悪魔来たりて紐を解く [ 3−4 ]
悪魔来たりて紐を解く

3.誘惑とバレンタイン(4)
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「横田課長、今日は遅れて出勤されるそうです」
 泉子が出勤すると、片瀬がフロアにいる社員に告げた。
 フロアには新人の松川と佐伯、四人の男性社員の全員がそろっている。どうやら今日は泉子が一番遅く、その泉子が来るのを片瀬は待っていたらしい。
「体調不良ですか?」
「理由は聞いていないの。でも、声を聞く限り調子は悪くなさそうだった」
 泉子は内心ほっとしている自分に気がついた。
 横田が休みなら、今日は話をする機会はない。その間に片瀬に相談することもできるかもしれない。
「片瀬さん、課長がいないってことは、今日この後――」
 佐伯が何か言いかけ、人差し指を口にあてた片瀬に笑顔で遮られている。星野と柿内が意味ありげな視線を二人に向けている。
 課長がいないなら、今日はバレンタインの義理チョコについて遠慮なく話ができる。佐伯が言いたかったのはそれだ。あの様子では男性陣にも筒抜けだと思うが。
 片瀬が買ってきた義理チョコを佐伯と松川はまだ見ていないようだが、泉子は昨日の昼休みに画像で見せてもらっていた。四種類のトリュフが横長の箱に並んでいるものだ。メーカーはそこそこ名の知れた老舗で、値段は予算内にきっちり収まっている。片瀬らしい間違いのないチョイスである。
「何、佐伯さん。女子だけでこそこそとバレンタインの相談?」
 あっさり禁句を口にしたのは、営業メンバーで最年長の阿佐田だった。課長の横田と同じ四十代だが、小柄な横田と違って体が大きく、スーツ姿で立っていると威圧感のようなものがある。その外見に反して口に出すことは軽々しいのだが。
 名指しされた佐伯は、不機嫌さを隠そうともせずそっぽを向いて答えた。
「こそこそなんてしてませんよ。バレンタインの話ぐらい、昨日も星野さんたちとしてたじゃないですか」
「そんなこと言って、裏でこっそり手作りしてるんじゃないの。本命の男狙いで。女の子はこの季節大変だよね」
 佐伯が眉間に皺を寄せてパソコンを睨んでいる。
 バレンタインとは女性が男性にチョコレートを渡して告白する日だと思っている人間は、今でも一定数いるようだ。泉子は佐伯に助け船を出してやりたかったが、言うべきことが思いつかず黙ったまま席に着いた。
「佐伯さんは手作りはしないってこないだ言ってましたよ。――松川さんはするんだっけ」
 阿佐田と佐伯の両方の顔色を窺うように、若手の柿内が会話に割り込んでいる。柿内は入社二年目で、佐伯や松川の一年上である。
「しますよ。簡単なものばかりですけど」
「いいな。美味しいんだろうなあ」
 柿内は呟きながら、松川と目をあわせず妙な方向を向いている。
 松川のことが好きか、少なくとも気になっているらしい。隠しているつもりのようだが、泉子にさえ見抜かれるようでは部署の全員にバレバレである。
 微笑ましいとは思ったが、加勢してやることはできなかった。ここで、泉子が自分も食べてみたいなどと言い出したら、松川は手作りチョコを職場で振る舞わざるを得なくなってしまう。
「柿内、おまえ何一人で強請ってんの。松川さん困ってるぞ」
「いや、強請っているつもりは……」
「気持ちはわかるよ。僕も手作りのチョコレートなんて、もうずいぶんもらってないなあ」
 星野までが会話に加わり、穏やかにぼやいている。もう一人の男性社員である門脇も、言葉は発しないまでも彼らにちらちらと視線を投げている。
 四人の男性の間に、どこか牽制しあうような雰囲気が見えるのは気のせいか。こそこそしているのは男性たちのほうではないのか。
 松川が彼らをおろおろと見比べている。良かったら明日のバレンタインに作ってきますよ――と言い出しそうな表情になり、泉子が口を挟んで止めようとした瞬間、佐伯の不機嫌な声に先を越された。
「バレンタインってそんなにいいものですかね? 私、どっちかと言うと嫌な思い出のほうが多いんですけど」
 佐伯はパソコンの画面を睨んだまま話している。松川を庇うためというより、この話題にうんざりしているようだ。
「佐伯さん、嫌な思い出って?」
「本命にふられたとか?」
「違いますよ。チョコレートを盗まれたんです」
 全員がぎょっとした反応を示し、フロアに空気のわずかな細波が起こった。
「盗まれたって? 本命に渡すつもりだったチョコを他の男に持っていかれたの?」
 阿佐田があけすけに尋ねている。いい加減に本命という言葉から離れろと泉子は思う。
 佐伯も同じことを思ったのか、阿佐田を軽く睨んでから、パソコンに視線を戻した。
「うちの実家、私が小さいころ日用雑貨の店をやってたんです。田舎にありがちな個人経営の何でも屋。それで、隅のほうに小さい駄菓子のスペースもあって、近所の小学生なんかがよく買いに来てたから、二月になるとバレンタインチョコもちょっと置いてたんですよ。おしゃれなやつじゃなくて、量産品の安物ですけど」
 泉子も地方の出身なので、そうした光景には見覚えがあった。調味料やレトルト食品と並んでお菓子の棚があり、見慣れたのど飴やスナック菓子の脇に、二月だけ申し訳程度に並ぶチョコレート。なぜか決まってハート型で、ピンクの袋に包まれていた。一枚百円程度なので小学生にも買いやすかったが、味のほうは今一つで、同じ百円ならいつもの板チョコのほうが美味しいと感じた記憶がある。
 それでも、田舎の小学生女子だった泉子は、友人たちと一緒にそれを買った。
「そのチョコレートを盗まれたの?」
 泉子が言うと、佐伯がパソコンから顔を上げてうなずいた。他の社員たちも視線を送ってくるのは、泉子が雑談に加わるのが珍しいからだろう。
「そうです。そんなに大した被害額じゃないんですけど、店をやってたおじいちゃんが悲しがるから、私も嫌な気持ちになりました。万引きする子なんてめったにいないんですよ、田舎でそんなことして見つかったら、すぐにご近所で噂になるから」
「それなのに、バレンタインチョコだけが盗まれたの?」
「多くてもシーズンごとに数枚ですけどね。見かねたうちの父が、もうバレンタイン商品なんて置かなくていいって、おじいちゃんに言ったんですけど。おじいちゃんは二月になると女の子たち――って言っても小学生くらいですよ。その子たちが買いに来てくれるのが嬉しかったみたいで、結局、バレンタインチョコはレジ台の内側に置いて、買いたい時は声をかけてもらうことになりました」
 地方の小さな個人商店に、一枚百円の美味しくないチョコレートを、おそらくは好きな男子のために買いにくる少女たち。その中の何人かは、お金を払わずにポケットや鞄に忍ばせていた。
 泉子は二日前に見た横田美羽を思い出さずにはいられなかった。
 彼女たちの手を伸ばさせた悪魔の美酒は何だったのか。
「私、大人になってから思ったんですけど、あれってバレンタインのせいだったと思うんですよね」
 佐伯はパソコンを操作するのをやめて、デスクに頬杖をついている。バレンタインってそんなにいいものですか、と訊いた時と同じ表情で。
「同調圧力? みんなが誰かにチョコレートをあげるから、自分もあげなきゃみたいな」
「それもあるけど――なんていうか、子どものころのバレンタインって異様な空気だったじゃないですか。人によるかもしれないけど、私なんかは小学校高学年のバレンタインが一番切実でした。大人になると、自分が食べるチョコレートを買ったり、女友達と贈りあったりすることが中心になって、わりと楽しめるんですけど」
「ああ……」
「それはわかる気がする」
「え、そういうもん?」
「とにかく、十二歳くらいのバレンタインって、変な熱気みたいなのがあったと思うんです。その熱気にみんなやられちゃってたっていうか……ほら、お祭りの人混みの中で痴漢とかスリとかする人いるじゃないですか。ああいう感じ?」
「火事場泥棒じゃん」
「いや、それともちょっと違って」
「今の話だと、クリスマスのお菓子も盗まれやすいんじゃないの」
 佐伯を取り囲む社員たちは、口々に好きなことを言いあっている。どうも相手によって伝わりやすさに差異がある話らしい。
 泉子は伝わったほうの人間――だと思う。佐伯に対して、よくぞ分析してくれた、と言いたい気分になっている。それが的を射ているかどうかも、横田の娘のケースにあてはまるかどうかもわからないし、わかったところで何かの解決になるわけでもないのだが。
 ただ、思った。悪魔の美酒の正体が、思春期のバレンタインという一種の魔の時間なら、それが過ぎ去れば美酒の効果は一気に醒めるのではないか――
 泉子の思考に水を差すように、フロアの電話が鳴った。やや観念的な話を聞いたところへ場違いな音が鳴ったせいか、他の社員たちも一瞬だけ震え上がっていた。
「はい、ユニフォーム事業部――あ、おはようございます」
 受話器を取った松川が、電話の相手に小さく頭を下げている。
 泉子はパソコンの端に表示された時刻を見た。朝礼の時間どころか、始業時間もとっくに過ぎている。
 電話の音に呼び覚まされたように、全員が自分の席に着き、業務の準備に取りかかろうとしていた。その中で松川が何度かうなずき、電話の保留ボタンを押して受話器を置いた。
「片瀬さん、横田課長からです」
 泉子は思わず片瀬を見た。
 片瀬は無言で松川にうなずくと、自分の席に着いて受話器を持ち上げた。短い挨拶の後、はい、とか、え、とか、言葉にならない言葉で相槌を打っている。いつもはきはきと復唱する片瀬にはめずらしい。
 その顔から少しずつ表情が抜け落ちていくのを、泉子は見守るような思いで凝視していた。


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