悪魔来たりて紐を解く [ 5−2 ]
悪魔来たりて紐を解く

5.無法とラブロマンス(2)
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「お仕事中に失礼します。大阪営業所です」
 グレイのスーツを着た長身の男性は、フロアに入ると一礼して、まず一番奥にいる横田に声をかけた。
「横田課長、ご無沙汰しています」
「どうも。久しぶりだねえ、戸崎くん。頼もしくなって」
 征嵩は本社時代には隣の営業二課の配属だったが、課長同士の仲がいいので横田にも顔を覚えられていた。
 ちょっと痩せたな、と泉子は思った。四年以上も会っていなかったわりには、以前の姿がはっきりと記憶に残っている。
「うちの新人たちです。はい、みんな挨拶」
 征嵩の背後には、黒いスーツを着た男性一人と女性二人がついていた。三人とも見るからに若く、おそらく二十代の前半だ。女性たちは新卒かもしれない。リクルートスーツと一つ結びの黒髪が初々しい。
 新入社員たちはそれぞれ名乗り、フロア全体に響きわたる声で挨拶した。征嵩は満足そうに彼らにうなずくと、横田に目線を戻した。
「今日はご挨拶にだけ伺いましたが、明後日の研修ではよろしくお願いします」
「こちらこそ。主任の片瀬が主に担当しますので」
 横田に話を振られると、片瀬はにっこり笑って一歩前に出た。
「片瀬です。去年の秋までは名古屋営業所にいました」
「大阪の戸崎です、よろしくお願いします。狭川(さがわ)西前(にしまえ)は事務職採用なんで、いろいろ教えてやってください」
 征嵩は東京出身だったはずだが、ほんの少し関西弁の訛りが入っている。敬語なのでわかりづらいがイントネーションが微妙に違う。
 泉子が意図せず観察していると、征嵩は不意に横を向き、軽く咳払いをした。挨拶の途中から思っていたが、少し喉の調子がおかしいらしい。
「あらあら、風邪ですか?」
 気遣いの塊である片瀬がすかさず声をかけ、自分のデスクの引き出しに手をかける。
「喉飴だったらありますよ」
「いえ、大丈夫です。マスクもせずにすみません」
 征嵩は笑顔で手を振った。本社にいる時もよく風邪を引いて咳をしていたが、出世してもそこは変わっていないらしい。
「明後日の研修では、実際に業務をしているところを見学してもらいますね。松川さんと佐伯さんは去年入社なので、みなさんと一年違いです。それから――篠山さんは戸崎と同期なんですよね?」
 片瀬は新入社員たちににこやかに話しかけた後、征嵩と泉子を交互に見ながら言った。
 そこで初めて、征嵩が泉子に目を向ける。驚いたという様子ではない。ごく自然な振り向き方だった。泉子は征嵩が本社にいた当時からこの部署だったので、ここで会うことは征嵩も想定していたはずだ。
「はい。――篠山さん、久しぶり」
 イントネーションが東西どっちつかずになり、それをごまかすように征嵩はかすかに笑う。
「久しぶり。明後日はよろしく」
「こちらこそ」
 泉子は社内の人間に愛想を振りまく性格ではないし、同期同士で気安く話し込むような場面でも、そんな仲でもない。短いやりとりだけで不自然ではなかったはずだ。
 泉子の読みどおり、周囲は二人の素っ気なさに特に異議を挟まず、なめらかに会話を続けた。
「それでは、業務中に失礼しました。あらためて、明後日はよろしくお願いします」
 征嵩が頭を下げると、新入社員たちも同じようにして、お願いしますと声をそろえた。
 四人がフロアから去り、入口の扉が閉まると、短い沈黙が落ちる。挨拶用の外面モードから通常の業務モードに切り替わる一瞬の間である。
「――今の人、篠山さんの同期なんですか?」
 それを打ち破るように、佐伯の興奮した声が響いた。
「そうだけど」
「えええー、すごいイケメン! 俳優さんかと思った。あんな人がうちの会社にいたんだー!」
「和華ちゃん、そういうの駄目だって。セクハラだよ」
 はしゃいでいる佐伯を、松川がいつもの調子でたしなめる。
「いいじゃん、イケメンだからどうこうするわけじゃないし。鑑賞だよ鑑賞。明後日楽しみー」
「だから、そういうのが駄目なんだって」
「佐伯さん、そういう話は退勤後にしようね」
 片瀬も苦笑しながら言い、椅子を引いて自分の席に着いた。泉子も同じようにしながら、内心でこっそり佐伯に同意する。
 征嵩の顔がいいのは昔からで、入社当時もイケメン新入社員で通っていた。俳優並みというのは大げさだと思うが、会社のサイトに写真を載せたいと頼まれたり、得意先の女性管理職に気に入られたりはしていた。痩せて精悍さが増したぶん、四年前よりもイケメン度が上がったようだ。
「篠山さん、あの人と同期なんですよね」
 席に着いてから、佐伯がまた同じことを訊いてくる。
「そうだよ」
「しかも同じ本社採用。何もなかったんですか?」
「何もって」
「だから、何かですよ。他の同期と戸崎さんの取り合いになったりとか」
「私の同期は戸崎さんと、総務の(あずま)さんだけだったから。そういうのはないよ」
 佐伯のおしゃべりはいつものことなので、泉子も苦笑しつつ適当に受け流す。
「でも目の保養になりますよね。いいなー。私もやっぱり男の同期ほしかったなー」
「佐伯さん、そろそろ業務に戻りましょうね」
 イケメンとは呼ばれたことがないであろう横田が、心なしか肩身が狭そうに佐伯に注意する。
 ――何かはあったよ。
 泉子はパソコンに向かいつつ、心の中で佐伯に返事をする。
 戸崎征嵩は、入社後から異動までの二年あまり、泉子の彼氏だった男である。

「おかえり、泉子」
 泉子が寝室の扉を開けると、ゾールがベッドから身を起こしながら言った。今日も今日とて泉子のベッドで一人ごろごろとしていたらしい。
 泉子は通勤バッグを肩から下げたまま、しばし立ち尽くしてゾールの顔を見つめる。
「なんだ?」
「――なんでもない」
 ゾールのほうがイケメンだな、などと思ったとは口が裂けても言えない。
 ゾールは何も気にしないだろうが、そんな考えを頭によぎらせた自分が嫌である。
「今日は遅かったな、泉子」
「ちょっと疲れたから、夕ごはんを外で食べてきたの。一人でね」
 泉子は仕事帰りに外食をする時もたいてい一人だ。例外は後輩たちから相談を持ちかけられた時くらいである。
 だから、わざわざ言うようなことでもないのだが、なぜ一人だと付け加えてしまったのか、自分でも謎である。
 泉子が一人で食事しようが大勢で食事しようが、ゾールは一向に気にかけないとわかっているのに。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「飲む」
 キッチンで湯を沸かしながら、泉子はタブレットで電子書籍を開く。昨日ダウンロードした小説をまだ読み始めていなかったのだ。
 タイトルは『愛の陰影』。ジョージェット・ヘイヤー――ジェイン・オースティンの再来とも呼ばれるロマンスの大家の邦訳である。
 泉子は小説も映画もジャンル不問で手を出すが、翻訳もののロマンス小説もそれなりに好きで年に何冊かは読む。恋愛と並行して別のプロットも立てられているので読みごたえがあるし、ヒストリカルと呼ばれる過去の時代を舞台にしたものは考証もしっかりしていて面白い。
 何より、ヒロインのキャラクターが気持ちいいのである。バックグラウンドがどうであれ精神的に自立しているし、嫌な男にははっきりノーと言うし、相手がヒーローであっても決しておもねったりしない。
 煮えきらない恋愛相談を受け続けて疲弊した時は、そうしたヒロインが登場する小説を読むのに限る。ラブシーンの濃いものを読みたい気分ではなかったので、あえて古風な作家を選んだ。
「――そういえば」
 タブレットを操作する手を止めて、泉子は振り返った。
 ゾールはテーブルに頬杖をついて、泉子がコーヒーを淹れるのを待っている。
「どうした?」
「いや――ロマンス小説にも悪魔はよく出てくるなって」
 正確には悪魔ではない。悪魔のようなと形容されるヒーローだ。もちろん、良い意味で。
 それはヒロインを口説く際の強引さだったり、暗い過去を背負っているが故の冷徹さだったり、あるいは性的魅力のことだったりするのだが、とにかく彼らは悪魔に例えられることが多い。そのため、翻訳された小説のタイトルにも悪魔はよく使われる。悪魔公爵だの悪魔伯爵だの。タイトルを見比べて選んでいる段階で食傷気味になるほどだ。
 ロマンス小説の多くは欧米――つまりキリスト教圏で書かれているが、あちらの女性にとっても悪魔は実は魅力的なのだろうか。
「前の前の前の愛人にも言われたぞ。なぜ悪魔がこれほど頻出なのかと。俺に訊かれても困るが」
 ゾールは可笑しそうに言った。
「いい意味だし、喜んでいいんじゃないの。てか、ロマンス小説を読む愛人って前にもいたんだ。他には何か言われた?」
「他にとは?」
「悪魔と恋愛してみたかったとか、思ってたのと違うとか」
「そういうことは言われなかったぞ。だいたい、そうした小説に出てくるのは悪魔そのものではないだろう」
「そうだけど――」
 そんなにかけ離れていないような気もする、という言葉を泉子は呑み込んだ。
 ロマンス小説に登場する悪魔のような男たちは、実際にはそれほど悪くないのだ。過去には悪事を働いていてもヒロインの力で改心したりするし、そもそも決定的な罪を犯すまでには堕ちていない。
 そして、ヒロインには一貫して誠実である。いったん相思相愛になったら一途な愛を貫くし、どの場面においてもヒロインの意志を尊重して、無理強いは決してしない。
 泉子はゾールの顔を無言で見つめていた。背後で湯が沸騰し始める音がする。
「なんだ、泉子。今日はやけに俺の顔を見るな」
 ゾールが赤い唇をつり上げて、上目遣いで泉子を見ている。佐伯に見せて感想を聞きたいと思うほどの美形である。
 自分はひょっとして、あたりを引いたのかもしれない。泉子は思った。
 ――いや、今までがはずれだったわけではないのだが。


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