悪魔来たりて紐を解く [ 5−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

5.無法とラブロマンス(5)
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「どう。少しは良くなった?」
 征嵩が突っ伏していた顔を上げたのを見て、泉子は尋ねた。
 東京駅の新幹線乗り場に近い休憩スペースである。旅行鞄やスーツケースを携えた人でほとんど満席だったが、運良く丸テーブル一つと椅子一つが空いていた。泉子はとにかく征嵩を座らせ、液体タイプの風邪薬とペットボトルのミネラルウォーター、冷却シートとマスクを買って戻ってきた。
 泉子の電話で合流した東は、新幹線の指定席を取りに行ってくれている。出張の際は会社から自由席のチケットが出るが、指定席に座りたければ自費で差額を払って席を予約しなければならない。
「ん――まあまあ」
 征嵩はペットボトルを自分の額にあてている。薬を飲ませる前より顔色が良くなったようなので、泉子はほっとした。
 金曜日に話した時は飲みに行く程度に元気そうだった征嵩が、まさか東京駅でスーツケースを引いたまま倒れているとは。本人曰く、倒れていたのではなく階段に座って休んでいただけだったらしいが、心臓が止まりそうになったこちらの身にもなってほしい。
「土日の間、実家で休めたんじゃなかったの?」
「休むつもりだったけど、正月でもないのに親戚とか親の知りあいとかが次々に来て、気がついたら飲ませたり飲まされたり……」
「ああ……」
 泉子は征嵩に同情した。
 社会人歴も長くなってくると、実家への帰省は休暇ではなくなる。気疲れするという点では仕事以上の重労働かもしれない。
「今日は平日で来客もなかったから、さっさと出てきたんだけどさ。時間の潰し方が決まらなくてうろうろしてたら、いつの間にか熱が上がってたらしい」
「暇なら早く新幹線に乗れば良かったじゃん。そうしたら今日一日は大阪で休めたのに」
「東が仕事帰りに見送りに来てくれるって言うから」
「東さんはそんなのキャンセルされても気にしないよ」
 征嵩がだるそうに頬杖をつき直し、ペットボトルを自分の首筋にあてた。結露が滴り落ちて征嵩の襟や肩を濡らしている。泉子はペットボトルを奪ってタオルハンカチで拭ったが、開栓もされず征嵩の熱を冷ましていたそれはすっかり生ぬるくなっている。
 自分と東に買った緑茶のペットボトルの一本を泉子が差し出すと、征嵩は有り難そうに受け取って額にあてた。
「ありがとう。泉子は面倒くさがりなのに面倒見がいいよな」
「は? 面倒見良くないし」
「いや、なんで褒め言葉のほうに切れてんの」
 征嵩が弱々しく笑った。
 泉子が面倒くさがりなのは事実だ。だから征嵩とも続かなかった。嫌いになったわけではなかったのに、一緒にい続けるための努力ができなかった。
「――てか、名前」
 落ち込みかけたのをごまかすように、泉子はきつめの口調で病人を咎めた。
「会社の外だからいいじゃん。東はどうせ知ってるし」
「いや。そりゃ知ってるだろうけど」
「今の彼氏が気にする?」
 泉子はぐっと言葉に詰まった。
 征嵩はペットボトルの下から、屈託のない目で泉子を見ている。
「――気にしないよ」
「それは良かった」
「良かったじゃないよ。そっちもいるんでしょ」
「うん。というか、結婚する」
 泉子は驚かなかった。
 征嵩は泉子のように面倒くさがりではなかった。触れあいたい時や好きなものが違っても、自分を曲げずに相手を尊重できる人だった。踏み込んだり踏み込まれたりすることに疲れはしても折れてしまうことはなかった。
 だから泉子も泥沼にならずに話しあいができたし、別れた後もこうして同期として関わることができる。
 返す言葉を考えている間に、泉子は気がついた。東は、泉子にこれを聞かせるために、泉子を見送りに連れてきたのだ。別の社員の口から噂として聞くよりも、征嵩本人から聞いたほうがいいと考えて。お節介だと思うが不思議と腹は立たない。
「ふーん……ちょっと早いんじゃないの」
「早ないでー、俺らもう三十やでー」
「似非関西弁やめろ」
 泉子が辛辣に斬って捨てると、征嵩は声を上げて笑った。緑茶のペットボトルが額から離れる。
「具合良くなった?」
「うん」
 東はまだやってこなかった。券売機か窓口が混雑しているのだろう。
「ありがとう。泉子と東が来てくれなかったら、今ごろ野垂れ死んでたよ」
「大げさでしょ。それにしても、風邪引きやすいの変わってないね」
「俺、根性ないからさ」
 泉子は征嵩の顔を見つめた。
 根性なし――だっただろうか。むしろ逆だったと思う。その証拠に二十代で昇進しているし、新入社員にも慕われている。風邪を引きやすいのは体質の問題だから仕方がない。
「いったん倒れたら起き上がれないんだよ。あと少し力を出せば助かるかもしれないのに、ぼろぼろになってまで生き残るのが嫌でさ」
 ひょっとして、四年半前のことを言っているのだろうか。
 征嵩の異動を機に別れたいと言ったのは泉子のほうだ。征嵩は続けたいと思っていたようだが、話しあいの末に泉子の希望を呑んでくれた。
 あの時、征嵩は倒れていたのか。あと少し力を出せば続けられるかもしれないと思いながら。
 泉子は息を吸い、試すような気持ちで言った。
「助け起こすほうが面倒くさがりじゃ、しょうがないよ」
「そうだよな」
「――私、冷たいものもっと買ってくる」
 バッグを手に席を立ち、自動販売機を探して小走りに進みながら、泉子は胸の動悸を落ち着けようとした。
 征嵩がどういうつもりで言ったのかはわからない。泉子の読みが当たっていたとしても何も変わらない。
 数本のペットボトルを手に征嵩のもとへ戻ると、ちょうど東も歩いてきて征嵩にチケットを差し出していた。
「ぎりぎり席取れた。通路側だけどな」
「座れたらなんでもいい。ありがとう」
 征嵩は財布からお札を取り出して東に渡した。
 テーブルに置かれた新幹線のチケットを泉子は盗み見る。出発時刻まであと二十分もない。
「はい」
 目の前に数枚の千円札が突き出され、泉子の視界を塞いだ。
「こんなにかかってないけど」
「迷惑料だよ。入場券まで買わせて悪かったな。東も」
 泉子はお札を受け取った。他人行儀だなとは思わない。つきあっていたころに看病に行った時も、薬や食材の代金はきっちり受け取っていた。
「もう一日休まなくていいの」
「薬も飲んだし、車内で寝てれば治るよ」
 征嵩が意を決したように立ち上がった。大儀そうではあるが、ふらつくことはなかった。
 新大阪で迎えに来てくれる人はいるの、という問いかけを、泉子は呑み込んだ。
「二人ともありがとう。また三人で飲もうな」
「三人で飲んだことなんかないけど」
「そこは雰囲気だろ。――もうここで」
「いや。入場券買ったし、ホームまで行くよ」
 東が当然のように言ったので、泉子も二人の同期と一緒にエスカレーターに乗り、結局のぞみの車体が動き出すまで見守った。
 自己嫌悪は消えない。泉子が面倒くさがりである事実は揺らがない。
 けれども、泉子が面倒くさがりであるのと同じくらい、征嵩は根性なしだった。面倒くさがりと根性なしでは続くはずもなかったのだ。
 遠ざかっていくのぞみを見送りながら、征嵩の婚約者が面倒くさがりでなければいいなと、泉子は思った。

 タブレットで『愛の陰影』の続きを読みながら、泉子は寝返りを打って隣を見た。横たわったゾールがにやにやと笑いながら泉子に見入っている。
 最近のゾールは、暇さえあれば泉子の骨を見つめて楽しんでいる。
「クリームブリュレ食べてきていいよ、ゾール」
 泉子はタブレットを手にしたまま言った。せっかく東京駅まで行ったので、美味しそうな生菓子を何種類か見繕ってきたのだ。
「泉子が今日食べないなら明日でいい」
「めずらしいね」
 ゾールは泉子が食べなくても平気で食べる。それを見越して、賞味期限の短いお菓子を多めに買ってきたというのに。
 ゾールは片方の肘を立てて自分の頭を支え、ほとんど動くこともなく泉子を見つめていた。締まりのないにやけ顔をしていても、素材が良いので愛嬌を増すことにしかならない。まばたきもしない黒目がちの両目は硝子玉のように済んでいる。
 佐伯の言葉ではないが、まさしく目の保養だ。泉子は面食いなのである。
「――ゾールは風邪引かないよね」
 ふと思いついた言葉を泉子は口にした。
 征嵩とつきあっていた時は何度も看病に駆り出された。薬と食材を買って一人暮らしの恋人の部屋に行き、心配の言葉をかけながら手料理を食べさせるのは、今思えばちょっとしたイベントの一つだった。
 ゾールが相手ではそういうことはできない。何しろ、深夜に甘いものを食べても肥満とも肌荒れとも無縁の悪魔である。
「引かないが、そういうシチュが好きならつきあってやってもいいぞ」
「だからサービス良すぎだって。シチュなんて言葉どこで覚えたの」
 泉子は笑い、再びタブレットに目を戻した。
 『愛の陰影』は半分ほど読み進めたが、話が大きく動き出して、いよいよ面白くなってきている。
 にもかかわらず今日はあまりページが進まないのは、仕事を終えてから向かった東京駅で、思った以上に時間を消費したせいだと思う。昨日と今日で気分が変わったためではない。
 泉子は読書を続けるのをあきらめ、タブレットの電源を落としてベッドの脇のテーブルに置いた。
 明日も仕事である。明かりも消して早く眠ったほうがいいのだが、なんとなくそのままで寝返りを打ってゾールを見る。
「寝ないのか?」
 自分もぱっちりと目を開きながら、ゾールが尋ねる。
 悪魔は寝ても寝なくても生命を維持できるはずなので、泉子が寝た後もいくらでも起きていることができる。寝ている間も一晩中、骨を見つめられているかもしれないと思うと落ち着かないが。
「寝るよ」
「明るいままでか」
「いや、消すよ」
 そう答えつつ、泉子は起き上がらずにゾールを見続ける。
 風邪を引かないよねではなく、本当はこう尋ねたかったのだった。
 ゾールは根性なしじゃないよね、と。


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