悪魔来たりて紐を解く [ 7−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

7.宿業とタブレット(1)
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 それは一瞬の出来事だった。

 泉子(もとこ)は仕事帰りの電車の中で、タブレットを使って小説を読んでいた。帰宅ラッシュの混雑の中だったが、運良く目の前の席が空いたので座っていた。
 電子書籍を開いてしばらく経っていたが、あまり進んでいなかった。疲れていて目がよく働かなかったのもあるが、職場であった小さなトラブルのことで気が立っていたのである。
 いつもの片瀬(かたせ)との意見の違いである。部署の全員が使う茶葉を女性社員で買って常備したいと片瀬が言い出し、泉子は断固として――実際にはそれほど強くは言えないので、ゆっくり言葉を選びながら――反対したのだ。今日のところ決着はつかず、明日まで持ち越しとなったのだが、また同じ応酬を繰り返すのかと思うとうんざりするどころの話ではない。
 電車が泉子が降りる駅の二つ手前に停車していた時のことだった。タブレットを操作しながら溜息をついていると、車両の中がにわかに慌ただしくなり、密集していた人の頭が波のように揺れた。誰か捕まった、痴漢だという言葉がちらほら聞こえてくる。
 席に座ったまま首を伸ばすと、電車のドア付近に、駅員の帽子を被った頭が複数見えた。間に挟んだ誰かを取り押さえて、ホームに連れ出しているところのようである。別の誰かを案じて気遣っている女性の声も聞こえる。
 珍しいな、と泉子は思った。痴漢がではなく、痴漢がきちんと捕まっていることが。
 泉子も何年も電車通勤を続けているので、痴漢の被害を受けたことも、見かけたこともある。声を上げて助けを求めたほうがいいとわかっていても、いざという時その通りにはなかなかできないものだ。自分の勘違いかもしれないと迷っているうちに人流が動いて相手が遠ざかってしまったりするし、訴える駅員や警備員がいつも近くにいるとは限らない。他の乗客が味方になってくれる保障もない。
 何より、声を上げることで逆上され、危険な目に遭うのが怖い。そう思っているのは泉子だけではないだろう。いま捕まった犯人は大勢の一人に過ぎないはずだ。
 声を上げた誰かに心の中で拍手を送ると同時に、泉子の中に犯人への黒い感情が溜まっていく。
 どこの誰だか知らないが、救いようのないゴミ人間だと思う。きっと、職場では女性の部下にマグカップを洗わせ、家庭では妻に肉を焼かせているのに違いない。捕まりはしても微罪で済んでしまうであろうことが腹立たしい。痴漢する男なんて一人残らず死刑になるべきだ。
 ホームのほうから悲鳴が上がった。
 車内の慌ただしさがトーンの違うものになり、互いに顔を見あわせていた乗客たちがいっせいにホームを見る。
 逃げた、落ちた、という声が電車の中と外の両方から聞こえる。
 初めて聞くブザー音がホームに響き渡り、赤いランプが回転して光を振りまくのが見えた。

「――ゾール!」
 マンションの部屋のドアを開けるなり、泉子は叫んだ。
 靴を蹴飛ばす勢いで脱ぎ、逃げるように中へ駆け込んでいく。
 ゾールはテーブルの脇に寝そべって、三日前に泉子が出してきた除湿機を眺めていた。梅雨入りに備えてメンテナスを済ませたのだが、まだ一度も使っていない。ゾールはなぜかこれを気に入り、泉子が電源を入れるのを楽しみにしていた。
「どうした、泉子」
 いつもの能天気な表情で悪魔が振り返る。
「私――人を殺してしまうところだった!」
 フローリングの上に立ち尽くして、泉子は叫ぶ。肩のあたりを中心に全身が震えている。電車を降りてからここへ帰るまで、生きた心地がしなかった。
 泉子が乗っていた車両で捕まり、ホームに連れ出された痴漢犯は、連行されていく途中で駅員の手を振り切って逃げ、線路に降りたらしい。逃げるために故意に飛び降りたのか、誤って転落したのかは、話が錯綜していて結局わからなかった。降りた線路にそのとき車両はなかったようだが、誰かが緊急停止ボタンを押したらしく、駅の構内全体が騒然としていた。
 結局、電車が入って来ないうちに犯人は取り押さえられ、再び駅員たちに連れられて行ったらしい。
 泉子は車内に流れるアナウンスからそれを知った。その時までに電車は二十分ほど遅延していた。
 再び電車が発車してからも、泉子は慄然としていて動くことができなかった。いつもの駅で席を立って降りられたのが不思議なくらいだ。
 ゾールと愛人契約を結んでから四ヶ月と少し、ほとんど使っていなかった魔力がかなり貯まっていることはわかっていた。だから、これまで以上に内心の毒には気をつけて、職場で片瀬や横田(よこた)に腹が立った時も、宇宙人に攫われてしまえとか、富士山の噴火に巻き込まれろとか、現実に起こり得ない災いを願うようにしていた。これなら魔力は発動しないはずだからだ――宇宙人が実在していて地球に現れたり、富士山が三世紀ぶりに噴火したりしない限り。
 今日は職場でのストレスで苛々していたのと、相手が顔も知らない人間だということで油断していた。誰かに死ねと言った直後に本当に死んだら寝覚めが悪いとはよく言うが、死ななくても死にかけたというだけで充分に悪い。悪いどころではない。
「落ち着け、泉子」
 ゾールは長い脚で立ち上がり、泉子のほうへ歩いてきた。
 部屋の照明は点いていない。外はまだかすかに明るいが、カーテンを閉め切った室内は陰っている。
「落ち着いてられない。人を殺しかけたんだよ」
「殺しかけたということは、殺してはいないのだろう」
「でも、私、その人が死ねばいいって思ったの。死刑になればいいって。そんなこと、私が決めていいわけないのに――」
 ゾールの前で興奮してまくしたてるのは二度目だった。
 一度目は愛人契約を結ぶ前、ゾールからお試し用の魔力を与えられて、それを持て余した末に気づいてしまった時だ。自分の性格の悪さに。
 そう。泉子は性格が悪いのだ。いつも誰かのことを嫌い、誰かの災いを願っている。
 そんな人間が魔力など手にしたら、良くないことが起きると決まっているのに。
 ゾールが手を伸ばし、泉子の肩のあたりに触れようとした。笑ってはいないものの落ち着き払っている。ひょっとして、こういう状態の愛人を前にしたことは初めてではないのかもしれない。
 そう思うと同時に、泉子は身をすくめて後ろに飛びのいていた。
「触らないで」
「泉子――」
「やだ。魔力なんていらない。どこかへ行って。吐きそう」
 喚いているうちに本当に吐き気がこみ上げてきて、泉子は通勤バッグを胸に抱きしめて、ゾールの横をすり抜けて寝室へ駆け込んだ。

 目を開けたのは、真夜中だった。
 食事も入浴もせずにベッドに飛び込んだが、頭まで布団を被って震えているだけで、眠ることはほとんどできなかった。どれだけ時間が経ったのかもよくわからず、顔を出すと部屋の中は真っ暗だった。
 横になって暗闇を見つめながら、明日も平日だと思った。こんな時でも曜日の感覚が抜けない自分が恨めしい。
 ベッドから出て壁伝いに歩き、手探りで明かりを点ける。
 食欲はまったくないが、とりあえず着替えだけでもして、少しでも眠らなければならない。明日も出勤して生きていくつもりだから。
「泉子」
 声のしたほうを見ると、ゾールが床に座ってこちらを見ていた。うっすら笑みを浮かべているが、泉子の様子を伺うような、気遣うような視線に見えなくもない。
 泉子は深呼吸して、悪魔に向き合った。気分の悪さはだいぶ落ち着いていた。
「安心しろ、泉子。そなたは魔力を使っていない」
「――え?」
 声を発してから、ふらふらとベッドの脇に戻り、腰を下ろす。
「そなたが本気で他人の災いを願った時だけ、魔力は使える。そして、魔力を正しく使えば、そなたが願った災いは必ず起きる」
 愛人契約を結ぶ際に、ゾールから教わったことだ。
 肝心なのは、泉子が相手にどの程度の災いを望んでいるかということ。
 命を奪うほどの災いを願っても、どこかにためらいが残っていれば惨事には至らない。反対に、小さな災いで済ませようとしても、心の底に殺意があれば命に関わることもある。
 ――つまり、逆に考えれば、あの痴漢犯が線路から無事に引き上げられたということは、泉子はその人に死んでほしいと本気では思っていなかったということだ。
 安堵のあまり胸が詰まって、逆の意味で気分が悪くなりそうだった。冷静に考えればわかるはずのことだったのに、電車で浴びた衝撃が大きすぎて頭が回らなかった。
 あの時のことを考えると、今でも体が震えそうになる。
「そうだよね……ありがと、ゾール」
 泉子は言った。
 ゾールは床に座り込んだままうなずいた。泉子をじっと見つめるが、誘惑するような陰りのある目線ではない。そのわりに名残惜しむようになかなか離れない。
「――着替えるね」
「ああ」
 泉子はベッドから立ち上がった。
 時計を見ると夜の二時をまわっていた。シャワーを浴びてスウェットに着替え、ベッドに入り直す。今度もなかなか寝つけなかったが、夜が明ける前に少しは眠ることができた。
 いつもの時間に目を覚ますと、部屋にゾールの姿はなかった。寝室にも、ダイニングキッチンにも。
 それは珍しいことではない。朝は泉子が慌ただしくしているせいか、ゾールはたいてい姿を消している。
 泉子は重い足をひきずるようにして支度を済ませ、出勤するために部屋を出た。
 その日、仕事を終えて帰宅しても、ゾールの姿は戻っていなかった。
 毎日毎晩一緒にいたわけではないが、あんなことがあった直後だけに気になった。泉子を気遣ってしばらく距離を置いているのだろうか。姿が見えないだけで、本当は近くにいるのかもしれないが。
 次の日の朝も夜も、ゾールは姿を見せなかった。


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