悪魔来たりて紐を解く [ 6−2 ]
悪魔来たりて紐を解く

6.偏曲とホットプレート(2)
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 ケアヴェは小瓶の悪魔の力を使い、長く望んでいたものを手に入れた。
 自分の家を。

「お父さん――ただいま」
 居間の扉を開けながら、泉子は言った。
 テレビから複数の談笑の声が響いてくる。
 泉子の父はその真正面にある二人掛けのソファに腰を下ろしていた。父の定位置である。仕事が休みの日はここに座って新聞を読むか、テレビを見るかしている。
「おかえり」
 父が顔を上げて言った。
 父は母より二つだけ年上で、まだ還暦前だが、見た目だけだともっと上に見える。会うたびに白髪の割合が増え、体はひとまわり小さくなっている。
 年に三回しか会わないからそう思うのかもしれないが。
「お母さんがお茶にしようって。羊羹買ってきたけど、食べる?」
「先に仏壇に上げてきなさい」
「はい」
 手土産を持って実家に帰ってきたら、まず仏前に供えて手をあわせる。一人暮らしを始めた学生のころから言われているので、泉子にとっても習慣になっている。
 父はそれきり言葉を発さず、テレビに視線を戻した。
 テレビに映っていたのはバラエティの特番のようで、女性アナウンサーと芸人らしい男性が並んで話している。泉子はテレビをほとんど観ないので、妙に新鮮な感じがする。
 父は昔からテレビが好きである。自分は無口なわりに、賑やかで騒々しい番組をよく観ている。
「姉ちゃん、これ土産かって母さんが」
 扉ががらりと開き、敦季が細長い箱を手にして入ってくる。電車に乗る前に泉子が買った羊羹である。
「そう。後で切るけど、先に仏壇に上げてくるね。他の荷物は?」
「母さんが姉ちゃんの部屋に運んだ。車にはもう何も置いてなかったよな」
「ないよ。ちょっと上に行ってくる。玲衣ちゃんにもお土産があるから」
「いつもありがとうございます、お義姉さん」
 敦季の後ろから、玲衣を連れた絢香も顔を覗かせている。
 泉子は敦季から羊羹の箱を受け取ると、今を後にした。
 和室で仏壇に羊羹を供え、手をあわせてから、階段を上って二階へ移動する。
 泉子の部屋は小学生時代から使っている八畳の和室である。一人暮らしのための家具は進学の際に揃えたので、学習机や洋服箪笥は今もそのまま残してある。中学生の時に和室が嫌でカーペットを敷いてもらったが、今ではそれは取り払われて色褪せた畳が見えている。
 旅行鞄を開けて荷物を整理していると、隣に黒い影が現れた。電車を降りた時から姿を消していたゾールである。
「悪いけど、この家では話しかけないで」
「俺は話しかけてないぞ」
「いや、今はいいんだけど、夜。隣で弟たちが寝てるから」
「承知した。ここが泉子の生まれた家か」
 ゾールは畳の上に無造作に座り、興味深そうに部屋の中を見回している。黒スーツに包まれた長い手足は古びた内装に不釣り合いである。
「――どう思う?」
 珍しく、自分のほうからゾールに感想を求めてしまった。
 都会で一緒に暮らしている男――悪魔だが――に、実家や親きょうだいを見られるというのは、何かを試されているようで緊張する。大げさな言い方をすれば、自分のこれまでの人生をさらけ出して、現在と照合されているような、そんな感じだ。
「まあ、良いのではないか」
「――それだけ?」
「俺は愛人の経歴には興味はないからな。和室で見る泉子も美しいが、鎖骨に触れるのは遠慮しておこう。親の前での慎みというものがあるだろうから」
「それはどうも」
 思いのほか良識的な悪魔の対応に拍子抜けする。確かに、実家にいる間に誘惑されても困るのだが。
 これが悪魔ではなく人間の恋人ならどうなのだろう。都会で親しくなった男性を初めて実家に連れてきて、両親に引き合わせるという場面だったら。
「お茶の準備してくる。悪いけど下には来ないでね」
「なぜだ。姿は消すし泉子にも話しかけないぞ」
「羊羹切るけど、ゾールにはあげられないから」
 ゾールがついてくることがわかっていたら、手土産に甘いものは避けたのに――と思ったが、実際はどうだったかわからない。父が和菓子好きなので結局は買ってしまっていた気もする。
「俺は別に構わんぞ。泉子と親きょうだいの団欒をゆっくり見守らせてもらおう」
「じゃあ好きにして。家の中もご近所とかも見てきていいよ」
「羊羹は帰りに買ってくれ」
「……はいはい」

 泉子が一階に降りて台所に向かうと、母と絢香がすでに忙しく立ち働いていた。コンロからお湯が沸き始める音が聞こえている。
 篠山家は泉子が物心つくかつかないかの時期に建てられたのでかなり古いが、台所や水まわりは四年ほど前にリフォームした。敦季が結婚する少し前のことである。
 システムキッチンになって料理がしやすくなったと母は言っているが、泉子が見る限り仕事量はそう変わっていないように思える。
「泉子、和菓子用のお皿とって。一番上の段にあるから」
「すみません、お義姉さん」
 茶葉を量りながら母が言い、絢香も言葉を添える。絢香はシンクの前に立ち、めったに使わない泉子の湯呑を洗ってくれている。
 泉子は食器棚の扉を開けた。踏み台がなければ手が届かないほど大型のものだが、上から下までびっしりと食器で埋まっている。大人四人にしては多すぎるだろうといつも思うが、どの器もそれなりに出番があるのが不思議である。
 泉子は踏み台に上り、母の言ったとおり最上段にめあての皿を見つけた。五枚数えて取り出すと、絢香が脇に来てくれたのでうなずいて手渡した。
「玲衣ちゃんは?」
「敦季が見てくれてます。もう目が離せなくて」
「泉子、悪いけどホットプレートも出してくれる? こっちの棚にあるから」
 母に指示されて、泉子は今度はシンクの下からホットプレートを探して取り出す。母は重いものや高い場所からさりげなく絢香を遠ざけている。
「ホットプレート、何に使うの?」
「夕飯にお肉を焼こうと思って。いい和牛を買ってあるのよ」
「居間で焼くの? 玲衣ちゃんが触りたがって危ないんじゃないの」
「だから、お母さんが台所で焼くから、泉子が運んでくれる? 行ったり来たりでゆっくり食べられなくて悪いんだけど」
「……それならフライパンで焼いて、盛りつけてからみんなで食べればいいじゃん」
 泉子と敦季が育ち盛りのころは、よくホットプレートを居間に設置して焼き肉をした。当時も母は焼くのに忙しく、自分はあまり食べていなかった気がする。
「でも、お父さんは焼きたてを食べたいだろうから」
 急須に湯を注ぎながら、母は穏やかに話している。長方形の盆の上にはすでに五人分の湯呑と、幼児用のプラスチックのカップが並べられている。
「すみません。玲衣は珍しいものには何でも触りたがるので」
 絢香に申し訳なさそうに言われ、泉子は慌てて首を振った。
「絢香さんが謝らなくても……大変でしょ、玲衣ちゃん、目が離せなくて」
「すみません」
 絢香はまた謝った。手のかかる幼い子を育てていて、これから二人目も産むというのに、限りなく肩身が狭そうである。
 泉子も三十手前の独身女性であるために居心地の悪さを感じることはあるが、既婚者で子どものいる女性でも結局は同じ目に遭うのだなと思う。
「敦季は育児ちゃんとやってる? 大して役に立たないだろうけど」
「いえ、助けてくれてます。――お義姉さん、これ開けていいですか」
「あ、ごめん」
 羊羹の箱をまだ開けてなかったことに気づき、泉子は慌てて答えた。

「姉ちゃん、休みはカレンダー通り?」
 フォークで羊羹を切りながら、敦季が尋ねる。
 居間のテーブルを大人五人、子ども一人で囲んで、日本茶と羊羹を味わっているところである。姪の玲衣は敦季の膝に座り、買い置きしてあったらしい幼児用ビスケットを手に持っている。
「そう。敦季もでしょ」
 毎年同じ会話をしているなと思いながら、泉子は日本茶をすすった。
「合間に有給取って、連休長くしてる人もいるけどね。俺はまだそこまで度胸ないわ」
「度胸ってか計画と根回しじゃないの。対策なしで連休取ったらそりゃ白い目で見られるよ」
「どんだけ仕事の調整しても、こっちじゃ長い休み取ろうとしただけで総スカン喰らうの。都会はどうなのか知らないけど」
「都会関係ある?」
「あるよ」
 泉子は新卒で入った今の会社でしか働いたことがないので、何とも言えない。そこだって、朝礼で企業理念を唱和するような社風だが。
 姪の玲衣がビスケットに飽きたらしく、敦季の膝から抜け出してフローリングの上に座りこむ。手にしたものを片端から投げるのがブームなのか、泉子がお土産にあげたぬいぐるみも床に叩きつけてきゃっきゃと喜んでいる。悪魔である。
「お義姉さんはお仕事、お忙しいですか?」
「今はそうでもないよ。繁忙期は戦争だけどね」
「アパレル系だし、大変そうですよね」
 絢香が感嘆のまなざしを向けてくる。
 アパレル系と言っても、泉子の会社が作っているのは制服や作業着である。大手の工場や物流会社といくつか契約を結んでいるので、業績は安定していて給与も悪くないが、アパレルという言葉から喚起されるキラキラした雰囲気は微塵もない。
 絢香は短大を出て数年はスーパーで働いていたが、敦季と結婚して玲衣ができた時にそれも辞めてしまった。そのためか、会社員、オフィスワーカーというものをどうも過大評価しているようなふしがある。
「大変は大変だけど、気楽だよ。業務はずっと同じだし」
 泉子は慎重に言葉を選んだ。育児のほうが大変でしょう――と言おうとしたが、少し迷ってやめた。
 こういう会話は存外デリケートである。外で働く女性と内で働く女性。自虐のつもりで言ったことも相手にはマウンティングに聞こえることがある――と、何かで読んだ。絢香は神経質なタイプではないと思うが、念を入れるに越したことはない。
「好きなことだけしていれば、それは気楽だろう」
 ぼそりと言う声に、泉子と絢香、敦季は同時に顔を向けた。
 父は何事も発しなかったかのように、無言で羊羹を口に運んでいる。


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