悪魔来たりて紐を解く [ 2−4 ]
悪魔来たりて紐を解く

2.悪徳とフルーツタルト(4)
[ BACK / TOP / NEXT ]


 昼休みが来ると泉子は松川とフロアを出て、近くのビルに入っているファミレスに向かった。
 ランチは一人でとるのが好きだし、飲み会なども極力避けているが、後輩たちに相談に乗ってほしいと言われたら、昼休みでも定時後でも断らないようにしている。
 もっとも、松川も佐伯も勤務時間外に誘ってくることはほとんどない。わからないことや不安なことは仕事中に訊いて解決している。業務以外の愚痴をためこむ様子がないのは、二人が同期だけあって互いと仲が良く、ランチや仕事帰りに感情を共有できることが大きいのだろう。
 と、泉子は思っていたのだが。
「それで、相談したいことって?」
 壁際の席に二人で向かいあって着き、タッチパネルで注文を済ませると、泉子は単刀直入に切り出した。
 片瀬ならばまず他愛ないおしゃべりから入り、後輩の緊張を解きほぐしてやった上で、自然に本題を引き出そうとするのだろうが、泉子はそういった気の長いことができない。話題を見つけようと思えば見つからないこともないが、もってまわった進め方はどうにも向いていないのだ。
 松川は向かいの席でうつむきがちに座っていた。コートを椅子にかけ、襟ぐりが浅めのアイヴォリーのニットに、フィッシュボーンにした栗色の髪を垂らしている。私立の女子大に通うお嬢さんといった風情だが、昼休みの会社員でごった返すファミレスの空気にも、浮くことなく不思議と馴染んでいる。
「――仕事の、配属のことなんですけど」
「うん」
「四月になったら、人事異動がありますよね」
「うん、あるね」
「その時に、私をどこかへ異動させてもらえないでしょうか。本社から離れるのはちょっと……ですけど、隣の二課などへ」
 泉子は無言で松川を見つめてしまった。
 隣の営業第二課と言えば、先日、松川を怒鳴りつけた瀬野がいる部署だ。いや、それ以前に。
「松川さん、異動したいの?」
「はい」
「なんで? 何か希望――」
 言いかけて、泉子は口をつぐんだ。松川は泉子と目をあわせず、テーブルに置かれた水のグラスを食い入るように見つめている。
 主任ですらない泉子には、人事に関わる権限は一切ない。松川にもそれはわかっているだろう。
 松川が本当に泉子に言いたいのは、異動したいという希望ではない。
「えっと……何か不安なことでもあるの?」
 できるだけ柔らかい声を出すように努め、泉子はあらためて問いかけた。
 相手の緊張を和らげて優しく聞き出すのは苦手だが、詰問するようにずけずけと一方的に尋ねたりしては、松川はたぶん二度と本音を話してくれない。
「松川さん、仕事にもすっかり慣れたし、佐伯さんとも仲良くしてるし――」
 ――片瀬さんも松川さんを気に入ってるし、うまくいってると思うんだけど――と続けるつもりだったが、泉子は途中で黙った。泉子の言葉を聞きながら、松川の様子が明らかに変わったからである。
 見間違いでなければ、泉子が佐伯の名前を口に出した瞬間、松川の視線が怯えるように揺れた気がするのだが。
「松川さん? 大丈夫?」
「あ――はい」
「佐伯さ――」
「お待たせいたしました、しらすと大葉の和風パスタのお客様ー?」
 場違いに明るい声が泉子の言葉を遮り、深まりかけた会話の腰を折った。
 泉子は和風パスタを、松川はチーズリゾットを前にして、しばらく黙り込むことになった。二つの皿から立ち昇る湯気だけが、ほくほくと明るい雰囲気を醸し出している。
「と……とりあえず、食べようか」
「はい……」
 泉子がフォークを手に取ると、松川もスプーンを手にした。白く輝く米粒をすくおうとしたところで、その手は止まってしまった。
「松川さん?」
「――さっきのお話なんですけど」
 松川がようやく口を開いたので、泉子もフォークの手を止めた。
「うん」
「別の部署に行かせてもらうのは無理でも、業務の割り振りを、少し変えてもらえませんか。佐伯さんと――一緒に仕事するのが、ちょっと辛くて」
 先ほどの松川の様子から、うすうす予想できていたことではあった。
 けれど本人の口からいざ聞いてしまうと、泉子は目を見開いて松川を見つめずにはいられなかった。
 松川千鶴と佐伯和華。二人は新卒の同期だけあって仲が良く、互いの足りないところを補いあっているように見えていたが。
「何かあったの?」
「何も――佐伯さんは気にしていないと思います。ただ、私が勝手に辛いと思っているだけで」
「松川さんは真面目だから、佐伯さんのフォローまでしてくれることがあるよね。それが負担なら、私の責任――」
「いいえ。私は和華ちゃ――佐伯さんのフォローなんてしてません。私より佐伯さんのほうが、ずっと仕事ができますから」
 なんとなく話が見えてきて、泉子は乗り出していた身を引いた。
「私から見たら、松川さんも佐伯さんも、同じくらい仕事ができてるよ」
「そんなことないです。私はいつも失敗ばかりで、この間だって」
 瀬野に叱責された、システムの移行の件だ。忘れかけてくれていると思っていたが、やはり今も気にしていたのか。
「あれは私のミスだって。松川さんは本当に、何も悪くないから」
「あのことだけじゃありません。私は仕事を覚えるのも遅かったし、慣れてきてからもミスが減らなくて……和華ちゃんは、なんでもすぐにできるのに」
 指導をした泉子から見て、松川と佐伯に能力の差はほとんどない。松川のほうが覚えはやや速かったくらいだ。
 ただ、松川が小さな失敗をいつまでも気に病み、新しい仕事に怖じ気づくのに対して、佐伯は間違えてもけろりとしているし、注意されても聞き流してさっさと切り替える。指導者として終日ついて観察していなければ、佐伯のほうが仕事ができるように見えることもあるかもしれない。
 できる新人、できない新人、というイメージが一度ついてしまうと、周囲も彼女たちをそのように扱う。本人――特に生真面目な者はその評価を内面化し、自分はできないと思い込んでますます自信を失くす。そうなったら、あとは負の連鎖だ。
 ということを泉子は松川に説こうとしたが、少し考えてから口をつぐんだ。松川はスプーンを握りしめ、泉子と目もあわせず言葉を絞り出している。今はただ聞いてやることがいちばん効くのかもしれない。
「和華ちゃんは自分ができるだけじゃなくて、私のこともよく助けてくれるんです。同じ新人なのに……。この間だって、私が瀬野課長に注意されて落ち込んでいたから、お昼休みにたくさん慰めてくれました。千鶴は悪くないって」
「うん。二人はいい同期だよね」
「はい……嬉しかったんですけど、私、自分が情けなくて。篠山さんと片瀬さんに迷惑をかけて、同期の和華ちゃんにまで気を遣わせて」
 泉子には、仲の良い同期という存在がいない。同じ年に新卒で入った二人はどちらも男性で、一人は総務部に配属されたので接点が少なく、もう一人は三年目から大阪営業所に異動になった。
 煩わしい付き合いをしなくて済むのは泉子にとっては幸運だが、不安や愚痴を共有できる仲間がいるのも悪くないことだなと、松川と佐伯を見て感じていたところだったのだが。
「和華ちゃんは仕事だけじゃなくて、コミュニケーションも上手ですよね」
「うん、まあ、なんでもはっきり言うしね」
「私は全然なんです。課長とか、阿佐田(あさだ)さんとかも、和華ちゃんには、彼氏いるの? って気軽に訊いたりするのに、私には訊いてこないし」
「松川さん、ああいうこと言われたいの?」
 泉子は驚き、思わず口に出してしまった。
 課長の横田や営業メンバーの阿佐田は、特に片瀬が異動してきてからは、女性社員にプライベートな質問をしがちである。片瀬は笑顔で付き合うが、佐伯は鬱陶しそうに聞き流している。
 松川がそういった会話に巻き込まれずに済んでいるのは、お嬢さん然とした雰囲気のために軽口を叩きづらいからだと思うが。
「言われたいわけじゃないんですけど……和華ちゃんは訊かれてるのに私は訊かれないのは、何か私に足りないところがあるのかなって……」
 めんどくさい。
 泉子はシンプルにそう感じたが、松川の言うことも理解できなくはなかった。大して価値があると思わない、自分にとって重要でないものでも、他人が持っていて自分が持っていなければ、なぜか自分が劣っているかのように感じてしまう。他者からの扱いという曖昧なものならばなおさらだ。同期と上司と三人でいて、上司が同期にばかり話しかけるのでは、無視されているようにも感じてしまうかもしれない。
 一人でいれば孤独感、二人でいれば劣等感、三人いれば疎外感。これは誰の言葉だったか。
「とにかく……和華ちゃんと一緒にいると、こんなふうに余計なことばかり考えてしまって、辛くなるんです……和華ちゃんは何も悪くないのに」
「それは――困ったね」
 泉子がしてやれることがあるとすれば、上司である横田に松川の様子を伝え、四月から佐伯と別の部署にしてやれないか打診することくらいだ。聞き入れられるかどうかはわからない。
 第一、松川のこの性格では、異動しても悩みが消えることはないのではないか。どの部署に行っても他人と一緒に働くことは避けられない。また別の誰かと自分を比べて、くよくよと落ち込むのが関の山ではないのか。
 泉子はふと、先日ゾールと交わした会話を思い出した。人間は美味しいものを食べるのも誰かと共にしたがるが、悪魔は何人で食べようが美味しいものは美味しいと言う。
 他人と群れるのが人間的で、一人で過ごすのが悪魔的。
 ならば、一人でコンビニスイーツを味わう楽しみこそが、悪魔が人間に吹き込んだ悪徳なのではないか。泉子はそんなことを考えかけ、鎖骨に触れたがるゾールに中断させられたのだった。
 けれども、今の松川を前にしていると、仲の良い同期との関係に悩む彼女のほうが、悪魔に取り入られたかのように苦しんでいる。
 いや、苦しむのは真人間だからこそなのか? 全身どっぷり悪魔のものになってしまえば、人間らしい苦しみからは解放されて、あらゆる悪徳も楽しめるようになるのだろうか。それならやはり孤独こそが悪魔のもたらしたものではないか?
「ごめんなさい、弱音ばかり聞いてもらって……パスタ冷めちゃったかもしれないですね」
 ひとしきり吐き出して落ち着いたのか、松川は泉子の手もとを見つめていった。泉子はフォークを、松川はスプーンを握りしめたまま、それぞれの皿に一口も手をつけていなかった。
「そんなのいいよ。でも、食べようか。昼休みも残り少ないしね」
「はい」
 松川は素直にうなずき、リゾットに入れたままのスプーンを動かした。泉子も一息ついてフォークにパスタを巻きつける。すっかり冷めてしまってはいるが、大葉の良い香りは消えていない。
「ここ、和華ちゃんともよく来ます」
 互いに何口か食べ進めたところで、松川が顔を上げてつぶやいた。
「そうなんだ」
「一人で来ている人も多いですよね。いつも、すごいなって思いながら見ているんです。私は一人で外食したことがなくて」
 オフィス街にあるファミレスには一人で座れる席がいくつもあり、会社員風の男女がやってきては、優雅に、人によっては慌ただしく、ランチを済ませては去っていく。
 泉子も普段は彼らの一員だ。たとえ悪魔的と言われようと、一人で食事をする楽しみは何ものにも代えがたい。一人でいれば、誰かと自分を比べて要らぬ劣等感に苛まれることもない。
「松川さん、鎖骨がきれいって言われたことある?」
 泉子が尋ねると、松川はスプーンを口に近づけたまま静止した。
「え?」
「あ――いや、ごめん。セクハラだったね」
「ないと思いますけど……どうしてですか?」
「なんでもない。忘れて」
 松川も、泉子の百分の一でもいいから、悪徳に染まってみてもいいのではないか。そう思ったなどとは口が裂けても言えない。
 もっとも、すべての悪魔が骨フェチなのかどうかは知らないが。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.