悪魔来たりて紐を解く [ 6−3 ]
悪魔来たりて紐を解く

6.偏曲とホットプレート(3)
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 小瓶の悪魔の力で、念願の自分の家を手に入れたケアヴェは、小瓶を売って手放すことにする。
 家が完成した直後に魅力的な娘と出会い、婚約して幸福の絶頂にいたケアヴェに不幸が降りかかる。恐ろしい皮膚病に罹患したのだ。
 病を治して愛する人と結婚するため、ケアヴェは再び悪魔の小瓶を手に入れようとする。

 泉子は敷かれた布団の上に仰向けになり、天井板をぼんやりと眺めていた。
 疲れた。半日間、家事と会話をしただけなのに、実家で過ごすのはなぜこんなに疲れるのだろう。
 弟とはまあまあ波長があっているし、義妹には気を遣うがそれはお互い様だ。母は小うるさいタイプではないし、父とはそもそも会話らしい会話をしていない。
 それなのに、こうして二階に引き上げて一人になると、抑えていた疲れが押し寄せてぐったりしてしまう。職場での付き合いのほうが十倍くらいましである。
 ゾールに愚痴でも言いたいが、泉子が言いつけた通り夜は姿を現さない。隣に弟夫婦と姪がいるので、現れても話すことはできないのだが。
 夕食は母が宣言した通り、ホットプレートで焼き肉をした。台所で母が焼き、泉子が居間と往復して運ぶ算段だ。絢香も手伝うと言ってくれたが、体のことがあるので無理はさせられない。敦季は玲衣から目を離せないし、父ははじめから動くつもりがなく、居間の定位置に陣取って黙々と飲食していた。
 休み明けに出勤したら、部下にマグカップを洗わせるものの昼食の手配まではさせない課長が、可愛らしく見えてしまいそうである。
 夕食そのものも疲れたが、それ以上に参ったのはその後の儀式である。
 ホットプレートを洗い終えた母も今に来て、泉子が淹れたほうじ茶をみんなで囲むと、敦季はさりげなさを装って泉子に告げた。玲衣の弟が妹が生まれるのだと。
 父と母の手前、泉子も驚いたリアクションを取らざるを得ず、白々しい演技をしておめでとうと言うしかなかった。絢香は心なしか苦笑していた。
 どうせ儀式を避けられないなら、前もって聞いておかなければ良かった。
 泉子は長い溜息をつくと、ごろりと寝返りを打って枕元に置いていた本を取った。『小瓶の悪魔』が収録されているホラー短編集である。
 まだ読んでいない他の作品を読もうかと思ったが、新しいものを摂取する気分になれず、結局また同じページを開いた。読むというより見る感覚でぱらぱらとめくる。
 さすがにスティーヴンソンだけあって面白いのだが、何か引っかかる気がするのはなぜだろう。
 考えてもわからないので、作中で一度だけ悪魔が姿を見せる場面を読み返してみる。持ち主のケアヴェに呼ばれて、一瞬だけ瓶の口から顔を覗かせるのだ。具体的な容貌が描写されているわけではないが、トカゲのように素早いとだけ書かれている。おかげで泉子の中では悪魔のイメージがトカゲで定着しそうである。いや、悪魔ではなくてインプらしいが。
 とりとめもないことを考えていると、ドアを叩く小さな音がした。
 泉子の部屋は畳敷きの和室だが、出入り口は洋式のドアなのである。
「姉ちゃん、入っていい?」
 敦季の声だった。姉の部屋に入る時はノックしろと思春期にさんざん言い含めたので、その習性は今でもすっかり染みついているらしい。
「いいよ。入って」
 泉子が短く促すと、敦季はドアを開いて入ってきた。半袖のパジャマ姿である。おそらく母が買ったものだろう。
「どうしたの。絢香さんは?」
「玲衣を寝かしつけて、そのまま一緒に寝てる。姉ちゃん、もう寝るの? まだ九時にもなってないじゃん」
「ちょっと移動で疲れちゃって」
 実家は夕食も入浴も時間が早い。父と母は今ごろ居間でテレビでも観ているだろう。
 せっかく帰ってきたのだから、泉子もそこに加わって話でもするべきかもしれないが、今日だけは勘弁してほしい。
 そのかわり、明日は一日家にいて、埋め合わせをするつもりである。
 敦季が畳の上に腰を下ろしたので、泉子も布団から起き上がった。
「……何、改まって」
「いや、今日は悪かったなと思って」
 夕食後の儀式で小芝居をさせたことか。
 確かに疲れたが、何も敦季や絢香を恨んでいるわけではないので、泉子は隣に聞こえない程度に少し声を上げる。
「あのね、私もおめでたいと思ってないわけじゃないからね。私だって玲衣ちゃんは可愛いし」
「うん。絢香も有り難がってた。姉ちゃんがさりげなく気を遣ってくれたって」
「一年に三回しか会わないんだから、お互い気を遣うのは当たり前でしょ」
 そう、年にたった三回のことなのだ。一週間のうち五日も顔をあわせる職場の面々とはそこが違う。
 それなのに、こんなに疲れてしまうのは何なのか。
「姉ちゃん、今年はいつまでいるの」
「いつも通り。明後日のお昼を食べたら帰るよ。次の日から仕事だし。悪いけど、また駅まで送ってくれる?」
「うん。明日もずっとうちにいんの?」
「そりゃ、せっかく帰って来たんだしね」
「こっちの友達とかは? 同窓会とかしないの?」
 同窓会なら東京でした。その時に再会した理於(りお)依加(よりか)とは、今でも連絡が続いている。
 泉子の高校までの友人はほとんどが県外に出ている。地元に残っている者もいないこともないが、わざわざこちらから連絡を取って会うほど親しくはなかった。
「しないよ。みんな忙しいだろうし」
「大人になると連休でもなかなか会えなくなるもんだな。仕事が休みでもみんな家庭とかあるし」
 敦季は大学は泉子と同じく東京で通った。二つ違いなので二年間時期が重なっていて、一緒に暮らしはしなかったが時々示しあわせて会った。敦季が就職活動を始める時に、泉子が学生時代の知人を紹介したこともあった。
 結局、敦季は東京では就職せず、実家に戻って地元では名のある老舗企業に入り、二年後に結婚したのだが。
「友達、みんな結婚してるの?」
 泉子は尋ねた。
 敦季は二十七歳――もうすぐ二十八歳だが、地方なので全体的に結婚年齢は低い。
「みんなってことはないけど、仲が良くてこっちに残ってる奴はほとんどしてるかな。してない奴も彼女がいて秒読みだったり、婚活してたり」
「こっちで婚活って何やるの」
「友達とか先輩後輩の伝手たどってるんじゃね。お役所が主催の婚活パーティーとかはあるけど、ああいうのは親とか親戚にバレてめんどくさいだろうし。俺も職場の人に何度か紹介したことあるよ」
 こちらでは結婚相談所も近くにないし、民間が提供するイベントもないし――と、いささか馬鹿にしていた。資金をつぎ込む先がないぶん、人脈とフットワークが重要らしい。
 友人知人の紹介で知り合った場合、上手くいったとしても破綻した時が面倒なのでは、と泉子は思ってしまうのだが。そこは破綻させないように努力するしかないのだろうか。
「ふーん、大変そうだね」
「まあ、婚活はどこでも大変だろうけどさ。けっこう上手くいって楽しそうにしてる人たちもいるよ。姉ちゃんにも誰か紹介しようか?」
「結構です、ありがとう」
 泉子は不自然な笑みを顔に貼り付け、中学英語の訳文のようなフレーズを述べた。
 話の途中から、敦季にこれを訊かれるだろうとうっすら予想していたのだ。
「……だよなー。そう言うと思った」
「お母さんに頼まれたんでしょ。お疲れ様です」
「そのぬるい笑顔やめて。まあ、俺はこれでミッション達成したんで」
「お疲れ様でした。まわりくどいことしないで、すぱっと訊いてくれて良かったのに」
「……母さんへの報告は?」
「悪いけど、あんたが自分でやって」
 敦季が提案してくれたんだけど、私は今はそのつもりはないから断ったよ――などと、さりげなさを装って母に切り出す気力は泉子にはない。ミッションを引き受けた敦季に最後までやり遂げてもらおう。
「やっぱりさ、東京でやりがいのある仕事してると、結婚したいとは思わなくなるもん?」
「別にやりがいとかないけど。生活費とほしいものを買うために働いてるだけだし」
「それがやりがいなんじゃないの」
「――まあね」
 泉子はうなずく。
 間違っていないが、それが結婚したくない理由というわけではない。
 泉子が結婚しないのはひとえに面倒くさがりだからである。誰かと一緒に高級和牛を焼いて食べるよりも、一人でコンビニ弁当を食べるほうが楽しい。そのために働いているようなものだ。
 ――つまり、敦季の言った通りなのか。
 一瞬そう思ったが、弟にこと細かに打ち明けるようなことでもない。敦季にはもっと大切なことがある。
「まあ、生活は安定してるから心配しないで。敦季や絢香さんに迷惑かけるようなことはしないから」
「そんなこと思ってないけどさ。やっぱり、住んでる場所によっていろいろ変わってくるのかなって」
「いろいろ――ねえ」
 あんた、ひょっとして東京に残りたかったの?
 泉子はそう訊こうとしてやめた。就職活動の際に知人を紹介したりスーツを選んでやったりはしたが、問題の根幹となるような相談は受けていなかった。敦季が姉に打ち明けたくないことはこちらも深堀りしてはいけない。
 敦季は俗に言うところの田舎の長男である。四半世紀の人生であきらめたものが一つもなかったということはないだろう。泉子としてはそれを察してやる他にない。
「んじゃー、疲れてるとこ悪かったよ。おやすみ」
「おやすみ」
 敦季が立ち上がり、部屋から出ていくのを、泉子は視線だけで見送った。
 ドアが閉まると、布団の上に身を起こしたまま、短編集を開く。敦季と話している間も膝の上に置いていたのだ。
 『小瓶の悪魔』のケアヴェは結婚するために再び小瓶を手に入れようとするが、さまざまな人の手を経て瓶の値段はどんどん下がり、一セントで買うしかなくなっていた。
 アメリカにはセントより安い硬貨はない。一セントで悪魔の小瓶を買ってしまったら、もう誰にも売ることができない。小瓶を所有したまま人生を終えて地獄に落ちるしかない。
 恋人のことしか考えられないケアヴェは、そのことを知りながら、悪魔の小瓶を再び買い戻す。
 悪魔に魂を売るとはこのことか。そうまでして結婚したいのか。
 泉子はそう思ったが、すぐに人のことは言えないと気づいて微妙な気分になった。
 自分だって、他人に災いを及ぼすために悪魔と愛人契約をした身である。


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