パスタがやってきた。片瀬は礼を言い、ほかほかと湯気を立てる皿を前に、さっそくフォークを手にする。
「食べようか。待たせてごめんね」
「いえ」
「体調は本当にいいの? 篠山さん、一人暮らしでしょう。具合が悪くなると大変じゃない?」
「一人には慣れてるので、平気です」
 サンドイッチの袋を開けながら、泉子は言い慣れた言葉を返す。
 厳密には一人ではなかった。この五ヶ月間は。
 いたとしても、具合の悪い時に介抱は期待できないが、少なくとも気晴らしにはなっていた。それから目の保養にも。
 いったい、どこへ行っているのか、いつ戻ってくるのか――と思いつつ、泉子は片瀬との会話に戻った。
「片瀬さんも一人暮らしですよね」
 名古屋の出身で、大学も地元。そのまま新卒で名古屋営業所に採用されたと聞いている。
「そうだよ。篠山さんと違って、一人暮らしは三十過ぎてからデビュー。大変だけど楽しいよね」
 泉子の会社では営業部員の転勤は多いが、事務職の場合はめったにない――というか、泉子は片瀬以前に聞いたことがない。
 地元で就職して実家から通っていたのに、東京の本社に配属されて引っ越しを余儀なくされたのか。それともひょっとして、異動は片瀬の希望だったのか。
 泉子の視線に気づいたのか、片瀬はフォークを持つ手を止め、アイスティーを一口飲んだ。
「本社への異動は私から上司に言って、叶えてもらったの。こっちに婚約者がいるから」
 婚約者――。
 ごく自然に出てきた言葉に、泉子は一瞬圧倒され、サンドイッチを手にしたまま動けなかった。
 半袖のブラウスを着た片瀬の腕が、急につやつやと輝いて見える。
「おめでとうございます。知りませんでした」
「まだ横田課長にしか言ってないから。タイミングが来たらみんなの前で報告するつもりだけど」
「先に聞いちゃって良かったんですか。なんだか――」
「いいの。別に隠してるわけじゃないから。それに、篠山さんには先に言っておきたかったんだよね」
 ふふふと笑って、片瀬は再びフォークを手にする。
 特に仲が良いわけではない――むしろくだらないことでしょっちゅう意見を違えているのに、泉子に言っておきたかったというのは本当か。惚気を聞いてくれる相手に飢えていたのか。
 とはいえ、婚約はおめでたいことだし、ランチ時間の格好の話題である。
「一人暮らしということは、お相手とはまだ一緒に住まれてないんですか?」
「うん。彼は東京の実家に住んでるから。私も一度くらい、一人暮らししてみたかったしね」
「ご結婚はいつごろなんですか」
「来年かな。婚約したのは一年くらい前だけど、彼の実家のほうにいろいろあって、具体的な話は先に延ばしてたの」
「片瀬さんが名古屋にいた時は、遠距離恋愛だったんですね」
「そう。結婚までそのままでも良かったんだけど、ちょうど本社で事務職の欠員が出るって聞いたから、駄目もとで異動の希望を出したら通っちゃって」
 片瀬は肩をすくめているが、嬉しそうだ。
 嬉しいに決まっている。婚約が決まっていて、相手の近くに運良く引っ越すことができて、その一連の話を堂々と後輩に披露できるのだ。
「お式のこととか、旅行の行き先とか、もう考えてるんですか」
 泉子はさらに質問を重ねた。
 サンドイッチはもう食べ終わっている。話が弾むと食も進むものらしい。
「詳しいことはまだぜんぜん。でも、式場とか旅行会社のサイトとか、つい見ちゃうんだよね。予算抜きであれこれ考えてる時が楽しくて」
「わかります。旅行は計画を立てている時が一番楽しい、みたいな」
「そうそう。ブライダル関連のものって見てると気分が上がるし」
「いいですね。ドレス選びも楽しみですね」
「うん。決まったら写真を見せていい? LINEで送れないから、スマホでじかに見てもらうしかないけど」
 ぴし、と空気が固まる音を確かに聞いた。
 音を発したのは泉子のほうである。この流れでLINEのことを持ち出されるとは。茶葉の件が話題に上らないので油断していた。間を持たせるために結婚の話に食いついたのがばれていたのだろうか。
「あ、誤解しないで。無理にLINEに誘うつもりはないから」
 片瀬がやんわりと取り繕う。泉子の空気が固まったことには気づいているだろうに、決して気を悪くしたような表情は見せない。
 泉子は後ろめたくなって、曖昧に微笑みながらコーヒーを飲んだ。


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