悪魔来たりて紐を解く [ 5−3 ]
悪魔来たりて紐を解く
5.無法とラブロマンス(3)
「――以上が受注の大まかな流れです。だいたいわかったかな?」
片瀬が新人たちとにこやかに話している。
大阪からやってきた二人の女性新入社員は、貼りつけたようなぎこちない笑みでそろってうなずいた。
大阪営業所にとっては研修最終日となる金曜日。佐伯と松川が席に着いて通常業務を行っている後ろで、リクルートスーツに身を包んだ二人が立ち、片瀬がその傍らで業務について説明している。泉子は向かい側の自分の席にいるが、質問があったら答えられるように資料を準備している。
営業事務の研修を受けているのは女性二人。もう一人やってきた男性の新入社員は、フロアにあるもう一つの島で、営業部員のリーダーである阿佐田から話を聞いている。その中間に立って双方に目を配っているのが引率の戸崎征嵩だ。
「発注はメールが中心なんですか?」
「そうですね。ここは既存客からの定期的な注文が主なので。新規のお客様からのお問い合わせが入ると、まず電話で応対することもあります」
「それも事務の仕事ですか?」
女性新入社員の一人が言い、阿佐田と男性の新入社員を、そして征嵩を不安そうに見た。
「詳しい商談は、もちろん営業担当が訪問してからになるけど。最初に電話でお客様にヒアリングを行うのは、私たち事務の仕事ですね」
「慣れてからで大丈夫だよー。最初は先輩たちが代わってくれるから」
佐伯がパソコンから振り返りながら会話に加わっている。
「ここの佐伯さんと松川さんも、徐々に慣れて今はどんな電話でも取れるようになったから。大阪営業所の主任がきっちり教えてくれるから大丈夫」
新人たちが不安そうなままなので、泉子も口を挟む。自信のなさそうな彼女たちの表情は、一年前の松川を思い出させる。
空気が硬直しかけたところへ、征嵩が来て自分の連れてきた女性たちに声をかけた。
「――どうや、だいたい教えてもろたか?」
わざとらしい関西弁だな、と泉子は心の中で突っ込んだ。非ネイティブが無理に訛ろうとしているのがバレバレである。
征嵩が口を挟んだ瞬間、新人たちの表情がぱっと和らいだ。硬くなっていたのは、顔をあわせて間もない本社の社員に囲まれる緊張もあったのかもしれない。
「はい、戸崎さん」
「あちらも一段落したみたいなんで、ちょっと休憩を入れさせてもいいですか」
「ええ、質問がなければどうぞ」
征嵩の提案に片瀬がにこやかに答え、新人の二人は同時に首を横に振る。
「戸崎さん、風邪は良くなったみたいですね」
征嵩が新人たちに研修再開の時刻を告げると、片瀬が自然な調子で話しかけた。
泉子も気づいていた。二日前に挨拶に来た時よりも声が落ち着いている。
「おかげさまで。どうもご心配おかけしました」
「今年は乾燥してますからね。新人さんたちも研修の疲れで体調を崩さないようにね」
片瀬はいつもの曇りのない笑顔で、大阪からやってきた三人の後輩に声をかける。
男性新入社員が背筋を伸ばして、うっす、と答えたので、フロアでは小さな笑いの渦が起こった。
その笑いが収まらないうちに、女性新入社員の二人が無言でフロアから出ていくのを、泉子はなんとなく眺めていた。
「あー、疲れるー」
コンビニの自動ドアが開くと同時に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
会社のあるビルの地下一階では、この春からコンビニがオープンした。エレベーターが混みあわなければ、泉子の部署から往復十分で買い出しに行ける。
「立ちっぱなしきついよなあ」
「草野さんは座らせてもらっとるのに、なんでうちらだけ」
雑誌の棚の前で、先ほど研修をさせていた大阪の新人たちが立ち話をしている。
泉子は彼女たちに気づかれないよう、早足でドリンクのコーナーに向かった。愚痴は勤務時間が過ぎて社外に出てからにしてほしいが、この程度のことをいちいち聞き咎めるつもりはない。
冷たそうなガラスの扉を開け、ペットボトルの日本茶を取り出す。新入社員たちに飲ませるお茶を、横田に頼まれて買いに来たのである。見栄を張るのはいいが思いつきで部下を使うのはやめてほしい。
四本のペットボトルを抱えてレジに向かおうとすると、嘲笑を含んだ声が雑誌コーナーのほうから聞こえた。
「あの人さあ、ちょっと痛くない?」
「片瀬さんって人? うちも思った」
調味料やレトルト食品が並ぶ棚の陰で、泉子は足を止める。レジのほうに出ていったら雑誌の前から姿が見えてしまう。
「あからさまに戸崎さんに色目つかってるやんな。あの人のほうが年上やろ」
「ちょっと馴れ馴れしいよなあ。もう一人の――篠山さんやっけ。あの人は戸崎さんと同期やけど、ちゃんと一線引いてんのにな」
片瀬は誰にでも世話を焼きたがる人で、何も征嵩だけ選んで気を遣っているわけではない。新入社員の彼女たちにもこまめに目を配り、さりげなく緊張を解きほぐそうと心を砕いていた。
泉子はペットボトルを抱えたまま足を進め、雑誌の前に立つ二人の背後にまわった。
「二人とも、お疲れさま」
怖がらせるつもりはなかったので、自分比でめいっぱいの笑みを浮かべ、明るい声を出す。それでも新人たちはびくりと肩を震わせ、弾かれたように同時に振り向いた。
「もうすぐ休憩終わるよ。遅れないようにね」
「は、はい」
「それと、会社の近くでは会話に気をつけて。誰に聞かれるかわからないから」
「はい、すみません」
二人の新入社員はすっかり縮こまって、泉子の言葉に何度も頭を下げていた。
研修は予定通り午後三時で終わったが、通常業務が押してきたので残業になった。松川と佐伯を先に帰らせ、泉子は片瀬と七時近くまで部署に残り、あと一本電話を待つという片瀬を残してフロアを出た。
定時で帰れた日はまだ光があるが、夜七時にもなると窓の外はすでに暗い。それでもトレンチコートではなくロングカーディガンで歩けるのはやはり四月である。
エレベーターが一階に着き、開いた扉から泉子が出ようとすると、斜め前に立っていた人物が、あ、と顔を上げた。
「どうも。お疲れ」
「――お疲れさまです」
戸崎征嵩だった。研修中と同じスーツ姿のままだが、三人の新入社員は連れていない。
「今から帰り?」
毎日顔をあわせている社員同士のように、征嵩は自然に話しかけた。
無視する理由もないので、泉子も落ち着いて答える。
「ちょっと残業になって」
「そっか。うちのが時間取らせたからな」
「いや、そのせいじゃないよ。――そっちの新人さんたちは?」
「さっき駅まで送っていって、新幹線のチケット渡して解散した。研修は今日で終わりだから」
昼間は不自然な関西弁だったのが、標準語のイントネーションに戻っている。こちらのほうが素のはずである。
泉子の背後でエレベーターの扉が閉まった。征嵩は乗ろうともボタンを押そうともせず、泉子の前に立ち続けている。
「一緒に大阪に帰らないの?」
征嵩のことを何と呼ぶべきかわからず、泉子は主語を省いて尋ねた。
名前で呼ぶのはさすがに躊躇う。別れたからというより、ここは双方の職場だからだ。かと言って、今さら苗字で呼ぶのも空々しいような気がする。
「実家に泊まる。せっかくこっちに来たし、明日から土日だからな」
「そっか。新人さんたち、大丈夫?」
「新幹線ぐらい乗れるだろ。もう社会人なんだから」
「そうじゃなくて――すっかり頼られてるじゃん、あの子たちに」
大阪営業所の二人の女性新入社員は、何かといえば征嵩を頼りにして甘えていた。片瀬が業務の話をしている間も、戸惑ったり怯えたりするごとに征嵩を見て、征嵩が近くに来ると安心していた。
征嵩に恋愛感情を持っているわけではないのだろう。ただ、自分たちのテリトリーの中にいて、離れないでほしいとは思っている。片瀬が仕事の範囲内で征嵩に話しかけるのを嫌がるほどに。イケメンはみんなの共有財産なのである。
それに――泉子はわざとらしくない程度に征嵩の顔をうかがう。
こうして見ると征嵩はやはり美形である。背が高くて肩が広くて、声の通りも良くて、そこにいればついつい頼りにしてしまいそうな雰囲気がある。本社で一緒に働いていた時からそうだったが、三年半の間にさらに磨きがかかったようだ。
「まだ入社して一週間だからな。徐々に一人立ちするだろ、というかしてもらわないと」
征嵩は苦笑しながら答えた。新人たちの向ける視線に気づいているのだろうが、そこは頼りになるけどちょっと鈍い先輩を演じるしかない。
「これから東と飲むんだけど、一緒に来る?」
東は総務部所属の男性で、泉子と征嵩のもう一人の同期である。泉子とは仕事での接点も少なく、プライベートで飲んだこともない。
「行かない」
「そうだよな。引き止めて悪かった。お疲れさん」
最後だけ微妙に関西訛りになり、征嵩は腕を伸ばしてエレベーターのボタンを押した。
その横顔が少し疲れているように見えて、泉子は心配になった。征嵩はつきあっていたころもよく風邪を引いていたが、最初はいつも喉の調子が悪くなって、それが治ったと思えば熱を出すのだ。
大丈夫? という言葉を泉子は抑えた。名前を呼ばないのと同様に、踏み込んではいけないラインというものがある。飲みに行くと言っているくらいなら大丈夫なのだろう。
「お疲れさま」
泉子は小さく頭を下げ、征嵩がエレベーターに乗るのを待たずにその場を後にする。
拍子抜けするほど普通に話せたが、別に意外でもない。泥沼の喧嘩別れをしたわけではないし、社会人でしかも同じ職場ならこんなものだろう。
征嵩とは入社後しばらくしてつきあい始めたが、三年目で征嵩の異動が決まった時に、泉子から別れたいと伝えた。征嵩は遠距離恋愛をするつもりでいたらしいが、何度か話しあいを重ねて結局は泉子の希望が通った。
憎みあって、傷つけあって別れたわけではなかった。ただ、続けることができなかった。征嵩が嫌いになったからではない。泉子の力が足りなかったせいだ。
誰かと一緒にいるために――い続けるために努力するという、人間としての大切な力が、泉子には圧倒的に欠けているのである。
泉子はビルの外に出て、駅までのいつもの道を歩き始めた。
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