悪魔来たりて紐を解く [ 3−2 ]
悪魔来たりて紐を解く

3.誘惑とバレンタイン(2)
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「小学生のころは、私もバレンタインには手作りなんかして、同じクラスの男子にあげたりしてましたけどね。中学からはそんな面倒なことしなくなりましたね。彼氏にもお店で買ったものばっかりです」
 ロッカーにコートをかける泉子の耳に、佐伯の楽しそうなおしゃべりが聞こえてくる。
 松川と二人ではなく、珍しく男性陣も交えて話している。春で異動になる星野と、男性では部署内最年少の柿内(かきうち)が、佐伯の話に相槌を打っている気配がする。
「松川さんは?」
「私は……お菓子作りは好きですけど、家族以外に食べさせることはめったにないです」
千鶴(ちづる)のお菓子は美味しいんですよー」
「佐伯さん、食べさせてもらったことあるの?」
 泉子はロッカーの扉を閉めると、踵を返して自分のデスクに向かった。
 フロアにいるのは雑談に興じている四人と、男性陣で最年長の阿佐田(あさだ)、もう一人の門脇(かどわき)。片瀬と課長の横田の姿はまだない。
 他の社員たちがそれぞれ会話や始業準備に集中しているのを確かめると、泉子はさりげなく方向を変えて課長のデスクにまわった。何かを捜すふりをしながら、モニターの脇にある小さな写真立てに視線をやる。セーラー服とピンクのワンピースを着た二人の少女の写真だ。
 間違いない。昨日フェア会場で見かけたのは、このセーラー服の少女である。
篠山(ささやま)さん、何か捜し物?」
 雑談していた星野が話を中断し、泉子のほうに顔を向けた。
「――金曜日に片瀬さんが休みだったでしょう。課長のマグカップ、ひょっとして置きっぱなしじゃなかったかなって」
「私が洗わされましたよ。忘れ物を取りに来たら呼び止められて。洗い物くらい自分でしろっつーの」
 佐伯が毒づくのと同時に、フロアの入口が開き、横田と片瀬が一緒に入ってきた。片瀬は例によって横田のマグカップをトレイに載せている。
 泉子は急いで横田のデスクから離れ、自分の席に向かった。
「あ、片瀬さん! 片瀬さんはバレンタインチョコの手作りってしたことありますか?」
 佐伯の愚痴をごまかすように、なぜか本人ではなく松川が声を上げる。
 片瀬は横田の後についてフロアの奥まで歩き、湯気の立つマグカップをデスクに置きながら、にこやかに会話に加わった。
「実家に住んでたころはしてたよ。今は製菓道具が揃ってないからできないけど」
「片瀬さん、彼氏に手作りチョコはあげないの?」
「手作りチョコレートにもいろいろあるんですよ、課長。簡単なものから難しいものまで。娘さんたちに聞いたことありません?」
 すかさず横田が口を挟んだが、片瀬はにこやかな表情のまま器用に矛先をかわした。さすがである。
 さすがだが――泉子にとっての急所を出し抜けに突いている。
 泉子は表情を変えないように心がけながら、自分の席に着いた。
 横田は片瀬の言葉に気を良くしたらしく、表情を緩ませて答えている。
「どうかなあ。二人とも作る時は大騒ぎだけど、失敗したことはないんですよ」
「課長、娘さんから手作りのチョコレートをもらってるんですか」
「上の娘がお菓子作りが好きでね。妹に教えながら作って、二人してバレンタイン当日に渡してくれるんです」
「へー可愛い」
「いいですね」
 フロアにいる社員たちが次々に明るい声を上げている。朝礼前の雑談としては文句のつけようのない最適な話題だ。
 泉子だって、こういう話であれば素直に相槌を打てる。部下にマグカップを洗わせ、二言目には彼氏という単語を持ち出す上司でも、家に帰れば娘に甘い父親なのだと微笑ましく思える。
 しかしそれは、その娘の万引き現場を目撃したばかりでなければだ。
「松川さんと佐伯さんも、彼氏だけじゃなくお父さんへのチョコレートも忘れずにね」
「私は実家が遠いんで無理ですね」
「私は毎年あげていますよ」
 横田の軽口を新人たちがあしらっている。泉子はこういう話題に乗らないと認識されているので、巻き込まれずに済んでいるのが幸いだ。
 パソコンを起動しながら、昨日フェア会場で見た光景を思い出してみる。
 横田の娘は写真で見た印象と変わらず、ごく普通の真面目そうな中学生女子だった。私服姿だったが取り立てて派手な格好ではなく、まして荒れていそうな様子でもない。一緒にいた二人の友人も同じような雰囲気だった。
 お菓子作りが好きで、毎年のバレンタインに妹と一緒にチョコレートを作り、父親に贈って喜ばせる。そんな少女が、商業ビルのフェア会場で、安価とはいえ商品の一つをポケットに入れる――一連の事実としてどうしても呑み込めない。
 いや、これは中学生という存在への泉子の無知がなせる技なのか。万引きをするのは派手な子や荒れた子だというのは思い込みで、実際は大半の子どもが一度は誘惑に駆られてやってしまうものなのか。
 それとも、家族思いの娘、真面目な中学生という印象のほうが誤っていて、実態とかけ離れているのか。一度見かけただけで話したこともない上司の娘を判断できるはずがない。
 自分が中学生だった時を思い出そうとしたが、十年以上も前のことなのでよくわからなかった。思い出せるのはどちらかと言えば嫌な記憶ばかりで、泉子がうっかり後悔し始めた時に、片瀬の明るい声が響いた。
「あ、もう十分前ですよ。朝礼を始めましょうか」
 いつもの時間を五分以上過ぎている。社員たちはそれぞれ自分のデスクに戻り、座っていた者は椅子を引いて立ち上がっている。
 何はともあれ、今からは仕事に集中しなければならない。泉子も自分の席から腰を上げたが、ほぼ同時に背後を通り過ぎた片瀬が、耳打ちするようにささやいた。
「篠山さん、昨日はいいところで会ったよね」
 振り向くと、満面の笑みを浮かべた片瀬としっかり目があう。
 泉子は心臓が止まりそうになった。

「なんだ、篠山さん気づいてなかったの。目があったような気がしたんだけどな」
 昼休み、泉子は社内の休憩スペースで片瀬と並んでいた。
 片瀬は手作りのお弁当、泉子は近くのカフェで調達したサンドイッチとコーヒーである。いつもならランチは外で済ませるのだが、今日だけここに来たのはもちろん片瀬と話すためだ。
 昨日のバレンタインフェア会場に片瀬も来ていた。そんなことを聞いてしまったら、詳しく話をせざるを得ない。
「すみません、気づかなくて」
「ううん。遠かったから、私も声をかけられなかったの。あ、って思った時には人混みに流されちゃって」
「片瀬さん、課長たちへのチョコレートを買いにいってくれてたんですよね」
「そうだよ。篠山さんを見た時はもう買った後だったの。そうじゃなかったら意見を聞かせてもらってたんだけど」
「必要ないですよ。片瀬さんが選んだものなら間違いないです」
 片瀬は嬉しそうに笑った。いつもに増して朗らかなのは、泉子が一緒にランチをする気になったからかもしれない。これまでに何度も誘われたが適当な理由をつけて断っていたのだ。
「予算ぎりぎりだったけど、わりといいのが買えたよ。あとで写真見せるね」
「楽しみです」
「今時、義理チョコなんて古いっていう人もいるかもしれないけどね。私はそういうしきたりっていうか、習慣も大事だと思うの。部署内のコミュニケーションを円滑にするために」
 円滑、円滑。片瀬の口癖である。
 そんなに滑るのが好きなら今日の帰りにバナナの皮でも踏んでみろ――と泉子は思いかけ、慌てて自分の中で否定した。なまじ魔力など持っていると、内心ですらかえって毒が吐けない。
 義理チョコの件では、片瀬に対する怒りは前ほど強くなくなった。片瀬は発案者として買うのも運ぶのも引き受けてくれたし、予算も全体の半分を自分一人で負担した。参加することを承諾した以上、泉子も後輩たちよりは多めに出すつもりだったのだが、片瀬がいいと言ってくれたので最小額で済んでしまった。
 それに、今は怒りよりも別のことで頭がいっぱいなのだ。
 昨日のフェア会場で、片瀬が泉子と同じ光景を見たかどうか。
「横田課長ですけど」
 泉子はコーヒーを一口飲み、平静を装って切り出した。
「娘さんたちから毎年手作りチョコをもらえるなんて、お幸せですよね」
「ねえ。二人とも可愛いし」
「片瀬さん、会ったことあるんですか」
「ううん。動画を見せてもらったの。上の子が中学生で美羽(みう)ちゃん。下の子が小四で里羽(りう)ちゃん。去年のバレンタインの動画でね、どちらも本当にお父さんが大好きみたい」
 美羽ちゃん――泉子は昨日のフェア会場にいた少女を思い浮かべる。
 名前を知ってしまった。知らないほうが他人事だと思いやすかったのに。
 片瀬はどうやら横田の娘を見なかったようだ。万引きの瞬間を目撃しなかったとしても、姿を見れば片瀬なら声をかけるだろうし、声をかけたのなら今ここで泉子にそのことを言うだろう。
 やはり、昨日のことは泉子の胸にしまっておくべきなのか。
 休憩スペースには他に同じ部署の者はいないが、社内の人間は当然ながら何人もいる。今この場所で、上司の娘が万引きを犯したなどと言えるはずがない。
 片瀬に相談するとすれば、終業後にどこか別の場所で会うべきなのか。片瀬は喜んで誘いに乗ってくれるだろうが、自分はそもそも片瀬にこのことを伝えたいのか――。
「篠山さん、何か私に言いたいことがあるんでしょ」
 食べ終わったお弁当箱に蓋をしながら、片瀬が唐突に言った。
 泉子のサンドイッチはまだ半分近く残っている。それに伸ばした手を止めて、泉子は片瀬を見た。片瀬は笑顔のままお弁当箱をナプキンで包んでいる。いつもと違うのは、その笑顔にどこか含みがあることだ。
「篠山さんが一緒に食べてくれるなんて、何かあると思ってたんだよね」
「片瀬さん――」
 言うべきか。昨日、私はこんな光景を見てしまったんですけど、片瀬さんならどうしますか。
 他人事にできないのなら、せめて誰かと重荷をシェアしたい。片瀬は円滑な人間関係を好んでいるが、面倒なことから目を背けるタイプではないと思う。
 ぽん、と片瀬の手が泉子の肩に載せられる。
「安心して。昨日のことは誰にも言わないから」
「――言わない?」
「篠山さんが本命チョコを買ってたなんて言ったら、部長も阿佐田さんも変に興味持ちそうだもんね。篠山さん、そういうの鬱陶しいでしょ」
 さらさらのハーフアップの髪を揺らしながら、片瀬は可笑しそうに請け合った。


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