悪魔来たりて紐を解く [ 5−4 ]
悪魔来たりて紐を解く
5.無法とラブロマンス(4)
泉子は自分の部屋で、タブレットで電子書籍を読んでいた。ジョージェット・ヘイヤーの『愛の陰影』である。
なんと数章読み進めただけで、ヒーローがさっそく悪魔に例えられていて、思わず笑ってしまった。が、ストーリーはさすがに面白い。
十八世紀のパリで、一人の少年が悪魔のように冷酷な公爵に拾われ、彼の小姓となる。
少年は実は性別を偽った少女なのだが、そのことに公爵も気づいていて、少女を自分の目的に利用しようとしている。
冷静に考えれば悪逆非道の無法者なのだが、そこはロマンス小説、最後にはヒロインを愛し、ヒロインのために生きるようになるとわかっているので安心できる。疲れた心にはロマンス小説である。
何に疲れたのか、自分でもよく把握できていないのだが。
理於とは昨日の土曜日に依加も交えて会って話をした。理於自身はまだ別れる踏ん切りがつかないようだが、泉子と依加と話して少し気持ちが落ち着いたようだし、泉子も理於の顔を見ていくらかは安心できた。
だから、心労の原因は理於のことではない。
「ゾール」
タブレットから顔を上げ、テーブルの向かいがわにいるゾールに目を向ける。
ゾールは泉子の本棚から取ってきた雑誌を見ているかと思ったが、それは手もとで閉じてまっすぐ泉子のほうを眺めていた。例によって泉子の骨を鑑賞していたらしい。
最近、ゾールは泉子に触れることなく、黙って嬉しそうに見つめていることが多い。
「なんだ、俺の可愛い人」
「……いや、なんでもないんだけど」
ゾールといるとやっぱり楽だな、と思う。気を遣う必要がないし、何より自己嫌悪に陥ることがまったくない。
――つまり、少し前まで泉子は自己嫌悪に陥っていたのである。会社で征嵩と話してからずっと。
征嵩が、ロマンス小説のヒーローのような無法者だったら良かった。小説ならヒロインの力で最終的には改心するが、現実だったら改心させる前に逃げるという選択肢もある。
けれど、征嵩は無法者ではなかった。誠実で、話しあいのできる人で、泉子の意志をいつも尊重してくれた。
学生時代までにつきあった彼氏たちもそうだった。泉子はあたりを引き続けているのである。
にも関わらず誰とも続かないのは、やはり泉子のほうに努力が足りないからだ。
不意に頭の上に何かが置かれ、泉子はぎょっとした。
目を向けると、ゾールがいつの間にか泉子の側に来て、大きな手で泉子の頭を撫でていた。
いつもなら、頭蓋骨のフォルムを堪能するためにねっとりと撫でまわすのだが、今はそういうことはせず、ただ何度も髪の上に控えめに手を置いている。
「……ゾール、最近ちょっとサービスが良すぎない?」
「減るものではないからな。俺はけちくさい悪魔ではないと言っただろう」
「人間の女はイケメンに頭ポンポンされたら喜ぶと思ってるんでしょ」
「他の女のことは知らん。今の泉子は喜ぶかと思った。悪魔の勘だ」
ずるいなー、と泉子は思った。
これではもう、ただの彼氏を通り越して、都合のいいバーチャルである。
そんな相手としかうまくつきあえない泉子が悪いのだが。
「……おととい、元彼と会って話した」
ゾールの手が頭の上で止まるのと同時に、泉子は打ち明けた。
「ああ」
「別に、より戻そうとか思ってないから」
私が好きなのはゾールだし、と言いそうになり、泉子は顔から火が出るかと思った。自分はいったい何を言い出すのか。
ゾールなら、気に入った相手に恋人がいようが、配偶者がいようが、気にせず愛人契約を持ちかけるだろうに。
「――とにかく、それでちょっと疲れて、落ち込んでたの。慰めてくれてありがとう。鎖骨に触っていいよ」
「おお、いいのか」
泉子が照れ隠しに言うと、ゾールはあっさり喜んで頭から手を離し、泉子の肩に顔をうずめた。
勝手に見とれていることはあっても、触れるのは必ず泉子が同意してから。これもゾールのいいところであり、ロマンス小説のヒーローとの共通点でもある。
「泉子」
鎖骨に頬ずりするように、泉子の肩に顔を載せたまま、ゾールがささやいた。
「何」
「俺は一途な悪魔だからな」
「――うん、聞いた」
はじめに契約を持ちかけられた時、泉子が結論を出すまでいくらでも待つと言われた。
今になって何だろう。ひょっとして、浮気がどうこうと泉子が尋ねたのを気にしているのだろうか。少しも、一切、まったく疑っていないのだが。
「そなたの美しい骨に飽きることは決してない」
「うん、それも聞いたよ」
「だから、俺のほうから契約を切ることはないが、泉子のほうは切りたいと思った時に切ることができる」
「――うん」
めずらしくゾールの言うことがわからず、泉子は困惑する。
「――契約要項の確認? なんで今?」
「そろそろ頃合いかと思ってな」
ゾールは泉子の肩の上で頭を動かし、上目遣いに泉子を見上げた。
「篠山さん、今日はまっすぐ帰る?」
泉子が声をかけられたのは、通勤バッグを手に所属部署を後にして、エレベーターに向かう途中のことだった。
話しかけてきたのは、もう一人の同期で総務部所属の東である。総務部があるのはここの下の階だが、泉子に会うためにわざわざ上がって来たのだろうか。
東はいかにも真面目な中堅という風情の、地味だが清潔感のある社員である。浪人か留年かは知らないが、泉子と征嵩より確か一つ年上だ。業務上はあまり関わることがないが、必要なことだけ淡々と話すタイプで、泉子にとっては接しやすい。
「戸崎が今日の新幹線で大阪に帰るんだけど、良かったら一緒に見送りに行かない?」
「帰りますけど」
「――戸崎さん、まだこっちにいるんですか?」
今日は月曜日である。征嵩は土日を東京の実家で過ごして、今日から大阪営業所に出勤するのだと思っていた。
「今日だけ有給取ったんだって。まあ、めったに実家に帰れないみたいだし、せっかく出張でこっちに来たんだしな」
「それで――見送りって」
「俺たち三人、最初から部署も違ったし、あんまり同期らしいことできなかっただろ。金曜日に戸崎と飲んだ時、ちょっとそういう話になって。だから、たまにはどう?」
「――いいですよ」
征嵩はともかく、東は同期のつきあいに飢えているようには見えないが。あいかわらず淡々として、感情が読めない雰囲気である。いや、征嵩とは一緒に飲む程度には親しいのだから、見送りに行くくらいはするか。
東の後についてエレベーターに乗り、ビルを出て駅まで歩く。
東はたぶん、泉子と征嵩がつきあっていたことを知っていると思う。泉子の希望で社内の人間には秘密にしていたが、気づく者は気づくようである。東は他人に興味がないように見えて妙に鋭いところがある。入社時の研修の時からそうだった。
そして、口が堅い。気づいていることをいちいちアピールしたりもしない。だから泉子も、東に知られているからと言ってどうということはない。
ないのだが。
「篠山さん、つきあってる人いるの」
地下鉄に乗ってから、業務連絡のような平坦な声で問われ、泉子は空気に噎せそうになった。
「総務部の業務の一環ですか?」
「いや、違うけど。セクハラだったらごめんね」
「います」
泉子は簡潔に答えた。東の事務的な声で問われると、プライベートに踏み込まれている気がまるでしない。
「――ちなみに、結婚はないです」
総務部の業務の一環として、産休や育休の可能性を探っているのではないかと感じ、泉子は付け加えた。それなら業務時間内に社内で尋ねてほしい――いや、面と向かって尋ねたらそれはそれで問題になるのか。
「そう」
東はそっけなく答え、薄暗くなり始めた車窓の外に目を向けた。何だったのだ。
駅に着いて地下鉄を降り、帰宅ラッシュの人波に流されて通路を歩く。
東と征嵩は地下の待ちあわせ場所を選んでいた。その場所に二人で向かったが、征嵩の背の高い姿はすぐには見つからなかった。
「――いないな」
人ごみに紛れて見えなくなっているのかと、しばらく目を凝らして探したが、やはり見あたらない。
「何時に待ちあわせたんですか?」
「さっき地下鉄に乗る前に、LINEでこっちの着く時間を知らせた。戸崎はもう駅にいるからその時間にここに来るって返事が来たんだけどな」
東はスマホを操作している。征嵩とのやりとりを見返しているらしい。東なら時間や場所のミスはしそうにないが。
壁を背にして立ち、おびただしい数の人が行き交うのを見ていると、どういうわけが気分がざわついた。通り過ぎる人々は誰も彼も早歩きで、何か異変があろうと脇目も振らずに突進していきそうだ。
十分近く二人で待ってみたが、征嵩は現れなかった。
「既読がつかない」
東が再びスマホを見ている。ここに着いた時に征嵩に連絡を取ったようだが、それにも反応がないらしい。
「私、ちょっと探してきますね」
泉子は歩きかけながら東に言った。
「いや、行き違いになるかもしれないし」
「東さんはここで待ってて、戸崎さんが来たら電話してください。せっかく二人で来たんだから、どちらかが探しに行ったほうがいいですよ」
「じゃあ俺が行くよ」
「戸崎さんは東さんに会うつもりで来るんでしょう。ここに着いた時、私しかいなかったらスルーされるかも。だからここにいてください」
泉子は東の返事を待たずにその場を後にした。
実際は、征嵩が泉子を見つけたらすぐに気づくだろう。征嵩は視力が良くて、どんな混雑の中でも難なく泉子を見つけられた。
待ちあわせに遅れたことも一度もなかった。今日の場合はすでに駅にいたというのに、東に連絡もせず現れないのはおかしい。
東は単なるタイミングのずれだと思っているようだが、泉子はなぜか嫌な予感がしていた。
携帯電話を握りしめて、左右を見ながら足早に歩く。征嵩が待ちあわせ場所に遅れて向かっているなら泉子とは対向になるはずだが、すれ違う人の顔をすべて確認するのは不可能だ。征嵩と同じくらい上背のある人も大勢いる。
見逃すのを承知で歩き続け、新幹線の改札や窓口の前を通り過ぎ、少し人ごみが和らいだところで、泉子は呼吸を止めそうになった。
下の階へと続く階段の入口で、座り込んで壁にもたれかかっている背中が見える。側に置いたスーツケースに隠れるようにして。
「ゆ……征嵩?」
思わず、呼ぶつもりのなかった名前を呼んでしまった。
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