悪魔来たりて紐を解く [ 6−4 ]
悪魔来たりて紐を解く

6.偏曲とホットプレート(4)
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 小瓶の悪魔の力で病気を治し、無事に恋人と結ばれても、ケアヴェの心は晴れない。死後に地獄に落ちることが決定したのだから当然だ。
 妻になった女性は彼の様子がおかしいことに気づき、ある日とうとうすべての事情を聞くと、こう提案する。
 フランスには一セントの五分の一に値する、サンチームという硬貨がある。フランス領の島に行って、悪魔の小瓶を売ってしまいましょう。

「泉子、内田(うちだ)さんの家って覚えてる?」
 母がシンクまわりを拭きながら切り出したのは、全員が朝食を終えて食器が片付いた時のことだった。
 帰省した時は昼食と夕食は家族でとるようにしているが、朝食は起きる時間がばらばらなので、各自が勝手に見繕って食べるのが常である。母が味噌汁とゆで卵を作って、魚を焼き、ご飯を炊いてくれるのだが、朝が早い両親は先にそれらを食べ、泉子は八時くらいに起きて食欲と相談しながら自分で配膳する。弟夫婦は幼児に食べさせてからなので不規則になる。
 ともあれ全員が食べ終わり、泉子は母を手伝って皿を洗い、生ごみを処分した。
「内田さんって、敦季の同級生の女の子がいた家? リホちゃんだっけ」
「そうそう。悪いんだけど、その内田さんのお宅に行って来てくれない? あれを持って」
 母が顎で示した先には、白いビニール袋に包まれたさくらんぼが置かれている。
「昨日、内田さんから野菜をもらったのよ。お父さんと買い物に出ていた間に。お礼の電話は入れておいたから、あれあんたが届けてくれる?」
 田舎あるある、留守中に玄関先に置かれた野菜のお裾分けである。手紙も入っていないのに誰からのものか特定できるのはすごいと泉子はいつも思う。
 特定ができたらお礼の電話を入れ、日を置かずにお礼を持って参上する。アポイントは取らない。地方社会の不文律である。
 これに比べれば、職場の女性同士のお菓子のやりとりなど、まだ可愛いものだと思ってしまう。
「私が行ってもわからないんじゃない?」
「誰? って顔されたら、篠山の娘ですって名乗ればいいでしょ。きっと懐かしがってくれるわ」
 母はシンクまわりの掃除を終え、まな板と包丁を置いて冷蔵庫の野菜を物色している。不規則な朝食を終えたらすぐに昼食の準備。母は当たり前のように体を動かしている。
 続きの居間のほうからは、父が観ているのであろうテレビの音声が漏れ聞こえてくる。
 泉子は二階で簡単に身支度を整え、さくらんぼのビニール袋を持って実家を出た。
 今年の大型連休は全国的に天気がいいとニュースで言っていた。広い空にはところどころに薄い雲が浮かんでいるが、それ以外は抜けるような水色である。紫外線が強そうなのが気になるが、たまにはゆっくり外を歩くのもいい。
 内田家までは子どもの足で確か十五分ほどだった。今の泉子ならもう少し早く着くだろう。
 実家のまわりは畑と水田が多く、隣接している民家はない。軽車両でもすれ違えないような小さな道にはほとんど車が通らない。泉子は緩んだ気分で景色を見ながら歩き始めた。
「――お義姉さん!」
 背後から声がかけられる。
 振り向くと、絢香が玲衣の手を引いて、泉子の後を歩いてくるところだった。二歳児の歩調にあわせているのでゆっくりだ。
 泉子は二人が追いつくのを待ってから口を開いた。
「絢香さん、どうしたの?」
「私も行っていいですか。玲衣が動きたがって、外を歩いたら落ち着くと思うんです」
「いいよ。玲衣ちゃん、一緒に行こうか」
 泉子が腰を屈めて話しかけると、玲衣は生真面目な顔でうなずいた。耳たぶあたりまで伸びた髪も、丸い頬も、人形のようにつややかで美しい。
「絢香さん、体調は?」
 昨日と重複すると思いつつ、泉子は同じことを訊いた。
「ありがとうございます。今回もつわりはそんなにひどくないです」
「無理しないでね。敦季は気が効かないし、辛かったらはっきり言ってやって」
「ありがとうございます」
 絢香はしきりに礼を言ってくる。
 泉子と絢香は仲が悪いわけではないが、特別に良いわけでもない。年に三回しか会わない義理の姉なんて、一緒にいても気を遣うだけだろうに、わざわざ追いかけてきて話をしようとするのはなぜか。何か訊きたいことでもあるのだろうか。
 ――そう思うのは泉子が面倒くさがりだからで、そうでない人にとっては、この程度のつきあいは苦でもないのだろうか。地元で結婚して、義理の両親と一緒に住み、二十代半ばからずっと子育てに時間を捧げている女性にとっては。
 玲衣の足どりを見守りながら歩く絢香が一瞬まぶしく見えて、泉子は思わず目をそらした。
「お仕事は明後日からですか?」
「うん。だから明日のお昼には帰るよ」
「大変ですね。お義姉さん、せっかくの連休なのにゆっくりできないんじゃないですか」
「何日かしたらまた週末だから大丈夫」
 共通の話題もないので、やはり同じような会話になってしまう。
 畑と畑の間を歩き続け、やがて篠山家といちばん近い民家の前まで来た。物干し場にも車庫の近くにも住人の姿がないので、泉子はほっとする。誰かがいたら無言で通り過ぎるわけにはいかない。
「昨日、言い忘れてたんですけど」
 絢香が思い出したように切り出した。
「二人目ができたこと、もうご近所のみなさんも知ってるので、秘密にしてもらわなくて大丈夫です」
「そうなの? ちょっと早いね」
 玲衣の時は安定期に入るまで親戚にも黙っていた。泉子はたまたまその前に帰省したので知らされたが、そうでなければもっと後まで知らなかったと思う。
「病院で、高校時代の部活の先輩と会っちゃったんですよね。詮索されたりはしなかったけど、きっと悟られてるだろうし、もう先に言ってしまおうかって。お義母さんや敦季と相談して決めました」
「……ああ」
 他人事ながら少々げんなりする。
 その先輩が噂好きというわけではないのだろうが、こうした地域で隠しごとをするのは難しい。他人に興味の薄い泉子でさえ、高校時代まではよその家族構成や親の職業を無駄に知っていた。
「その先輩もおめでたなの? 私も知ってる人かな」
「お義姉さんの一つ下だけど、中学はこっちじゃなかったので知らないと思います。先週生まれたみたいなんです。男の子」
「へえ、おめでたいね」
「上の二人が女の子なので、三人目でやっとだって喜んでいました」
 やっと。やっととは何か。二十代で三人も出産しているのだから、何一つ遅いことなどないではないか。
 何を意味するのかは泉子にもぼんやりとわかる。中学や高校の同級生でも、上の何人かが女の子で、末が男の子という家庭は多かった。きょうだいの多い家ほどそれは顕著で、一番上が男の子であればその下には一人しかいなかったり、あるいは一人もおらず一人息子だったりする。
 皇室じゃあるまいし、と思うが、地方に住む夫婦にとっては今も切実な問題なのだ。特に女性にとっては。
「玲衣ちゃんは、弟と妹、どっちがいい?」
 目の前に広がっているのどかな光景が急にグロテスクなものに思え、泉子はそれから目をそらすように明るい声で姪に尋ねた。
 玲衣はきょとんとして、泉子を見上げて黙り込む。大きな黒い瞳が硝子玉のように光っている。
「まだわかんないかー」
 泉子があえておどけた口調で言うと、絢香も声をたてて笑った。
 どっちでもいいじゃない、元気に生まれてきてくれれば。そんなこと気にしないで、体を大事にしてね。
 絢香にそう言ってやりたいが、泉子には言うことができない。都会で気楽に働いている泉子には見えていないものがきっとたくさんある。

 内田家に無事にさくらんぼを届け、帰りは玲衣のために少し回り道をして、三人で帰宅するともうお昼時だった。
母はコンロの側に立って揚げ物の準備をしていた。きっと一度も座っていないのに違いない。
「お義母さん、すぐ手を洗ってきます」
「いいのよ、ちょっと休んで。玲衣は敦季に見させればいいから。泉子は手伝ってね」
「はーい」
 台所に入るべきかまだ迷っている絢香に目くばせして、泉子は手を洗うためにシンクに向かう。
 居間からは、出かける前と同じく、テレビの音が聞こえてくる。
「お昼はそんなしっかりしたものじゃなくていいのに」
 コンロで油が温まり始めているのを見て、泉子は言った。
「お父さんが天ぷらがいいって言うから。ちょうど内田さんにいい野菜もらったしね」
「昨日も焼き肉だったし、コレステロール高すぎでしょ」
「今日の夕飯と明日で調整するから大丈夫。泉子もだけど、お父さんもせっかくの連休だしね。食べたいもの食べさせてあげないと」
 公務員の父はいつも忙しそうだが、母も介護施設で働いている。フルタイムの正規職員ではないとはいえ、心身ともにかなり重労働のはずである。
 父は昔から油っこいものが好きで、健康診断で何度も注意されている。我慢することも体を壊すことも避けるために、揚げ物を食べたら次の食事は油分抜きでと工夫している――父ではなくて母が。
「夕飯、簡単でいいなら私が作るよ」
 泉子が低い声で言うと、母は顔を上げずに笑った。
「ありがとう。でも、お母さんが作ってあげたいのよね。泉子にも敦季にもお父さんにも」
 母の横顔を泉子は見つめる。
 本当にそうなの、と訊きたいが訊けない。義妹に気休めの言葉をかけられなかったのと同じように。
 母は穏やかな表情のまま、液に浸した野菜を鍋に入れた。
 居間から聞こえてくるテレビの音声をかき消すように、油の跳ねる音が大きくなっていく。


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