悪魔来たりて紐を解く [ 6−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

6.偏曲とホットプレート(5)
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 泉子は自分の部屋で布団に横たわり、『小瓶の悪魔』を読み返していた。
 夜の十一時は普段ならまだ寝支度もしていない時間だが、実家にいるとまるで深夜のように感じる。隣にいる弟夫婦はもう眠ったのか、しばらく何の物音もしない。
 泉子も一度は寝ようとしたのだが、なぜか寝つくことができず、明かりを点けて本を手にしたところである。
 タヒチ島に移ったケアヴェと妻は、悪魔の小瓶を買い取ってくれる人間を探すが、売り買い以前に話を信じてもらうことが難しく、なかなか目的を遂げられない。
 このままでは、小瓶を手放せずに生涯を終え、地獄の業火に落ちることになる。
 ケアヴェが苦しむのを見かねた妻は、彼を救うために心を決める――
 泉子は本を閉じ、胸の上に置いて目を閉じた。
 『小瓶の悪魔』が文句なしに面白いのに、何か引っかかりを感じる理由がわかった。
 この妻が――愛する人のために自分を犠牲にする妻が――似ているのだ。泉子が知っている何人もの女性たちに。
 泉子は本を枕元に置くと、布団から出て照明を消し、また横になって布団をかぶった。カーテンも閉め切ってあるので、部屋の中は完全な暗闇である。その暗さが泣きそうなくらい心地良い。
 家に帰りたい、と思った。
 1DKの賃貸に帰って、職場と往復する日々に戻りたい。課長のくだらない話を聞き流し、後輩たちを宥めすかして仕事させ、帰りにコンビニでスイーツを買って、一人で一日の疲れを癒したい。
 ここにいると気がおかしくなる。泉子が選ばなかったもの、投げ出したものを、誰もが当たり前のように受け入れている、時間の止まったような場所。
「消えてしまえばいい」
 仰向けに横たわり、暗闇を見つめながら、泉子は小さな声で呟いた。
「みんな、みんな消えてしまえ。ここにいる人たち、みんな」
 泉子には悪魔に与えられた魔力がある。契約を結んでからほとんど使っていないので、かなりの大きさになっているはずだ。
 それなのに、望む災いをはっきり口に出しても、何事も起こる気配がなかった。
「ゾール」
 仰向けになったまま、暗闇の中に呼びかける。
「いるんでしょ。ねえ、ゾール」
「何だ。可愛い人」
 聞き慣れた悪魔の声がした。暗い中で聞いているせいか、思ったよりずっと近くに感じる。
「キスして。魔力が足りないみたいなの」
「なぜわかる?」
「災いを起こしたいのに、何も起こらない」
 笑い声が聞こえた。ゆったりとした、長い笑い声だった。
「心の底から災いを願わなければ、魔力は効かないからな」
 悪魔の声から逃げるように、泉子は目を閉じる。

「姉ちゃん、次はいつ帰ってくるの」
 ワンボックス車を運転しながら、敦季が恒例の質問をした。
 泉子は帰ってきた時と同じく旅行鞄と手提げ袋を後ろに載せ、ハンドバッグを膝に置いて助手席に座っている。
「お盆だよ。いつも通り」
「その次は正月だよな。十一月ごろに一回帰って来られない? そのころ絢香の予定日だから」
「今年の十一月って連休ないでしょ。有給使って連休にできたら帰れるけど、職場に相談してみないと」
「頼むわ」
 泉子も敦季もお互いを見ず、フロントガラスを見つめて話している。土と緑の合間にまばらに民家が見える中を、軽ワンボックスがスムーズに走っていく。
 実際は三連休を取らなくても、土日で帰って来られる距離だ。そのことは敦季もわかっているはずだが、指摘されたことはない。いや、あったかも知れないが忘れてしまった。
「一回、東京にも遊びに来てよ。玲衣ちゃんと下の子が大きくなったら」
「いいな。スカイツリーとか行きたがるかな」
「修学旅行で行くだろうけどね」
「俺らが小学生の時も東京だったよな。そのころは東京タワーしかなかったけど」
 泉子も敦季も、初めて上京したのは小学校の修学旅行の時だ。行こうと思えば日帰りでも行ける距離だというのに、子どもにとって県境の壁は果てしなく高い。泉子が一人で東京へ行くことを許されたのは、高校時代も後半のことだった。志望大学のオープンキャンパスだ。
 あのころは、田舎と都会の違いと言えば、遊び場所が多いか少ないかという点だけだと思っていた。
「玲衣ちゃんも東京の大学に行きたがるかな」
 泉子が思わずつぶやくと、敦季が隣で吹き出した。
「気が早すぎだろ、姉ちゃん。俺らでもそんな話はまだしないよ」
「まあそうだね」
「大学はともかく、遊びには行きたがるかもな。その時は姉ちゃんのとこに泊めてやってよ」
 玲衣がそんなことを言い出すのは十年か、もっと先か。
 そのころにも、泉子は今と同じ暮らしをしているのだろうか。
「うん。歓迎するよ」
 泉子はフロントガラスから目をそらさずに答えた。

 行きと同じ路線を使い、約一時間半。東京駅に着いた時は昼日中だったが、あちこち寄り道していたので、自宅の最寄り駅に向かう電車に乗ったのは夕方だった。
 帰省への道のりは、どちらが行きでどちらが帰りなのか、いつも考えてしまう。
 最寄り駅からマンションまでの道を、旅行鞄を持って歩いていると、耳もとのすぐ側でささやき声がした。
「可愛い人。羊羹は買ってくれたか?」
 泉子は歩きながら吹き出した。
 妖艶な雰囲気でくだらないことを言ってくる悪魔である。
「買ったよ。あと柏餅とちまきも買った。今日は子どもの日だから。知ってる? 子どもの日」
「知っているぞ。祭日に菓子を食べるのは良い風習だな」
 確かに、ゾールとはイベントごとにさまざまなお菓子を食べた。
 バレンタインのチョコレート。桃の節句の雛菓子。ホワイトデーにはビスケット。花の季節が来たら桜餅。
 この先はしばらくお菓子が絡むイベントはないが、一年の終わりのほうにはハロウィンとクリスマスがある。キリスト教の祭日だが、バレンタインも平気だったのだから良いだろう。
「賞味期限が短いから、早めに食べないとね。帰ったらお茶を淹れるよ」
 帰省から戻ってきた時は寄り道をして遅くなり、夕食も外で食べて帰ることが多いのだが、今回は明るいうちに電車に乗った。早く帰って一息ついて、ゾールとお菓子を食べたかったのだ。和菓子にあう日本茶のティーバッグも買ってきた。
 実家を出る時に母が料理を何種類か持たせてくれたので、夕食はそれがあれば作らなくて済む。
 マンションのエントランスの扉を開けながら、泉子はふと引っかかるものを感じて振り返った。
 ゾールは泉子の背後に立ち、急に振り向いた泉子を不思議そうに見下ろしている。
「どうした? 泉子」
「ううん――そっか。あの時も実家から戻ってきた時だったもんね」
 あの時というのは、ゾールが泉子の部屋で待っていて、契約を持ちかけてきた時のことだ。
 そなたを気に入った、愛人にしたい――と。
 あの時はお正月休みの終わりで、泉子は今と同じように、実家への帰省から自分の部屋に戻ってきたところだった。
 つまり、ゾールが現れてから、実家に帰ってまた戻ってきたのは、初めてということになる。
「あれから――四ヶ月かあ」
 エレベーターの中で泉子は呟く。
 あっという間だったようにも思うが、まだそれだけしか経っていないのかという気もする。
 悪魔が家にいる生活というものに馴染み過ぎて、もはや愛人契約を結ぶ前の生活が思い出せない。肝心の報酬のほうはほとんど使っていないが。
 鍵を開けて部屋に入り、旅行鞄を洗面所に置くと、泉子はキッチンでお菓子と料理の整理を始めた。
 母が持たせてくれた料理はプラスチック製の容器に入っている。汁漏れの心配がなく、匂いも立たない数種類のおかずが、少量ずつ分けて詰められている。なんとなく後ろめたい気分になりながら、それらを冷蔵庫にしまう。
 ガスコンロでお湯を沸かし、お茶の準備に取りかかる。ゾールはさっさとテーブルの脇に座ってくつろいでいる。
 お湯が沸くのを待つ間、泉子はバッグから本を取り出し、『小瓶の悪魔』を立ったまま読み返し始めた。
 悪魔の瓶を買い取った人々は、当然ながらさまざまな願いごとをする。手に入れたいものを手にし、叶えたいことを次々に叶えていく。
 ぱらぱらと流し読みしていて、泉子はあることに気がついた。
 悪魔に願うことは人によってさまざまだが、他人に災いを及ぼしたいと願う人は、少なくとも文中には出てこない。
 欲しいものを願ってみて、それを持っていた他人が亡くなり、結果的に自分の手に入るという展開はある。泉子がゾールから聞いたことと反対である。
「やっぱり、性格が悪い人ってそんなにいないもんだね」
 泉子が脈絡なく口に出すと、ゾールが反応した。
「どういうことだ?」
「願いが何でも叶うって言われて、一番先に人の不幸を願う人なんて、あんまりいないんだなって」
 自分ならどうだろう。
 もし、ゾールから与えられる魔力が、災いだけではなく別の願いも叶えられたとしたら。最初のお試し期間で自分は何を願っただろう。
 考えてみたが思いつかなかった。欲しいものも叶えたいことも言い出せば無限に出てくるが、いざ現実になると思うと恐ろしくて願えない気がする。
 今、実際にゾールから授かった魔力だって、貯めるだけ貯め込んでほとんど使えていないのだ。契約を結ぶ前は、災いを及ぼしたい相手は無限にいると思っていたのに。
「魔力って、使わないで貯め続けるとどうなるの?」
「特にどうもならない。貯め込んだ魔力は小出しにして使ってもいいし、まとめて大きなことに使ってもいい」
「大きなことって――」
 泉子は言いかけて口をつぐんだ。
 背後のコンロから、お湯が沸き始める音がする。
 もっとも大きな災いが何なのか、それは人によってさまざまだと思うが、泉子はそのほとんどを起こすことができるのだ。
 泉子は本をテーブルに置き、振り返ってコンロの火を止めると、黙ったままお茶の準備を始めた。


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