悪魔来たりて紐を解く [ 4−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

4.非道とファーコート(1)
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「キャラメル味のポップコーンと、プレーンのチュリトス。それとホットコーヒーを二つずつください、ミディアムで」
 泉子(もとこ)はカウンターごしに注文を終えた。
 週末の映画館だが、朝の早い時間に来たので人出はそれほどでもない。チケットは事前に予約しておいたし、フードとドリンクを買うのにもさほど並ばずに済んだ。
「買えたか、泉子?」
 二人分のトレイを手にカウンターに背を向けると、ゾールが待ちかまえて立っていた。黒いスーツに身を包んだ長身の悪魔は、映画館の照明の中で見ると都会的な美男子で、まるでハイクラスの恋人とデートに来たかのように錯覚する。
 実際は、泉子が二人分のコーヒーとフードを買って、客席までせっせと運んでいくのだが。
「食べるのは席に着いてから、ううん、暗くなってからね」
 泉子が小声で言い聞かせると、ゾールは嬉しそうにうなずいた。両親に映画に連れてきてもらった小学生か。
 図書館には一緒に来ることの少ないゾールだが、映画館にはほとんど毎回ついてきたがる。十中八九お菓子を買ってもらえるからである。
 泉子としては、二人で映画を観るのに一人分のチケット代しか払わないのは気が咎め、かと言ってゾールの分も席を取るのは他の観客に悪いので、せめてもの埋めあわせにショップでお金を使うことにしている。本当は映画を観ながら飲食するのは好きではないのだが、ゾールと来た時は必ずコーヒーと甘いものを買う。よほどつまらなかった映画でなければパンフレットも買う。
「先に行くぞ、泉子。席で待っている」
 ゾールがさっさと入口をすり抜け、シアターの並ぶ通路へ消えていく。両手にトレイを抱えた泉子にずいぶん薄情だが、一緒にいてもどうせゾールには持ってもらえないし、無駄に話しかけてくるのを小声であしらうのも面倒なので、一人にしてもらったほうが泉子にとってもありがたい。
 二人分のトレイはけっこうな重さだが、コーヒーとキャラメルの匂いが空気中でミックスされて漂ってくるのは悪くない。予告編の間に自分も食べてしまおうかと思う。
「――え、イズミ?」
 壁の電子パネルを横目で眺めながら歩いていると、斜め前から聞き覚えのある声がかかった。それが聞こえた瞬間、まわりの空気が入れ替わったような錯覚が起こった。
 泉子をイズミと呼ぶのは高校時代の友人だけだ。
 トレイを傾けないように注意しながら顔を向けると、白いファーコートに身を包んだ小柄な女性が立っていた。
理於(りお)? 久しぶり――ってか、一瞬わからなかった」
 泉子がもたもたと歩み寄ろうとすると、相手のほうが小走りに近寄ってくれた。
 堂島(どうじま)理於。思ったとおり高校時代の友人だった。二年と三年のとき同じクラスで、文化祭で同じチームになったことから仲良くなった。別々の大学に進んでからもしばらくは連絡が続いていたが、次第に間遠になりフェードアウトしたという、よくあるパターンの関係だ。
「私はすぐにわかった。イズミ、大学からこっちだったよね」
 ふわりとした微笑みが、ブラウン系でまとめたナチュラルメイクに映える。
 あれ? と、泉子はかすかに戸惑う。
 理於はこんなふうに笑う子だっただろうか――あらためて見つめると、記憶と異なる点はいくつも見つかった。肩につくかつかないかという髪の長さは変わらないが、近くで見てようやく気づく濃度のダークブラウンに染められている。艶やかさも増し、毛先を少し巻いてもいるようだ。ファーコートから覗く細い首にはシルバーの華奢なネックレス。足もとはチャコールグレイのタイツにスエードのロングブーツ。
 十年以上も会っていなかったのだから、外見や服の趣味が変わっているのはあたりまえである。
 それを頭に置いても、泉子は違和感を拭えなかった。
 なぜかなのかはわからない。わからないことが違和感をいっそう大きくする。
 シアターへ続く通路のほうから、リオー、と呼ぶ声がかかった。理於は振り返り、先に行ってて! と高い声で叫ぶ。理於のずっと背後に、黒いコートを着た細身の男性が見える。
「――彼氏さん?」
「あ、うん。まあ。イズミもそうでしょ?」
 泉子の両手には、コーヒーとポップコーンとチュリトスが載った二人分のトレイがある。
 理於が誰かを捜すようにきょろきょろし始めたので、泉子は連れは先に劇場に行ったと説明した。嘘ではない。
「イズミ、何観るの? リバイバルのやつ? 残念、私は違うの――ね、LINE交換しよ! ――えっ、ガラケー? あいかわらずだなあイズミ」
 理於がよく喋るのは高校時代と変わらない。泉子もつられて笑っていると、上演十分前を知らせるアナウンスが響いた。
「――いけない、これ観るやつだ。イズミ、メアドは変わってないよね? 今度同窓会やろ!」
 早口でまくし立てると、理於は振り返りながら手を振り、シアターへ続く通路に消えていった。
 泉子はしばらく所在なく立ち尽くす。両手が塞がっているので手を振り返すことはできなかったが、理於は気にしていないと思う。
 ファーコートの後ろ姿が見えなくなってから、泉子は我に返る。自分もそろそろ席へ向かわなければ。
 今日観るのは、『悪魔の手毬唄』である。

 泉子はベッドに身を横たえた。
 上下のルームウェアに厚手のカーディガンを羽織った姿で、肌は洗いたて、髪は乾かしたてだが、暖房を効かせていてもそれなりに冷え込む。三月も二週目に入るとはいえ夜はまだ冬のような室温だ。
 仰向けになってタブレットを操作していると、視界の中に黒い影が映り込んだ。
 泉子はタブレットを顔から離し、ベッドに腰を下ろした悪魔に話しかけた。
「魔力はもう間に合ってます」
 ゾールの誘惑から逃れる時の、泉子の常套句である。
「ビスケットは食べてもいいだろう」
「食べてもいいけど、ここではやめて。私も食べたくなるから。向こうの部屋で食べて」
 ゾールの甘味好きにつきあっているとあっという間にカロリーオーバーしてしまう。今日も映画館でチュリトスとポップコーンを食べたので、昼食はスープのみ、夕食は野菜中心で炭水化物は抜いた。
 帰りがけに通ったパティスリーでゾールにビスケットを強請られ、ホワイトデー限定という言葉とラッピングの可愛さにつられて買ったが、今日は一緒に食べるつもりはない。
 ゾールはあっさりベッドから離れ、ビスケットのあるダイニングキッチンへ移ってしまった。
 ――まさかと思うが、ゾールはひょっとして、泉子の骨よりもお菓子が目当てで愛人契約を持ちかけたのではないだろうか。
 これではまるで泉子がゾールの愛人ではなく、ゾールが泉子のヒ――いや、かかる費用はお菓子代だけなのでこの表現は適切ではない――とにかく、そんな感じだ。
 ゾールに置き去りにされたベッドで、泉子は再びタブレットに指を走らせた。検索していたのは、今日観た映画『悪魔の手毬唄』のレビューだ。
 原作は言わずと知れた金田一シリーズの一冊。映画は七十年代公開のかなり古いものだが、行きつけの映画館でリバイバルしていたので観に行った。
 物語の舞台は岡山県の架空の村。美しい後家の女将が切り盛りする温泉宿に、金田一耕助が知人の警部の勧めで滞在する。女将の夫は二十数年前に陰惨な殺人の犠牲になっていた。
 長閑な山間の村を再び襲う、手毬唄になぞらえられた連続殺人。名家の確執と出生の謎をめぐる愛憎劇。泉子は原作を読んでいたので結末は知っていたが、それでも面白さはまるで損なわれなかった。
 ただ、観終わった後で気になったというか、腑に落ちなかった点が一つだけある。
 タイトルに入っている悪魔とは誰だったのか。
 検索して目についたレビューを端から読んでいったが、泉子の疑問に答えてくれる解説や考察は見つからなかった。事件の惨たらしさを悪魔の手口のようだと例えている程度だ。
 諦めて電子書籍のストアを開き、原作の小説をダウンロードしていると、キッチンに続くドアが開いてゾールが戻ってきた。
「ビスケットは美味かったぞ。泉子も食べたらどうだ」
「夜は食べないって。――ねえ、ゾール。今日の映画はどうだった?」
「――あ? まあ、なかなか面白かったぞ。骨の美しい役者が何人かいた」
「ああ、そう」
 一緒に映画館に行っても、お菓子が目当てのゾールはあまり熱心にスクリーンを見ない。今日はめずらしく手を止めて見入っていると思えば、そんな動機か。
 泉子が呆れてタブレットに目を戻すと、ゾールはにやつきながらベッドに腰を下ろした。
「妬いているのか、可愛い人」
「妬いてません」
「美しいと言っても泉子ほどではなかったぞ」
「やめて。いたたまれなくて消えたくなるからやめて」
 いくら骨だけとは言え、岸恵子や草笛光子と比較されるなんてどんな罰ゲームだ。
 ゾールが隣に寝そべってきたので、泉子は身をずらして場所を空けてやった。最近のゾールは泉子の骨に触れない日でも泉子のベッドで眠りたがる。悪魔にとって睡眠は食事と同じく、とらなくてもいいがとってもいいものらしい。
「ゾールはさ」
 至近距離にある整った顔貌に見とれながら、泉子は尋ねた。
「悪魔みたいな人間って、どんな人間だと思う?」
 映画の感想はろくに聞けそうにないので、泉子は質問の向きを変えた。
 悪魔とは誰のことだったのか。
 素直に考えるなら、殺人事件の真犯人のことだろう。残忍さにおいても巧妙さにおいても悪魔的と形容して遜色はない。
 しかし、泉子は映画の上映中ずっと、悪魔とは他にいるような気がしてならなかった。
「悪魔のような人間?」
 ゾールは黒目がちの目をきょとんとさせて聞き返した。
 肩透かしの答えが返ってくるかと思ったが、艶めかしい赤い唇からは、意外な言葉が紡ぎ出された。
「それは――だろう」
「え?」
 泉子が反応するのとほぼ同時に、ベッドサイドに置いていた携帯電話が鳴った。メールの着信音だ。
 ディスプレイには、堂島理於、という名前が表示されていた。


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