悪魔来たりて紐を解く [ 3−3 ]
悪魔来たりて紐を解く

3.誘惑とバレンタイン(3)
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 本命チョコの定義とは何なのか。
 ボンボンチョコレートの粒を嬉しそうに口に入れる悪魔を見ながら、泉子は考えていた。
 違います、本命じゃありません――と片瀬には言った。あのフェアに寄ったのは同じビルの他の店に行ったついでだし、チョコレートは自分用と知人に贈るために買ったんです。
 片瀬はにこにこしながら、うん、わかってるよ、と、どう見てもわかっていない顔で言った。
 なまじ義理チョコに乗り気ではなかったせいで、泉子が買うのは本命用だと決めつけられてしまったらしい。友チョコや自分チョコという概念は片瀬にはないのだろうか。
 昼休みの残り時間は片瀬を説き伏せることで潰れてしまい、結局、横田の娘の件は相談できなかった。
「泉子は食べないのか。美味いぞ」
 テーブルを挟んだ向こうから、ゾールが珍しくこちらを気遣うようなことを訊いてくる。
 バレンタイン当日まで隠しておくなどという可愛らしいことをする気はまるでなかったので、買ってきたチョコレートは帰宅してすぐゾールにすべて見せた。ただし、食べるのは泉子がいる時だけと言い含めてある。
「――食べる」
 形も味もさまざまなチョコレートが並ぶ箱から、泉子は洋酒入りのものを選んでつまみ上げた。ゾールは酒気の強いお菓子が好きではないらしい。反対に泉子は好きなので、こういったアソートを分けあう時は自然と配分が決まってくる。
 口に入れてしばらくすると、思ったより強い洋酒の風味が響いた。それで頭がぼんやりするということはなく、かえって忘れていた考えが呼び覚まされる。昨日のフェア会場で起こったことである。
 気をそらせるために、泉子はテーブルに置いていた文庫本を手に取った。
 E.T.A.ホフマンの『悪魔の美酒』。バレンタインフェアの帰りに寄った書店で、新訳が文庫で出ているのを見つけ、すぐに手に取ってそのままレジに持っていった。最近、悪魔と名のつく作品に敏感になっていることは認めざるを得ない。
 学生時代に大学の図書館で読んだことがあるので、ストーリーの内容は知っている。
 青年僧メダルドゥスが、かつて悪魔が聖人に飲ませたという美酒を手に入れてしまい、そのために波瀾万丈の事件に巻き込まれていく。宗教的な趣が強いと思わせる一方で、恋愛や血族関係の俗っぽいプロットも絡み、とにかく読んでいて飽きない。悪魔は作中には登場しないが、悪魔が残した美酒は印象深く書かれている。
 信心深い人間を誘惑して禁断の美酒を飲ませるとは、なんとも悪魔らしい悪魔である。目の前に座っている、甘党で酒には弱い悪魔を、泉子はこっそり盗み見る。ゾールは泉子の視線に気づかず、砕いたアーモンドを散りばめた甘そうなホワイトチョコを口に入れている。
 『悪魔の美酒』は昨日から読み始めていたので、あっという間に終盤まで進んだ。読み終えて文庫本を閉じると、泉子はカバーを外してゾールに表紙を見せた。
「ゾール、この本は読んだことある?」
 悪魔は口の中のチョコレートを飲み込むと、興味があるともないともつかない表情で答えた。
「ないな。また悪魔の本分がどうのと説教されるのは御免だぞ」
「そんなことしないって。――ていうかね、悪魔がみんなゾールみたいに怠けてても、人間は誘惑の種には不自由しないんだよね」
 『悪魔の美酒』の結末近く、帰還したメダルドゥスから旅のあらましを聞いた修道院長が言う。
 この地上には悪魔が常にうろついており、人間に禁断の美酒を差し出している、その酒を一度も飲まなかった人間が、果たしてどれだけいただろうか。
 フェア会場にいた少女たちも、ひょっとして、目に見えない悪魔に誘惑されていたのだろうか。
 それを目にしてしまった泉子が、見なかったことにする、という誘惑に抗えなかったのと同じように。
 この一日余り、泉子の上にのしかかっていたのはそういうことだ。
 中学生の万引き現場などを目撃してしまったら、呼び止めて咎めるか、店員に知らせるという義務が生じてしまう。どちらを選んだ場合も逆恨みされるかもしれないし、警察沙汰になって泉子も足止めを食らうかもしれない。
 トラブルや面倒事は避けて通れるものならそうしたい。相手が上司の娘ともなればなおさらだ。職場の人間の家庭事情になど首を突っ込みたくない。
 片瀬に相談するかどうか迷って結局しなかったのも、いったん相談してしまったら、見なかったことにして忘れるという選択肢が消えてしまうからだった。
 面倒なことを避けたいのは誰でも同じだと思うが、社会人としてどうなのか。泉子は思わずテーブルに顔を突っ伏した。さっき食べたチョコレートの酒気が今さら効いてきているようだった。
「それほどチョコレートの誘惑が耐えがたいのなら、隣の部屋へ行って俺だけで食べるぞ」
 悪魔の声に泉子は顔を上げた。ゾールが隙に乗じて自分に引き寄せていた箱を、泉子は手を伸ばしてつかむ。
「だめ。ゾールも今日はもうおしまい。残りは明日ね」
「まだ三粒しか食べていないぞ」
「一日に三粒まで。これも他のチョコもけっこう高かったんだから、当分おやつはチョコレートだけで持たせるからね」
「俺も日々誘惑と戦っているぞ。泉子がいない間は勝手に菓子を食べたりしないし、あの文明の利器の素晴らしさも味わっていない」
 ゾールは形の良い眉の端を下げながら、壁際に置いてある羽のない扇風機を見る。
 誘惑と戦わなければならないのは泉子も同じである。勤務中は何かあるたびに、片瀬のストッキングが伝線すればいいとか、横田のマグカップに蜘蛛が入ればいいとか、くだらないことに魔力を使いそうになっては思いとどまっているのだ。魔力があるのも意外と不自由である。
 どうせなら、他人に災いを及ぼすためだけでなく、他のことにも使える魔力なら良かったのに。
「――ゾール」
 チョコレートの箱に蓋をかぶせた泉子は、ふとよぎった考えに口を開いた。
「魔力って、人に災いが起こるようにできる力のことだよね」
「そうだ」
「それが起こった時は災難だと思ったけど、後から考えれば起こってくれて良かったと思うような災いも起こせるの?」
「例えば、どんな」
「例えば――誰かを殺すために家を出た人を雷雨に遭わせて、結果的に殺人を思いとどまらせるように仕向けるとか」
 ゾールはにやにやと口の端を上げながら泉子を見ていた。魔力について話している時のゾールはどこか悪魔らしい顔をしていると思う。
「泉子の目的は、その殺人者に雷雨を見舞うことか、それとも殺しに手を染めるのを防いでやることか」
「防いであげることのほう」
「なら駄目だ。魔力が働くのは、泉子が本心から災いを及ぼしたいと思った相手だけだからな」
「……そうだよね」
 泉子は横田のマグカップに虫が入ればいいとは思っているが、横田の娘が万引きで補導されればいいとまでは思っていない。ただ、一度でも大人に見つかって叱責されれば、以降は同じことをしなくなるだろうとは思ったのだが、どうやらそういった目論見のためには魔力は役に立たないらしい。
「殺人を計画している者が、泉子の知り合いにいるのか」
「物騒なこと言うのやめて。――殺人じゃなくて窃盗。お菓子を一つポケットに入れただけだし、その一度きりのことなのかもしれないけど」
 泉子が目撃したのがたまたま誘惑に負けた結果であり、以後は二度としないという可能性もあるが、かと言ってその一回を見なかったことにしていいのだろうか。
「盗みと魔力は相性が悪いな。盗人の目的は金や物を手に入れることであって、その持ち主に財産を失わせることではないからな」
「お金や物を持ってる人のことをすごく嫌ってたとして、その人がそれを失くすことを願うのは駄目なの?」
「願うことはできるし、失わせることもできるが、失った金や物が誰の手に渡るかは指定できない」
「他の泥棒の手に入ったり、ただ単に落とし物ってことになるかもしれないわけね」
 魔力は意外と扱いづらいと思いつつ、泉子はつい熱心に聞いてしまう。魔力を使った盗みのノウハウを学びたいわけではないのだが。
 しかし、魔力が役に立たないとなると――結局は見たものを横田に伝えるしかないようだ。
 あるいは、見なかったことにして忘れるか。
 中学生と言えば、一般的に難しい年ごろと言われている。父親に欠かさずバレンタインチョコを作るような優しい少女でも、稀に出来心を起こして軽犯罪に手を染めてしまうことはあるのかもしれない。そもそも、親思いのいい子であることと、万引き犯であることが、必ずしも矛盾しているとは限らない。
 横田の娘がポケットに入れたのは一箱数百円の小さな商品だった。大手の国内メーカーのもので、並ばなければ買えないような限定品でもない。一つ欠けたところで店にとってさほど大きな損失ではないだろう。
 泉子が黙ってさえいれば、誰も不幸にはならずに済む――ああ、また悪魔が美酒を差し出している。
 思わず頭を抱えた泉子の視界が、急に薄暗くなった。視線を上げると、ゾールがいつの間にか側に来て、泉子の顔を覗きこんでいた。
「……何?」
「鎖骨に触れたい」
 親身になって何らかのアドバイスをしてくれると一瞬でも期待したのが間違いだった。つくづく、悪魔とは羨ましい生き物(と言っていいのか?)である。
「――ちょっとゾールに騙された気分」
「騙したとは人聞きの悪い。どういうことだ」
「魔力って意外と使い勝手が悪いんだよね。ポイントを貯めるだけ貯めて一度も使う機会のない店みたいな感じ」
 実際には一度だけ使った。お試し期間中に横田の足の指先をデスクにぶつけさせた時に。
 ゾールは毎晩でこそないものの、それに近い頻度で泉子(の骨)に触れたがる。このまま魔力が貯まっていく一方だとしたら、自分はどうなるのだろう。人類滅亡を願って叶えられるレベルになるのだろうか。
「騙したわけではないぞ。契約を結ぶ前に、魔力の使い方については一通り説明したはずだ」
「まあね。てか、騙すのも悪魔の仕事の一つじゃないの」
「説教は御免だと言っただろう。それで、俺を楽しませてくれるのか、くれないのか」
 部屋の照明が逆光になっているためか、ゾールの瞳はいつになく黒くて深い。片端をつり上げた唇は紅でも塗っているかのように赤く見える。
「はいはい、いいですよ」
 泉子は座っている位置から動かず、心持ち胸を張って鎖骨を突き出すようにした。
 愛人契約を結んで以来、襟ぐりの開いた服を選ぶのが習性になってきている。


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