悪魔来たりて紐を解く [ 6−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

6.偏曲とホットプレート(1)
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 隣の窓際の席が空いたので、泉子(もとこ)は立ち上がってそちらに移動した。
 電車の車窓から見える景色が少しずつ変化していく。大型の建物がまばらになり、視界が開け、緑を目にすることが多くなる。
 泉子はタブレットをハンドバッグにしまい、かわりにカバーをかけた文庫本を取り出した。電車に乗る前に駅の書店で買った、海外作家のホラー短編アンソロジーである。長時間移動する時はいつも厚めの長編小説を読むのだが、軽めのホラーが読みたい気分だったので買った。短編集ならきりのいいところでやめて帰りにも読めるのでちょうどいい。
 目次を眺めて、頭から順番に読むか、気になったものから読むか考えていると、隣で声がした。
「あとどのくらいで着く?」
 泉子が先ほどまで座っていた通路側の席に、ゾールが座っていた。五月になっても以前と同じ黒のスーツで、長い脚を窮屈そうに折り畳んでいる。
「……ついてきたの」
「悪魔は好きなところに行くからな。たまには列車の旅も良いものだ」
「まだ一時間近くかかるよ」
「構わんぞ。時間の潰し方はいくらでもある」
 ゾールは片方の肘を座席の手すりにつき、横目で泉子を見つめた。
「田園風景を背にしても泉子は美しいな」
「骨がね。てか、田園ってほどの田舎じゃないから」
 悪魔の戯れ言を適当にあしらい、泉子は再び本の目次に視線を落とす。
 エドガー・アラン・ポー、アルジャーノン・ブラックウッド、レイ・ブラッドベリなど、錚々たる作家の名前が並ぶ中、悪魔という単語が目に入り、泉子は視線を止めた。
 『小瓶の悪魔』――作者はロバート・ルイス・スティーブンソン。読んだことのない作品である。
 泉子はページ数を確認し、その作品の冒頭を開いた。
 十九世紀ロンドンの話かと思ったら、舞台はハワイ島だった。
 ハワイ生まれの青年ケアヴェが、見聞を広めるために訪れたサンフランシスコで、通りがかりに招かれた豪邸の主から、ある取引を持ちかけられる。手持ちの五十ドルで、ガラスの小瓶を買い取らないかと。
 豪邸の主は言う。この瓶は地獄の火で焼かれたガラスでできており、中に一匹の悪魔が住んでいる。その悪魔の力を使えば、富でも、名声でも、誰かの愛でも、望むものは何でも手に入れることができる――
「ゾール」
 泉子は本から顔を上げて隣を見た。声を落とすのを忘れていたが、どうせ他の乗客はこちらを気にしていないだろう。
「なんだ」
「この悪魔、願いごとを何でも叶えてくれるみたいなんだけど。ゾールがくれる魔力は誰かに災いを起こすことしかできないんだよね?」
 ゾールは泉子の本を覗きこみ、数行目を通してから答えた。
「こいつは俺の同類ではない。原題を見てみろ」
「原題?」
 泉子は読んだページを戻り、扉絵の裏を確認した。The Bottle Imp――DevilではなくImp。
「デビルとインプってどう違うの」
「知らん。とにかくこいつは俺と同類ではないからな。同じことができるできないとクレームをつけられても困るぞ」
「いや、クレームつけるつもりじゃないけど」
 インプはよく小悪魔とも訳されていると思うが、悪魔より小悪魔のほうが幅広い力があるように書かれているのは、悪魔の沽券的に良いのだろうか。
 泉子としてはゾールにもらった魔力もほとんど使っていないので、これ以上何かを与えると言われても喜べないので良いのだが。
「原題とか詳しいね、ゾール」
「何人前かは忘れたが、過去の愛人もこれを読んでいた」
「やっぱり」
 泉子はゾールとの会話を切り上げて読書に戻った。
 ケアヴェが五十ドルで買った悪魔の小瓶は、本当に望むものを何でももたらしてくれた。
 ただし、その瓶には二つの難点があった。
 瓶を手にしたまま人生を終えた者は、地獄の業火に落ちる運命が待っていること。
 それを避けるために瓶を手放す際は、自分が買い取った時よりも安い値段で他人に売らなければならないこと。
 電車の揺れる音を聞きながら、泉子は読み進めた。短編小説にしてはやや長めのようで、思ったよりは時間がかかった。
 読み終えたのは、目的駅の一つ手前への到着を、車内アナウンスが告げ始めた時である。
 泉子は本を閉じてバッグにしまうと、立ち上がって網棚から荷物を下ろした。乗った時よりもずいぶん空席が増えている。
「もう着いたのか?」
「この次だけどね。降りる準備」
 今日は五月三日。大型連休の後半だ。
 一年に三回の重労働、実家への帰省の始まりである。

「姉ちゃーん!」
 両手に荷物を抱えて改札を出ると、半袖を着た若い男が大きく手を振るのが見えた。
 泉子は振る手が残っていないので、相手に向かって足早に歩き始める。相手のほうも小走りに近寄ってきて、泉子の荷物に手をかけた。
敦季(あつき)、迎えありがと」
「いーよ。なんか今回は荷物多いね」
 黒の旅行鞄と、サブバッグの手提げ袋を持ち上げながら、弟の敦季は言った。半袖から伸びた腕は早くもうっすらと日焼けしている。
「あんた寒くないの」
「姉ちゃんこそ、暑くないの」
 泉子はデコルテの開いたブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織り、春用のロングスカートをあわせている。対する敦季は半袖のTシャツにハーフパンツ、足もとは裸足につかっけである。
 別に南国に来たわけではない。東京から実家の最寄り駅までは、在来線と私鉄でたかだか一時間半ほどだ。
 姉が寒がりなのか、弟が暑がりなのか。これは昔から永遠に答えの出ない問いである。
絢香(あやか)さんと玲衣(れい)ちゃんは元気?」
 白い軽ワンボックスが走り出すと、泉子は助手席で尋ねた。
 絢香は敦季の妻、玲衣は二歳になる二人の娘である。
「元気元気。玲衣はすっげ動きまわるから、覚悟しといて」
「何の覚悟よ」
「目が離せないんだよ。何でも触りたがるし、手に取ると投げるし。大事なものとか壊れものは玲衣に見せないようによろしく」
 ハンドルを回しながら、敦季は目を細めている。
 二つ年下の弟が、地元の老舗企業に就職してたった三年で結婚すると聞いた時は、さすがに早すぎるのではと泉子は思ったが、すっかり家庭人の顔になっている。
 姪が可愛いのは泉子も同じなので、笑って応じた。
「わかった。気をつける」
「うん。あと、絢香は二人目ができたから。そこもよろしく」
「――は?」
 のどかに続く車外の風景を見ながら、泉子は声を上げた。自分が運転していたら間違いなくブレーキを踏んでいた。
「何その反応。別におかしくないだろ、玲衣の二つ下だよ」
「おかしいのはあんたの伝え方。今日の夕食の時とか、みんな揃ってる時に言うことじゃないの。お父さんにそうしろって言われなかった?」
「言われたよ。だから先に姉ちゃんに言っとく。父さんと母さんの前では驚いたふりしてあげて」
「絢香さんは?」
「絢香には、姉ちゃんには先に俺から伝えるって言ってあるから」
 ハンドルを手に、まっすぐ前を見つめながら、敦季は淡々と続ける。
「俺ああいうの苦手なんだよ。家族揃って食卓を囲んで重大発表――みたいな。玲衣の時も、結婚する時もやらされたけどさ。そんな改まって言うようなことかよって」
「改まって言うようなことだよ」
 泉子は呆れたが、弟の感情は理解できた。勢揃いした家族を前に、箸と杯を置いて、人生の節目が来たことを告白する――そんなホームドラマのワンシーンのような儀式は泉子も苦手だ。
 敦季と泉子は似ていないようで似ているのである。
「何にしろ、おめでとう」
「ありがとう」
 フロントガラスから目を離さずに、姉弟で短く言葉を交わしあう。

 最寄り駅から車で十五分。
 篠山(ささやま)家はこの地方ではありふれた、二階建て瓦屋根の庭つき畑つき一軒家である。
 畑と言っても、多少スペースの広い家庭菜園に過ぎず、今は大部分を使わずにシートで覆っている。植木で区切られたごく狭い一角で、母が季節ごとに花を育てているくらいだ。
 敷地内で幅を利かせているのは三軒の車庫で、すべて自家用車で埋められている。それでも足らず一台の軽トラック――田舎の必需品――は、屋根もない庭の一角に停められている。
 敦季がワンボックス車を玄関に寄せて停めてくれたので、泉子は助手席から降り、荷物を両手に持って実家の引き戸に対峙した。インターホンに手を伸ばそうとしたのと同時に、カラカラと音を立てて玄関が開く。
「泉子。おかえり」
「ただいま」
「車の音がしたから出てきたのよ。荷物はこれで全部?」
「うん」
 玄関から足を踏み出して、母は泉子の旅行鞄に手をかけた。くたびれた長袖Tシャツにデニム、その上にエプロンを羽織っただけの姿だが、髪は根元までしっかりとダークブラウンに染められている。
「お父さんと絢香さんもいるの?」
「もちろん。夕飯まで時間あるから、みんなでお茶にしましょう」
 広々した玄関で靴を脱ぎ、母に続いて家に上がると、スリッパの足音が近づいてくるのが聞こえた。とんとんと不規則に床板を響かせる音も。
 廊下から姿を現したのは、義妹の絢香と、姪の玲衣である。玲衣は絢香に手を引かれて、おぼつかない足どりで廊下を歩いてくる。
「お義姉さん、おかえりなさい」
「久しぶり。絢香さん」
 おめでとうと言いそうになったが、母がいることを思い出して泉子は口をつぐんだ。公式発表があるまでは知らないふりをする。職場でも家庭でもそれがマナーである。
「お父さんは居間?」
「そう。行ってあげて」
「先に荷物――」
「部屋に置いておくから」
 母はそう言って、泉子の手提げ袋も奪い、いそいそと階段のほうへ歩いて行った。
 残された泉子と絢香は、思わず苦笑を交わしあう。
「絢香さん、体調はいいの?」
 小声で尋ねると、義妹も小さな声で答えた。
「ありがとうございます。早くお義父さんのところへ行ってあげてください」
 二人の間で、玲衣がきょとんとして立ち尽くしている。
 泉子は絢香にうなずき、居間へ続く廊下を歩き始めた。


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