悪魔来たりて紐を解く [ 2−5 ]
悪魔来たりて紐を解く

2.悪徳とフルーツタルト(5)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「佐伯さん、温泉はどうだった?」
 週末明けの月曜日、泉子はコートとバッグをロッカーにしまいながら、隣のロッカーの前にいる佐伯に声をかけた。
「すごい良かったですよ。天気も良くて、星がきれいで」
「いいね。私も行こうかな」
「行ってください。寒いうちがおすすめです」
 つやつやの頬を泉子に見せながら、佐伯がロッカーの扉を閉める。片瀬のように旅行土産を配るつもりはないらしく、泉子は内心ほっとした。そういうことをする社員が一人から二人に増えれば、全員が同じようにしなければならない空気になってしまう。
「千鶴、久しぶりー」
 佐伯はデスクの島に向かい、先に席に着いていた松川に話しかけた。
 週末が二日から三日に増えただけで久しぶりとは。これが若さというやつか。
「何やってんの?」
「金曜日につくった見積書の見直し。間違えてないか、土日の間に不安になって」
「そんなの朝礼の後でいいじゃん。ほんとに真面目なんだから」
 呆れたように言い、佐伯は自分の椅子を引く。
 泉子も二人の向かいに座りながら、気づかれないように松川の顔を覗きこんだ。パソコンのモニタを一心不乱に見つめる大きな瞳は、今日も真面目な新入社員そのものだ。
 少なくとも、仕事が嫌になったとか、佐伯と口をききたくないとか、そういった表情ではない。泉子はひとまず安心した。
 お待たせしましたー、と明るい声がして、片瀬が課長のマグカップを手にして入ってくる。営業メンバーの四人の男性はすでにそれぞれ席に着き、パソコンや手帳を見たり互いに雑談したりしている。
 朝礼のための十五分前出勤は今も継続中である。何らかの区切りで再び話しあいの場を設け、なんとか撤廃できないかと泉子は考えているのだが。
「――えー、今日の連絡事項ですが」
 その朝礼が始まり、部署の全員で理念の唱和を終えると、課長の横田があらたまった調子で切り出した。連絡事項のある日は小話を披露しなくてもいいせいか、口調が心持ちなめらかである。朝礼を毎日するようになって三ヶ月、そろそろネタ切れらしい。
「四月の人事異動で、当部署からも一人送り出すことになりました」
 松川の栗色の頭が弾かれたように持ち上がった。
 片瀬は課長をまっすぐ見つめていて気づいていないが、松川の隣で暇そうにしていた佐伯は気づいたらしい。怪訝そうに首を動かして松川の顔を覗きこんでいる。
 泉子も斜め後ろから松川の表情を窺おうとした。課長に向けている松川の目は真剣を通し越して不安そうに見える。
「営業の星野(ほしの)くんが、名古屋営業所に異動になります。まだ決まったばかりですが、早めに皆さんに伝えたいと本人から希望がありまして」
 えっ、という声が上がり、全員が星野を振り返る。三十代半ばの小柄な中堅社員である星野は、同僚たちを見て照れたように笑っている。
「引き継ぎについては一月中にミーティングをして計画を立てたいと思います。繁忙期に入ってきますので、それまでに星野くんの担当のお客様にご挨拶を――」
 横田の声を聞き流しながら全員が星野を見つめる中、泉子は首をひねって松川を盗み見た。
 松川も同じく星野のほうを見ていたが、どこか放心したような目には何も入っていないように見えた。

「さっきはびっくりしたー。私がどこかへ飛ばされるのかと思った」
 星野を含む営業メンバーを送り出した後、佐伯がパソコンから目を離さずにつぶやいた。
「異動があるなら、朝礼で発表する前に本人に話しますよ、佐伯さん」
「それはわかってたんですけどね。いざってなるとハラハラしちゃって。私、自分でも気づかずに心配してたのかな、この部署から追い出されるんじゃないかって」
「どうして?」
 片瀬がおっとりと尋ねると、佐伯は苦笑して続けた。
「私って態度が悪いし、仕事も雑だし」
「そんなことないでしょう」
「私、ここの部署から出ていきたくないんですよ。やっと慣れてきたんだから、ずっとこのメンバーで仕事したいし。だいたい、いつ辞めるかもわからないのに、わざわざ新しい環境で一から出直したくないし」
 最後の失言に指摘する間も与えず、佐伯は隣の松川に体ごと向き直った。
「千鶴もそうでしょ。ここ居心地いいもんね」
「えっと……」
 松川さんは異動したかったんじゃないの――という言葉を、泉子は口ではなく目で伝えようとした。もっとも、松川は泉子のほうを向いていなかったが。
 朝礼が終わった時の放心した表情のまま、松川はパソコンのモニタを見ていた。いつになくおとなしいその様子は、がっかりしているようにもほっとしているようにも取れた。
「私も、ほっとした。どこにも異動させられなくて」
「だよねー」
 佐伯が嬉しそうに笑い、今度は椅子ごと動いて松川を見つめている。
「はい、おしゃべりはこのへんで、仕事しましょうね、皆さん」
 横田が言い渡すのと同時に電話が鳴り、松川が飛びつくように受話器を取った。
「おはようございます。ユニフォーム事業部営業第一課、松川です」
 電話の相手に小さく頭を下げる後輩を、泉子はキーボードを叩きながら見つめる。
 松川の本心は泉子にもわからない。本当にどこかに異動したがっているなら、今度は片瀬にも同席してもらって、もう一度じっくり話を聞いてやったほうがいい。その上で、片瀬が必要だと判断したら、横田に相談を上げることになるだろう。
 しかし、受話器を手にしながらメモを取る松川の顔は、どこか晴れ晴れとしているように見える。朝礼で異動の話が出た時の怯えたような態度とも、異動するのが自分ではなかったと知った時の気の抜けた表情とも違う。
 どこかへ飛ばされるのかと思った、異動させられなくてほっとした――
 それが松川の本音だろうか。だとしたら、実にめんどくさい話である。
 めんどくさいが、このほうがきっと人間らしいのだろう。
 仲の良い同期に劣等感を抱き、一緒に働きたくないとまで思いつめ、しかし、いざその可能性を突きつけられると動揺し、思い違いであったことに安心するとは。
 一人でコンビニスイーツを食べるのが何より好きな泉子には、とうてい理解しがたい人間らしさだ。

「最後のフルーツタルトか」
 皿に載せた桃のタルトを見つめ、ゾールが名残惜しそうにつぶやいた。
「明日のぶんも買ってあるけどね」
「今日と明日で最後か」
「また美味しそうなのがあったら買うから」
 コンビニのフルーツタルトは二週間の限定販売だった。昨日の金曜が最終日だったので、泉子は仕事帰りに店に寄り、まとめて四つ買ってしまった。桃が二つ、ミックスベリーとレモンが一つずつ。まだ食べていないものをゾールとそれぞれ土日に食べようと思ったのだ。
 他人との関係にぐずぐず悩み、泣いたり笑ったりするのは真人間たちに任せ、泉子は悪魔的な楽しみに耽らせてもらうとしよう。
 泉子はゾールの向かいに座ったが、自分の桃のタルトには手をつけず、テーブルに置いていた文庫本を開いた。芥川龍之介の『煙草と悪魔』が入っている作品集だ。明日も図書館に行くのでそれまでに読み終えなければならない。
 暇を持て余した悪魔が植えた植物は、幾月かのうちによく育ち、紫の花をつけるようになる。
 ある日、畑の側を通りかかった商人が、そのめずらしい花に目をとめ、世話をしている西洋人に問いかける。お上人様、その花は何でございます。
 西洋人に化けた悪魔は教えられないと言うが、商人は、自分も近ごろキリスト教に改宗した者であるから、どうか教えてほしいと重ねて頼んでくる。
 すると、悪魔はこんなふうに答える。あなたがこの花の名を当てることができたら、これをみんなあなたにあげましょう、と。
 商人はこれを冗談と受け取り、当たらなかったら自分が相手の望むものを与えると請けあうが、その約束の直後、帽子をとった西洋人の頭に、羊のような角が生えているのを見てしまう。
 悪魔の罠にかけられたと気づいた商人は、キリスト教徒の魂を取られるわけにはいかないと、期限までに植物の名前を知ろうとする。神に祈り、作戦を立て、他でもない悪魔自身の口から、その名前を聞き出すことに成功する。
 はるばる海を渡った悪魔が日本にもたらした花の名は――煙草。
「煙草?」
 泉子は思わず声を出した。テーブルの向こうにいるゾールが、タルトを口に入れたまま目を上げた。
「待って、煙草なの? そんな落ち?」
 『煙草と悪魔』は以前にも読んだことがあったし、そもそもタイトルに煙草と入っているのだから、この結末はもちろん知っていた。
 にもかかわらず拍子抜けしたような気分になったのは、悪魔がもたらしたものが何なのか、真剣に考え抜いた直後だったからだ。
 よりによって煙草とは。全身からニコチン臭を漂わせた瀬野を思い出して、泉子は思わず顔をしかめる。あの害悪の原因をつくったのが悪魔だったのか。おのれ許すまじ。
「どうした、泉子」
「なんでもない――なんか、考えて損した」
 泉子は文庫本を離れた位置に置き、マグカップからコーヒーを一口飲み、フォークを手に取った。
「泉子も手で食べてみてはどうだ。そのほうが美味いぞ」
 暢気に言うゾールは今日もフォークは使わず、手で持ち上げたタルトをほとんど食べ終えている。日本に煙草を持ち込んだのが彼の仲間かと思うといっそう腹が立ってくる。
「変わらないって。手を汚すよりきれいに食べたほうがいいでしょ」
「いや、絶対に手で食べたほうが美味い」
「それなら後で手を洗ってよね」
 桃のタルトをフォークで切り分け、一口ずつ口に運んでいく。気が抜けたのと腹が立つのとで、食べるペースが自然と速くなってしまう。
 一心不乱に食べ進めていると、フォークを持つ手をいきなり掴まれ、前に引き寄せられた。驚いて反応できずにいるうちに、泉子のフォークがゾールの口に吸い込まれていく。
「――うん、やはり手で食べたほうが美味い」
 人の手を掴んだまま咀嚼し、真顔でつぶやくゾールの顔を、泉子は呆気にとられて見つめた。
「な――何てことするの、この悪魔! 最後の一口だったのに!」
「また美味そうなものがあれば買ってやる」
「買うのは私でしょ!」
 空になった二枚の皿を前に泉子は喚き続けたが、悪魔はまるで動じた様子もなく、泉子を見つめてにやにやと笑っていた。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.