悪魔来たりて紐を解く [ 2−3 ]
悪魔来たりて紐を解く

2.悪徳とフルーツタルト(3)
[ BACK / TOP / NEXT ]


「なるほど。それでこのタルトを買ってきてくれたというわけだな」
 りんごのタルトを長い指で持ち上げながら、ゾールが楽しそうに言った。今日もきちんとフォークを添えたのに、使うつもりはないらしい。
「それでってわけじゃないけど」
「仕事が遅れていたから、泉子の後輩が叱られた。後輩が叱られたから、泉子が職場でタルトを食べることになった。泉子がタルトを食べたから、俺もこれを食べられることになった。風が吹けば桶屋が儲かるというやつだろう」
 なぜ日本の諺を知っているのだ、この悪魔は。
 いや、そもそも日本語を流暢に話しているし、外見も日本人というか東洋人に見えるし、日本で生まれた(悪魔も生まれるのか? どうやって?)か、もしくは日本にやって来て長いのだろうか。
「まあ、簡単にまとめるとそういうことなんだけど」
 泉子はこたつテーブルに頬杖をつき、恍惚としてタルトを頬ばるゾールを眺めた。今日はゾールの分だけで、自分のタルトは買ってきていない。勤務中にすでに一つ食べたからだ。
 昼休み、泉子がランチを終えて部署に戻ると、お弁当を食べ終えていた片瀬が入れ替わりに出かけ、コンビニの袋を下げて戻ってきた。中から出てきたのはミックスベリー、レモン、桃、りんごのフルーツタルト。泉子が昨日ゾールと食べたのと同じものだ。
 新人の二人がランチから戻ってくると、片瀬は泉子を含めた三人を呼び集め、一緒に食べようと笑顔で切り出した。おそらく松川を励ますために買ってきてくれたのだろう。
 泉子としてはゾールに持ち帰ってやりたかったが、明らかにこの場で四人で食べようという雰囲気だった。片瀬がまず新人の二人に好きなものを取らせ、残った二種類のうちから泉子に選ばせてくれたので、泉子はまだ食べていないりんごを選んだ。
 課長も営業メンバーもいないフロアで、女性ばかりの四人で席に着き、それぞれのタルトにフォークを入れた。りんごの果肉がたっぷり載ったタルトは瑞々しくて美味しかった。
 美味しかったが、自分だけ食べたことがやや後ろめたく、今日も帰りにコンビニに寄って、同じりんごのタルトを一つだけ買ってしまった。
「泉子も自分のを買ってくれば良かったのに」
「一日に二つは食べすぎ。それに、結構いいお値段なんだから」
 そう言いながら、泉子はタルトをかじるゾールの口もとから目が離せなくなっている。今日は一時間ほど残業をして夕食も外で済ませたので、高カロリーのスイーツを摂取していい時間ではないというのに。
 ひょっとして悪魔の所業というのは、甘いものを美味しそうに食べて見せることで人間を誘惑し、飽食と肥満の道に引きずり込むことなのだろうか。なんて邪悪な生き物だ。
 美味しそうと言えば、ゾールは一人で食べることにもまるで抵抗がなさそうである。昼休み明けの職場で、同僚たち四人で食べた時のことを思い出し、泉子はゾールを見つめたまま無表情になる。
「ゾールはさあ――」
 のろのろと口を開く。
「一人で食べるより、誰かと食べたほうが、美味しいって思ったことある?」
 ゾールはタルトにかぶりついたまま黒い瞳を向けた。一口かじり、味わって呑み込んでから、やや胡乱な目で泉子を見る。
「泉子もやはり食べたくなったのか? もうやらんぞ」
「そうじゃないって。たださ、よく言うでしょ。一人で食べるご馳走よりも、みんなで食べる質素な食事のほうが美味しいって」
「ああ、人間どもの謎の習性の一つだな」
 ゾールは指で挟んだタルトの残りを見つめ、めずらしく機嫌の悪そうな表情になった。つまらない話を聞いたばかりにタルトの味が落ちたとでも言うように。
「謎なの?」
「謎だろう。一人で食べようが、何人で食べようが、美味いものは美味い」
「じゃあフォーク使ってよ。手で食べようがフォークで食べようが、美味しいものは美味しいでしょ」
「それは違うぞ。手で食べれば口に入るのはタルトだけだが、フォークを使うと金属だのプラスチックだのが一緒に入ってくるから味が落ちる」
 納得できるような納得できないような、悪魔が説くフォーク不要論について泉子は考えかけ、論点がずれてきたことに気づいて急いで口を開いた。
「えっと、話を戻すけど、一人で食べるより誰かと食べるほうがいいって考え方は、悪魔にはないってことなんだね?」
「他の悪魔のことは知らん。愛人と長く一緒にいるうちに、人間の奇習に染まってしまう悪魔もいるらしいがな」
「でも、あなたは違うんだよね」
 遠慮なく一人でタルトを平らげ、指先を舐めているゾールを見て、泉子は自分を見初めた悪魔が彼で良かったと思う。人間の男のように片時も離れず恋人といたがり、食事でもスイーツでも一緒に食べたほうが美味しいなどと言われたら、鬱陶しくてとても長続きしなかっただろう。
 しかし、同時に思い出されるのは、今日の職場でのできごとだ。
 片瀬が買ってきてくれたタルトを食べるころには、松川もだいぶいつもの笑顔を取り戻していた。昼休みに佐伯と話したことも効いたのだろう。
 松川を励まそうという共通の認識があり、課長の横田がいないことも相まって、今日のフロアはいつも以上に和やかだった。その空気の中で食べたりんごのタルトは、決して不味くはなかった。美味しかった。
 より美味しいのはどちらかと問われれば、やはり一人で食べるほうが美味しいと思うのも事実だが。
「――私はひょっとして、人間よりも悪魔に近いのかな」
 こたつテーブルに手を重ね、その上に自分の顎を載せて、泉子は独り言のようにつぶやいた。
 泉子は学生時代からずっと一人暮らしで、外でも一人でいることのほうが圧倒的に多い。仕事中のランチも一人で出かけるし、図書館や映画館はもちろん、買い物も、外食も、たまに観光地に足を伸ばす時もたいてい一人だ。そして、そのことを楽しいと思いこそすれ、寂しいと感じたことは一度もない。
 恋人も、友達も、とりたてて欲しいとは思わない。
 ただ、欲しいと思えない自分は間違っているのではないか――人間として何かが欠けているのではないかと、考えてしまうことはしばしばある。
 仕事で理不尽に怒鳴られても、同期に慰められ、先輩にタルトをご馳走され、そうやって元気を取り戻していくのが人間として正しいのだろうか。
「よく知らんが、人間どもがよく群れたがる生き物なのは事実のようだな」
「まあ、人間は群れないと生きていけないとこがあるからね。悪魔と違って」
 いくら一人でいるのが楽しかろうと、完全に世間との関わりを断つことはできない。泉子も実家の集まりには嫌々ながら顔を出すし、会社員として同僚や上司への最低限の礼儀は守っている。
 現代ではそのくらいのことで済むが、昔はもっとしがらみが多かったはずだ。つい半世紀前にはほとんどすべての男女が結婚を強いられたし、親戚や近所とのつきあいも、勤め先との関わりも、今とは比べ物にならないほど込み入っていただろう。二十一世紀人で本当に良かった。
「――え? あれ?」
 何か重要なことをかすめたような気がして、泉子は自分の手から顎を上げた。
 他人と群れるのが人間的で、一人で過ごすのが悪魔的。悪魔のように一人でいることが可能になったのが、人類の歴史上でもごく最近のことだとしたら。
 つい先日、泉子が考えたことと、どこかで繋がっているのではないか。
「どうした、泉子」
「待って。あとちょっとで重大なことに気づきそう」
「重大なこと?」
「悪いけど話しかけないで」
「そなたの鎖骨の美しさより重大なことなどないぞ」
「話しかけないでってば!」
 背筋を伸ばして声を荒げると、頭の中の考えが一瞬で霧のように散ってしまった。あと少しだったのに。
 恨みがましい目で正面を見ると、悪魔は姿勢を崩してけらけらと笑い転げていた。この世のものとは思えないような、美しい、黒い瞳を泉子に向けて。
「泉子が悪い。そんな、鎖骨を見せるためにあるような服を着ているからだ」
「――これは、たまたまだから!」
 泉子が着ているのは襟ぐりが深めに開いたアンゴラ風ニット。仕事中に佐伯が褒めてくれたものだ。
 これを着ているのはゾールのためではないが、これを買ったのはゾールのせいである。
 鎖骨という体のごく一部分とはいえ、美しい美しいと毎日のように褒めそやされたら悪い気はしないし、デコルテを見せる服が似合うという自覚は以前からなくもなかった。それで先週の日曜日、映画館の帰りに立ち寄った店でこれを見つけ、まんまと試着して買わされてしまったというわけだ。
「だいたい、あなたは服の下の下の下まで見えているんでしょ」
 だから、ゾールのために鎖骨が見える服を着てやる理由はないのだ。まるで、これっぽっちも。
「見えているが、あえて皮膚の上から見てみても、やはりそなたの鎖骨は美しいな」
 ゾールはこたつテーブルの上に両手をつき、泉子のほうへ身を乗り出してきた。
 黒くきらめく二つの瞳を見て、泉子はやれやれと思いつつ目を閉じて首をそらせる。
 食欲が満たされたら今度は性欲。こういうところは人間の男と同じなのか。

「篠山さん、おはようございます」
 いつもの時間に出勤し、エレベーターが来るのを待っていると、背後から声をかけられた。
 松川である。パステルブルーのコートの上に栗色の髪束を垂らし、今日も清楚で真面目な新人社員の出で立ちだ。
「おはよう、松川さん。今日はちょっと寒いね」
 泉子が笑顔をつくると、松川も小さく微笑んだ。
 瀬野に怒鳴られた日から数日が経ち、今日はもう金曜日だ。見る限りではほとんど元気を取り戻し、以前と同じく真面目に業務をこなしている。まだ、自分から新しい仕事に手をつけるまでには至っていないが。
「篠山さん。今日のお昼、ランチを一緒にしてもらえませんか? 相談したいことがあるんですけど」
「もちろんいいよ。ランチってことは、佐伯さんも――」
 言い終わる前に泉子は思い出した。今日は佐伯が有給休暇を取っていた日だ。金曜から三連休にして温泉に行くと話していた。
「和華ちゃ――佐伯さんはお休みです。篠山さんと、二人でお話がしたいんです」
 純情そうな大きな瞳で、松川は泉子を見つめていた。


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.