悪魔来たりて紐を解く [ 5−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

5.無法とラブロマンス(1)
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「いや、理於(りお)、もう別れたほうがいいって」
 泉子(もとこ)は携帯電話を手に最寄り駅からの道を歩いていた。
 駅からマンションまでは大通りから外れれば閑静な住宅街だが、四月にもなれば多少の残業をしても辺りはまだ明るい。
「ていうか、別れ話しようとしてたでしょ。――しなかったの?」
 電話をかけたのは泉子のほうである。
 同窓会から一月が経ち、理於とはメールの往復が不定期に続いていた。話の内容は、ほとんどが理於からの相談――つまり、宇津見(うつみ)と別れたいが別れられない、という話だ。
 今日は昼休みから相談に乗っていたが、メールでは埒が明かなくなり、仕事が終わったら電話する、と泉子から持ちかけた。電車を降りてから道すがら理於の話を聞いていたが、受話器越しの声が少しずつ涙ぐんでいる気がして、とうとう決定的なことを言ってしまった。
 他人の別れる別れないに裁可を下すなど一番やりたくないことの一つだが、理於がじわじわと擦り減っていくのをこれ以上ほうっておける自信がない。
「ヨリには話した? 今度、三人で会お」
 理於は依加(よりか)にも相談しているらしく、泉子にも依加から時おり報告が来る。三人でやりとりできるようにタブレットでLINEを始めるべきか、そろそろ真剣に検討しているところだ。
 借りているマンションのエントランスが近づいてきた。泉子は携帯電話を耳に当てたまま、肘でガラス張りの扉を押し開け、エレベーターの前に立つ。
「うん、わかった。夜中でも電話してきていいよ。ちゃんと食べなね。じゃあ」
 通話を終えると同時にエレベーターの扉が開いた。理於はメールでは長文を送ってくるが、電話ではあまり長く話さない。泉子は一人暮らしだと言ってあるが、何かの話の流れで同居人がいると誤解されたので、遠慮させてしまっているのかもしれない。
 同居人がいるのは嘘ではないが、遠慮するような相手ではないというのに。
「おかえり、泉子。遅かったな」
 ゾールはダイニングキッチンではなく、寝室の床に座り込んで泉子の本棚を見ていた。
 泉子が仕事に追われつつ理於の相談に乗っていた間、ゾールは泉子の部屋でくつろいでいたのだと思うと腹立たしいが、買い置きしてあるお菓子を勝手に食べていないので良しとする。
「ただいま」
 通勤バッグを定位置に置き、クロゼットを開けて春用のコートをかけながら、泉子は横目でゾールの姿を窺う。
 ゾールは姿を現したり現さなかったりで、毎日欠かさず泉子の帰りを待っているわけでもないのだが、こうして迎えられることに慣れていることに泉子は気づく。契約を結んでからもう三ヶ月になるのだ。
 クロゼットを閉めて振り返り、ゾールのいる場所まで歩み寄ると、泉子はフローリングに膝をついてゾールに身を寄せた。悪魔の黒いスーツはひんやりとしていて気持ちがいい。
「どうした、泉子」
「なんとなく」
 理於の愚痴と泣き言をさんざん聞き、宇津見にも理於にも腹を立てた後は、ゾールの能天気な様子が妙に愛おしい。悪魔だというのに。
 ゾールは大きな手で泉子の頭を包み、自分の胸に抱き寄せてくれた。
 以前は泉子から求めた時は、魔力はいらないと泉子が言い、気にするなとゾールが答えるのを繰り返していたが、いつの間にかそれも省略するようになっている。
「昨日のシフォンケーキの残り、後で一緒に食べよっか」
 気の落ち着いた泉子が顔を離しながら言うと、ゾールは嬉しそうに笑ってうなずいた。
 嫌なことがあった日もなかった日も、ゾールと甘いものを食べるのはすっかり習慣になっている。休日には一緒に出かけて劇場で映画を観る。本を読んで他愛のない感想を話しあう。イライラした時や物寂しい時はスキンシップに応じてくれる。もう悪魔でもなんでもない、ただの彼氏である。
 夕食の準備をするために泉子が立ち上がると、ゾールは機嫌のいい表情のまま本棚に向き直った。ゾールはお菓子は食べるが食事はしないので、泉子が料理をして食べている間は一人で適当に過ごしている。
 彼氏のようではあるが、本物の彼氏とはやはり違う。
 洗面所で手を洗いながら、泉子は考える。
 彼氏というのはもっと面倒なものだと思う。おしゃべりしたい時や触れあいたい時がいつも一致するとは限らない。好きなものや嫌いなものが近いと思っても微妙に違うこともあり、それなら互いに干渉しなければいいのに、擦りあわせを試みようとして双方が疲れてしまう。自分の心には一定以上踏み込んでほしくないのに、相手の心には踏み込みたくて仕方がなくなる時があって、喧嘩までは行かなくても自己嫌悪で落ち込んでしまう。
 ゾールとはそうしたストレスがまったくない。悪魔の愛人は泉子の天職なのかもしれない。報酬はほとんど利用していないが。
 夕食を作るために冷蔵庫を開けながら、どの食材を先に使いきるか、明日の仕事の予定は何だったか、次に電子書籍で買う小説はどのジャンルにするか、理於が今ごろ一人でどんな気分でいるか、泉子はすべてを同時に考える。

「皆さん、ちょっといいですか」
 昼休みが終わって一時間ほど経ち、泉子がエクセルで見積書を作っていると、課長の横田(よこた)が営業事務の席まで来て声をかけた。
「大阪営業所の新人さんたちなんですが。この後こちらに挨拶に来てくれるそうなので、準備だけしておいてください」
「ここの研修は最終日じゃありませんでしたか」
「研修はそうなんですが、今日の総務部での研修が予定より早く終わったそうで。明日と明後日にお世話になる部署に、挨拶だけしてまわりたいそうです」
 横田は先ほど総務からの電話を取り、妙にはきはきと受け答えしながらうなずいていた。その時に挨拶の受け入れを承諾したのだろう。
 各地の営業所や工場で四月採用になった新入社員は、入社式を終えたら二泊して本社で研修を受ける。役員の長話を聞き、ビジネスマナーを覚え、後は各部署を一通り見学する程度だが、迎え入れる側もどこか新鮮な気持ちで待つのが常である。
「挨拶だけなので五分程度で済むと思うんですが、軽く片づけておいてください」
 そわそわと浮き足だった様子で横田が言い渡す。片づけたところで、黄ばんだデスクトップパソコンが最新の薄型ノートに化けるわけではないのだが、新人たちを相手に見栄を張りたくなる気持ちはわかる。
 泉子と片瀬(かたせ)は同時に立ち上がり、フロアに目をやって整える場所を探した。主に片瀬のおかげでもともと片づいているので、営業部員が引いたままの椅子を戻したり、置きっぱなしのボールペンを立てたりする程度だが。
「新人さんが来るってわくわくしますね。どんな子たちなんだろ」
 入社二年目を迎え新人ではなくなった佐伯(さえき)が、手伝いに来ながら泉子に話しかけた。
「営業所の現地採用だと、第二第三新卒の人もいるからね。ひょっとしたら佐伯さんより年上かも」
「へー。それでも私たちが先輩なんだ」
「研修で、何か教えたりするわけじゃないんですよね?」
 同じく二年目となった松川(まつかわ)も、佐伯の隣に来て言う。二人とも手伝うというより、泉子や片瀬と話がしたいらしい。
「説明は片瀬さんがしてくれるし、松川さんと佐伯さんはいつも通り仕事してるのを見せるだけでいいよ。何か質問があっても片瀬さんか私が答えるし」
「自分で答えられそうなことだったら、答えていいよ、松川さん」
 片瀬が明るく口を挟むが、松川はとんでもないと言いたげに強く首を振った。
「無理です。――ここに新しい人が入らなくて良かった」
「私は来てほしかったけどなあ」
 自信がなさそうな松川とは対照的に、佐伯はどこかうきうきとしている。
 二人とも一年前は研修を受ける側だったと思うと、指導をした泉子としても感慨深いものがある。
「大阪営業所って、去年の表彰式で何かのトップになってましたよね」
「新規顧客獲得で一位だったかな。向こうは今まで固定客が中心だったけど、この二、三年で新規も伸ばしてるみたい」
「へー。じゃあ、新人さんも大変そう」
「――引率は誰なんですか?」
 泉子は横田のほうを向いて尋ねた。
 観葉植物の位置を無意味に動かしていた横田は、屈んだ姿勢のまま答える。
「今年から主任になった戸崎(とざき)さんだそうです。四年くらい前まで本社にいた――そういえば、篠山(ささやま)さんの同期でしたね」
 横田が顔を上げ、他の三人もいっせいに泉子を見る。
「そうなんだ。仲いいの?」
「いえ。大阪に行ってからは連絡も取ってないです」
「私も男の同期ほしかったなー」
和華(わか)ちゃん、新人さんたちの前でそういうこと言っちゃだめだよ」
 後輩たちの会話をどこか遠くに聞きながら、泉子は表情を変えないようにして自分の席に戻り、作業途中だったエクセルを表示した。
 戸崎征嵩(ゆきたか)。横田の言ったとおり、泉子の同期の一人だ。泉子と同年に本社採用になった同期はどちらも男性だったので、松川と佐伯のように友人めいたつきあいになることはなかった。三人で一緒に飲んだ記憶などもない。三年目に征嵩が異動になってからは、一度も顔をあわせていない。
 大阪ではそこそこ評価されていると噂に聞いたが、泉子のいる本社でまた会うことになるとは。
「あ、着いたみたいですね」
 廊下から、複数の足音と小さな話し声が近づいてきた。
 浮き足だってドアを開けに行きそうな横田を、片瀬が苦笑しながらやんわりと制し、接客業のような綺麗な姿勢でデスクの側に立つ。松川と佐伯も自分の席に戻り、椅子には座らず片瀬と同じ姿勢でドアを見る。
 泉子も再び立ち上がり、他の三人に倣った。
 フロアの入口が開き、長身の男性を先頭に、スーツ姿の男女があわせて四人入ってきた。


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