悪魔来たりて紐を解く [ 3−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

3.誘惑とバレンタイン(5)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「そっか。やっぱりあの時、篠山さんに声をかければ良かったね」
 ランチバッグを手に廊下を歩きながら、片瀬が泉子に言った。
 片瀬と昼休みをともにしたのは二度目である。前日から約束していたので、泉子もあらかじめランチに食べるものを買ってきていた。社内の休憩スペースで食べ終わり、そろって部署のフロアに戻るところだ。
「私が気づかなかったので」
「すごい人だったしね。あの時の篠山さんがそんな状態だったって知ってたら、追いかけてでも話を聞いてたんだけど」
 片瀬の言うあの時とは、三日前の日曜日、バレンタインフェアで泉子を見たという時だ。
 フェア会場で見たもののことを、泉子はすべて片瀬に打ち明けた。共有の休憩スペースでそんな話をするわけにはいかないので、部署で二人だけになった時に話した。課長の横田は昨日に続いて今日も休んでおり、新人の二人とは昼休みをずらしてとったので、片瀬と二人になるのは難しくなかった。
「横田課長、明日は出てくるんですかね」
「来るんじゃないかな。外に出る用事は昨日で済んでて、今日は美羽ちゃんと過ごすために休んだみたいだから」
 廊下でも誰が聞いているかわからないので、片瀬は声を落として、直接的な言葉を使わないように話している。
 昨日から続けて横田が休んでいるのは、娘のため――つまり、娘のしたことが露呈したためらしい。どの程度の大事になったのかは知らないが、片瀬の話では横田は相当落ち込んでいるようだ。つまり、横田は事情をすべて片瀬に話した。
 昨日の朝、横田からの電話を受けた片瀬の顔色を見て、泉子ももしやと思ったのだ。さすがにすぐに話を持ち出す気にはなれなかったが、帰りがけに意を決して、片瀬を翌日のランチに誘った。昼休み前に二人になったタイミングで、フェア会場で見たものを打ち明けると、片瀬も電話で聞いた横田の事情を話してくれた。もちろん他の社員には伏せておくし、泉子が知っていることを片瀬は横田には言わない。
 つまり、泉子はようやく肩の荷を降ろせたというわけだ。
「バレンタインには魔物が住んでるのかしらねぇ」
 おっとりとつぶやく片瀬は、昨日の佐伯の話を思い出しているに違いない。
 泉子も同感だった。もっとも、悪魔が美酒を差し出すのはバレンタインに限らないとは思うが。
 今日はまさにそのバレンタインで、片瀬が買ってきた義理チョコは、朝礼の前に横田を除く男性陣にすでに手渡した。反応はまばらだったが、四人ともそれなりに嬉しそうだった。春に異動になる星野が特に喜んでおり、餞別のかわりになったのは良かったと泉子も思う。
「片瀬さん、ありがとうございました」
 所属フロアのドアが近づいてきたので、泉子は片瀬に、話を聞いてくれた礼を言った。
「ううん、誘ってくれて嬉しかった。また一緒にランチしようね」
 それはなるべく遠慮したい――と思ったのだが、片瀬が笑顔のままドアに手をかけたので、やんわりと断る機会は逃してしまった。
 片瀬と泉子がフロアに入ると、佐伯と松川が慌ててデスクの引き出しを閉め、そろって顔を上げた。
 横田が休みの日は電話番のために二人ずつ交代で昼休みをとるようにしている。今日は新人の二人に先に行かせ、泉子と片瀬が後からとったので、佐伯も松川も今は勤務中のはずである。
 とはいえ、課長も先輩二人もいない時にこっそりスマホを見るくらい、泉子も片瀬もいちいち咎めたりはしないのだが――佐伯と松川は不自然なほど素早く姿勢を正し、それでいてお互いに目配せを送っていた。何かを隠しているかのように。
「どうしたの、二人とも。内緒話でもしてた?」
 泉子が冗談めかして尋ねると、二人はあからさまに顔を見合わせ、やがて観念したかのように、引き出しを開けて何かを取り出した。
「篠山さん、それに、片瀬さん。これ、私たち二人からです」
 佐伯と松川は立ち上がり、一つずつ手にした小さめの紙袋を差し出した。シンプルな白い袋に、マスキングテープとサインペンで可愛らしくデコレーションしてある。
「え――もしかしてチョコレート?」
「はい。昨日の夜、和華(わか)ちゃんのアパートで一緒に作りました」
「手作り? すごい」
「作ったのは主に千鶴ですよ。私はラッピング担当で」
 新人たちはかすかにはにかみながら、互いに手柄を譲りあっている。男性たちに義理チョコを渡した時よりも嬉しそうである。彼らには手作りのチョコレートは渡していなかった。
「じゃあ、私も――本当は帰りがけに渡すつもりだったんだけど」
 片瀬は後輩がくれたチョコレートを提げたまま、自分のロッカーを開けて大きな紙袋を手に取った。引き返してデスクに紙袋を置き、中から長方形の赤い箱を取り出した。
 箱のデザインから見て、男性たちに贈ったものと同じメーカーの商品のようだ。ただし、明らかにこちらのほうが大きい。
「はい。篠山さん。松川さん、佐伯さん」
 新人たちが受け取って口々に礼を言う。
「――ありがとうございます」
 泉子も同じように言って、片瀬から赤い箱を受け取った。ボルドー色の箱には黒いゴムが斜めにかかっており、その端には銀色に輝く小さな十字架のチャームが付いている。
 泉子はその箱をじっと見つめた後、無言で自分のデスクの引き出しを開け、サブバッグとして使っているトートバッグを取り出した。
 片瀬、佐伯、松川の三人が、ほとんど同時に、えっ、という顔になる。そんなに意外だっただろうか。
 いちばん意外に思っているのは泉子だ。自分が職場の同僚のために義理チョコを買うなんて。
「どうぞ。私からです」
 トートバッグから丸い缶を三つ取り出し、付属の紙袋に一つずつ入れて、三人に手渡していく。缶の中身はオーソドックスなボンボンのアソートだ。ゾールと一緒に食べるために買ったものと同じメーカーである。
 義理チョコ文化はさっさと滅べと思っているが、片瀬には頻繁にお菓子をもらっているし、松川と佐伯は入社から一年間よく頑張ってくれた。気軽な贈り物としてバレンタインのチョコレートは悪くないと思ったのだ。
「あ、この缶かわいい」
「篠山さん、ありがとうございます」
 後輩たちは素直に喜んでくれている。
 片瀬は両手で受け取ると、ゆっくりと表情を変えた。
「ありがとう……篠山さん」
 両目がきらきらと輝いて、今にも泣き出しそうである。
 勘弁してほしい。まるで泉子が普段は片瀬をいじめているようではないか。
「開けてみていいですか、篠山さん」
「どうぞ。私も手作りの見せてもらうね。片瀬さんのも」
「私のは男の人たちにあげたのと変わらないよ」
「でも、こっちのほうがたくさん入ってますよね」
 四人で好きなことを言いあいながら、それぞれもらった袋や箱や缶を開ける。バレンタインのチョコレートは包装も中身も見た目が華やかで好きだ。
 片瀬がくれたトリュフは男性陣へのものと同じだったが、数は倍の八個が入っていた。松川と佐伯が作ってくれたのはナッツがふんだんに入ったブラウニーで、スティック型に切って透明なセロハンで包んである。
 どちらも美味しそうだ。ゾールが喜ぶと思ったが、見ていると自分でも食べたいような気がしてくる。

「そういうわけだから、今日のチョコレートはこれね」
 皿に盛りつけたブラウニーを悪魔に差し出しながら、泉子は言った。自分の皿も手前に置いて、テーブルの脇に腰を下ろす。
 作ったのが昨日なら数日は持つのかもしれないが、松川はできるだけ早く食べてほしいと言っていた。フェア会場で買ったチョコレートは冷やしておけばまだ持つだろうから、今日は松川と佐伯にもらったブラウニーを先に食べることにする。
 ゾールは羽のない扇風機から出る温風に顔を晒してヒャッハーしていた。今日はそれなりに寒いので、電源を入れることを許したのだ。回転もさせずにゾールが正面に居座っているので、泉子のほうまでは暖がほとんど来ないが。
「チョコレートが増えたのか」
「職場でもらったの。今日のは松川さんと佐伯さんの手作り。片瀬さんからもらったのは賞味期限が先だから、また今度ね」
 片瀬がくれたトリュフの箱をゾールに見せながら、自分でもなんとなく眺めてみる。蓋のボルドー色は照明の当たりかたによって光沢が出てきれいだ。
 泉子は悪くない気分で見とれていたが、ぎゃっという叫び声を聞いて顔を上げた。
 テーブルの向こう、羽のない扇風機の手前で、ゾールが頭を抱えてうずくまっている。
「どうしたの、ゾール」
「それをしまってくれ。頼むから、泉子」
 艶のある黒髪に両手の指を差し入れて、悪魔はがたがたと震えていた。
「これのこと? 中身は美味しそうなトリュフだけど。たぶんお酒も入ってな」
「いいから、しまってくれ! 中身はいい。問題はその、箱についているものだ」
「箱についてるもの――」
 横長のボルドーの箱には、模様を描くように黒いゴムが斜めに巻かれ、その端には銀色の小さな十字架がついている。
 何気なくそれを指でつまむと、ゾールは再びぎゃーと声を上げた。
「これなの? この十字架? ゾール、十字架が苦手なの?」
「あたりまえだ、俺は悪魔だぞ! 泉子もそんなものに触れるな、指の骨が汚れたらどうする」
「十字架って言っても、これは別に本物じゃないと思うんだけど」
 デザインの一部としてついているだけだし、大きさも泉子の指先だけで摘めるほどだ。敬虔なキリスト教徒なら神聖な印をファッションとして利用されたことに憤慨するかもしれない。
 その程度のものであるにもかかわらず、ゾールは抱えた頭を上げることもできず震え続けている。悪魔が十字架を忌み嫌うというのは本当なのか。ゾールの悪魔らしい一面をはじめて目にしたような気がする。
 泉子はじわじわと笑みが浮かんでくるのを感じた。片瀬はいいものをくれた。いつもはゾールに振り回されてばかりだが、これを残しておけば何かの役に立つかもしれない。
「じゃあゾール、片瀬さんにもらったトリュフはいらないんだね」
「何を言うか。その忌まわしいものさえ外してくれればそれでいい」
「はいはい。外しておくから」
「外すだけではなく捨ててくれ。そんなものが置いてある場所にいることは耐えがたい」
「はい、捨てたよ」
 十字架のチャームのついた黒ゴムを、ゴミ箱に落とすふりをしながら、こっそりローボードの引き出しを開けて入れる。
「とりあえず、ブラウニー食べようよ」
 自分もなんだか悪魔めいてきたな、と泉子は思った。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.