悪魔来たりて紐を解く [ 3−1 ]
悪魔来たりて紐を解く

3.誘惑とバレンタイン(1)
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「何してるの、ゾール」
 帰宅してダイニングキッチンに入るなり、泉子(もとこ)は呟いた。
 照明のスイッチを押した瞬間、長い手足を折り畳んで屈んでいる悪魔の背中が目に入ったのである。
「泉子、これはすごいな!」
 屈み込んだまま頭だけ振り向いて叫ぶと、ゾールは再び壁のほうに向き直った。つややかな黒い髪がよく見るとかすかに靡いている。位置を変えて別の角度から見ると、ゾールの前には楕円を縦にした形の小型の家電が置かれていた。
 いわゆる羽のない扇風機である。一人暮らしを始める際に実家から持ってきたものなので、類似品の中ではかなり古い機種だと思う。
 泉子が借りている1DKの賃貸では、寝室にしている奥の洋間にはエアコンがあるが、手前のダイニングキッチンには備え付けられていないので、真夏と真冬だけこの羽のない扇風機を使うことにしている。今年は暖冬だったため一度も使わずにいたのだが、昨夜はめずらしく寒かったのでクロゼットから出してきたのだった。そういえばあの時ゾールは姿を消していた。
「羽がないのに、一体どこから風が出てくるんだ? 人間はまた一つ、すごいものを創り出したのだな!」
 ゾールはすっかり興奮して、吹き出してくる温風に顔をあてて喜んでいる。三種の神器を手にした戦後の日本人かこいつは。
 泉子は無言で歩み寄り、テーブルに置いてあったリモコンを手にすると、ゾールの頭ごしに扇風機の電源を切った。
「あ、切ったな泉子」
「無駄遣いしないで。これ、けっこう電気代がかかるんだから」
「機嫌が悪いな。片瀬(かたせ)さんとまた何かあったのか」
 泉子はゾールを睨み、肩にかけていたバッグをどさりと床に落とした。
 事が起こったのは今日の午後、課長が席を外した時だった。歩く好感度こと片瀬真樹(まき)が泉子を含む女性社員を呼び集め、切り出したのだ。四人で費用を出しあって、同部署の男性陣にバレンタインチョコを贈らないかと。
 嫌です、と即答したかった。たとえ少ない金額でも、同僚への義理のために手取りを減らしたくない。一度きりの祝儀や餞別ならまだしも、バレンタインとなれば毎年の恒例になってしまう。だいたい、職場で女性から男性に義理チョコを贈るなんて昭和じゃあるまいし。
 ――などということをそのまま言えるはずもなく、泉子は辛抱強く言葉を選んで抵抗した。まだ給与の低い新人たちにお金を使わせるのはどうなのか。男性たちにもホワイトデーに気をつかわせてしまい、かえって迷惑なのではないか。
 泉子としてはできるだけ角を立てず、情に訴えかけるように主張したつもりだが、片瀬は一点の曇りもない笑顔のまま、真綿で首を絞めるように泉子を追いつめ、ものの五分で決議を勝ち取ってしまった。
 松川(まつかわ)佐伯(さえき)が意外にも乗り気だったこと、男性陣の一人である星野(ほしの)が春に異動を控えており、最後の機会になるであろうことが敗因だった。もっとも、こうした話し合いで泉子が片瀬に勝てた試しはないのだが。
 悔しさと情けなさのあまり、片瀬が向こう一年間に食べるすべてのチョコレートが、あらかじめ包装の中で溶けているように、と魔力を使いそうになったのだが、一呼吸おいて馬鹿馬鹿しくなってやめた。それでも苛々する気分は変わらないままである。
「泉子の機嫌が悪いということは、明日は何らかの菓子がもらえる可能性が高いな」
 電源の切れた扇風機を撫でながら、悪魔が楽しそうに言う。
 頻繁にお菓子をくれる泉子の同僚として、ゾールは片瀬のことをすっかり認知している。泉子と片瀬でちょっとした意見のぶつかり合いがあると、片瀬がフォローのためにお菓子をくれることが多く、その場合ほとんどはゾールの口に入るのだ。
「もらってもゾールにはあげないから」
「冷たいことを言わないでくれ、可愛い人」
 ゾールは扇風機の前に屈んだまま、膝の上で頬杖をつき、にやにやしながら泉子を見上げている。なんだかんだで泉子がお菓子をくれると確信しているのが憎たらしい。
 マフラーを解いて両手に持っていた泉子は、衝動的にそれをゾールの首にかけ、自分のほうに引き寄せた。
「お? なんだ?」
「むしゃくしゃしてるの。ちょっとつきあって」
「いいぞ。コートは自分で脱いでくれ」
「私から誘ったんだから、このぶんの魔力はいらないからね」
「そんなケチくさいことにこだわる悪魔ではないぞ、俺は」
 ゾールはマフラーをかけたまま膝を伸ばして立ち上がり、泉子のつむじから耳の上までなぞるようにキスを落としていく。愛人関係らしく甘いと言っていい行為だが、頭蓋骨のフォルムを堪能されていると思うと今一つときめかない。
 とはいえ、気晴らしになることは確かだ。ゾールがこの部屋に居着くようになって以来、職場でもらうお菓子とストレスの処理はずいぶん楽になっている。
「――ゾール、チョコレートも好きだよね」
 顎の線を悪魔に舐めさせながら、泉子は尋ねた。

 商業ビルの最上階にあるフェア会場は、思ったとおり買い物客で鮨詰めの状態だった。
 いくつかの通路で仕切られた島には背の低いショーケースが並び、その中にはさまざまな種類のチョコレートが、その上には色鮮やかにラッピングされた箱が並んでいる。所狭しと行き交う客は若い女性が多く、ショーケースの内側の店員と話したり、差し出された試食品を手に取ったりしている。
 泉子も彼女たちの中に加わるべく、人混みをかき分け、首を伸ばしながら、一軒一軒のチョコレートを眺めた。
 義理チョコ文化にはさっさと滅んでほしいが、バレンタインそのものは決して嫌いではない。この時季にしか出店しないブランドのものや、限定の商品を見てまわるのは楽しい。
 今年はゾールもいることだし、いつもよりグレードの高いものを、多めに買ってもいいだろう。
 よく冷えていそうな生チョコレートを見ていたら、ケースの向こうから店員に試食を勧められたが、断った。ゾールがどこかで見ているかもしれないので、泉子だけ食べるのは気が引ける。
 オーガニックを売りにした海外ブランドのチョコバーは、ナッツやドライフルーツがふんだんに使われていて美味しそうだ。絵本のキャラクターの形をしたミルクチョコレートは、同じキャラクターの絵が描かれた箱に収まっていて、帰省の予定でもあれば二歳の姪に買っていってやりたい。シンプルな包装紙に包まれたタブレットの並ぶ店には、英語でフェアトレードと書かれたポスターが貼られており、高価なわりに多くの客を集めている。
 国内の有名ブランドの店はさすがにスペースを広くとっており、大きさも色も形もさまざまな商品を並べている。バレンタイン限定の箱や缶はデザインが凝っていて可愛らしいが、ショーケースの中央にあるボンボンのアソートはシンプルな作りで、十個入りのものは義理チョコにも良さそうだ。職場の男性陣に贈るものは片瀬が買ってきてくれるのだが、ついそんなことを考えてしまう。
 ショーケースから顔を上げた泉子は、角をまわった斜め前にいる客に目をとめ、何か引っかかるものを感じた。
 中学生くらいの少女である。友人であろう同じ年ごろの二人と身を寄せあい、ケースの上に積まれた小箱を熱心に眺めている。
 フェア会場にいるのは二十代以上の女性が多いが、中学生や高校生くらいの客もいないわけではない。にもかかわらずその少女が気にかかったのは、どこかで見たことがある顔だと思ったからだ。
 しかし、地元ならともかく都内に未成年の知り合いは少ない。気のせいだと判断し、泉子はいったんその売場を離れた。
 ジェラートの店にできた行列の前まで来て、不意に思い出した。職場で目にした写真の少女に似ているのだ。課長の横田(よこた)がデスクに飾っている、中学生と小学生の姉妹のうちの、姉のほうである。
 振り返って先ほどの店のあたりを見たが、少女は連れとともに姿を消していた。
 写真でしか見たことはないので、本当に横田の娘だったのかはわからない。そうだったとしても、お互い面識はないので挨拶をする必要はない。父親である横田が一緒に来ているなら別だが、友人と三人で来たと考えるほうが自然だろう。
 どうか横田と出くわしたりしませんようにと祈りながら、泉子はジェラートの店の行列を通り過ぎ、島を一周してまた国内有名ブランドのスペースに戻ってきた。和をイメージした箱のデザインが気に入ったので、やはりどれか買って行こうと思ったのである。
 先ほどよりも足を止める客が増えており、ショーケースがほとんど見えなくなっていた。内側にいる店員たちは会計に追われており、選んだ商品を手に順番待ちをしている客もいた。
 後にするべきかと考えた泉子は、足を止め、その売場を改めて見やった。横田の娘らしき少女がまた同じ位置にいる。
 三人の少女が熱心に見ているのは、先ほどと同じくショーケースの上の小箱だった。片手に乗るほどの小さな箱は、五色のマカロンカラーで彩られ、それぞれ同じ色のリボンが付いている。
 中身の量を考えればかなりの割高であるが、フェア会場に並ぶ商品の中では小さいだけあって安価である。中学生のお小遣いでも買えないことはないだろう。
 客の波が引くまでここで待つか、近くの島をもう一周してくるか決められず、泉子が小箱の山を見つめていると、横田の娘がそのうちの一つに手を伸ばした。五色の中でもっとも少なくなっていた、ピンクの箱である。
 それを手に会計の列に移動するかと思いきや、横田の娘は小箱を持った手をコートのポケットに突っ込んだ。見間違いかと思うほど素早く。
 泉子は絶句して少女たちを見つめる。
 声をかけるべきかと思ったが、足が動かない。
 店員たちは客の対応に追われ、少女たちの動きに気づいていないようだった。横田の娘は友人たちとともに売場に背を向け、フェア会場の出口のほうへ歩いていった。片手をコートのポケットに突っ込んだまま。


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